第6話 文明崩壊後

 あの日の帰り、私は拳法を教えてもらったお礼に、絵を描くところを見せる約束をした。


 川上くんが道場に誘ってくれたのと同じように、私は叔父の遺したアトリエに彼を呼んだ。アトリエと言っても、そこは床の抜け落ちてしまいそうな荒ら屋で、昼間だって薄暗いし、絵の具の匂いがするだけのお化け屋敷みたいな場所だった。


 映らないテレビ(ブラウン管)に、壊れた冷蔵庫、カタカタと嫌な音のする扇風機……。まともな家電は私の持ち込んだ電気ポットとMDコンポだけで、椅子も机も朽ち果てて、まるでクッキーのようにパキパキと欠ける。


 ――アトピーとか霊感はありませんよね?

 

 ケータイでそう送ってみると、


 ――たぶん大丈夫です(笑)

 

 との返信がきた。念のため塩を持参します、と塩の絵文字つきで綴られてある。塩の絵文字なんてあったんですね、とさらに返した。

 

 約束の日は、花曇りと表現するのがぴったりの日で、ときおり小雨がちらつくでしょう、とラジオの天気予報は言っていた。ふざけて「here」と赤文字で入れた航空写真に、座標を添えたスパイ風の写メを送ったのだが、川上くんはきちんと時間通りにやってきた。


「本当に絵の具の匂いがしますねー」

 

 川上くんは感心したように言って、細長い紙袋に入った手土産をくれた。八重桜の花弁の入った、淡いピンクのワインだった。私は川上くんをなかにあげると、タイルの流しで埃まるけのグラスを洗い、ボロボロの椅子に座って乾杯をした。ツマミになるようなものがなかったので、アトリエ中を探しまわり、オイルサーディンとオリーブの缶詰を見つけてきた。隅の割れた磨りガラスの戸から、細い雨の音が聞こえはじめた。


「ダサいことを言うようですけど」


 川上くんは、薄ピンクのワインを見つめてそう言った。


「世紀末みたいですね。というか、終わったあとの世界。文明崩壊後、みたいな」

「たしかにシェルターみたいな場所ですよね。私もよく思います。生き残ったのは私だけ。もう世界には私しかいない。私が死ねばこの世界も終わる」

 

 私もとびきりダサいことを言って、画材を並べる準備をした。ベッドに腰かけ、前に美術室にあるような作業台を置くと、隣に川上くんを座らせた。古いマットレスから埃があがったのか、彼は大きなくしゃみを立て続けにした。


「手をください」


 私は左手を上向けて膝に置き、さも一般的な手順であるかのように川上くんに言った。彼は一瞬、不思議な顔を浮かべたようにも見えたが、結局、何も訊き返さずに右手を重ねた。私は目を閉じて、左手から流れ込んでくる印象に、そっと耳をかたむけた。


「写実的に描くだけでは駄目だ。それでは素人の写真にも負けてしまう。印象を描くんだ。いたずらに抽象に逃げてはいけない。捉えどころのない印象を写実的に描くんだ」


 私に絵のいろはを教えた叔父は、折に触れてそう言っていた。なぜかいつも苦しげで、着古した半纏からはきつい煙草の匂いがした。叔父が何を悩んでいたかは知らないが、私にとっては、印象をそのまま描き出すことなど、造作もないことだった。美味しいカレーを作るより、よっぽど簡単なことだと思う。


 とはいえ、描きあがった絵を評価する人はほとんどいない。いても描き出された当人だけか、もしくは本当に皆無だった。喜ぶか、泣きだすか、絵を描かれた相手の反応は、そのどちらかと決まっている。


「何をしてるんですか? ……何か気を流し込んでる?」

「しゃべらないで」


 私は川上くんと手を合わせたまま、反対の手で絵の具を集めた。青、白、緑、黄色、灰色、黒――。淡い湯煙のような伙が見える。滾々と泉のように湧き出して、けれど激しく逆巻くような。……いや、何かある。伙の炎心にべつの何か、同一人物のものとは思えない、異彩を放つマゼンダの明かり。


「……なかに何かある」

「え?」川上くんが怪訝そうな声をあげる。


 私は目を開けて、両方の手を彼と繋いだ。

「こっちの手から流し込んで」

 私は右手をぎゅっと握って、

「逆にこっちから流れ込んでくるのをイメージして」

 次に左手をぎゅっと握った。


「ぐるぐると?」

「そう」


 私が頷くと、川上くんは素直に目をつむった。

 伙が回る。伙が回る。深く、深く、潜っていく。

 これが私の特異な力。


「入っていい?」


 妄想だと言われたって――、どちらだって変わりない。


「え、……はい」川上くんは頷いた。


 私は息を整える。

 厳然たる世界を置き去りにして、深く、深く、散り散りになる。

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