第3話 日が落ちた頃


 半日ほどが経過し、研究室のある施設の外で日が落ちた頃、樫鞍は自室へと戻った。


 ――立場が違うのに愛する事は、人を傷つける。


 樫鞍はそう考えている。

 相容れない理論を語る水折の存在を、樫鞍が強く意識するようになったのは、俗に言う思春期の頃だ。普段性的な気配がしない水折の部屋に、驚かせようと気配を殺して向かったあの日、シャワー上がりの水折の裸体を目撃してしまった瞬間だ。


 白い華奢な手でタオルを持ち、髪を拭いているこちらに気づいていない水折を見て、樫鞍はすぐに踵を返した。だが、あれ以来、樫鞍の脳裏からは水折の肢体が焼きついて離れなくなった。


 以来、樫鞍は共にいると、水折を意識するように変わったが、水折にとって自分は、唯一そこにいる他者に過ぎないのだろうと推測している。


 樫鞍は、己が水折に執着しているのは間違いないが、これが恋という名前をしていると認めるのが怖いと考えている。なにせ、死ぬまで二人きりなのだ。定められた百五十歳という規定寿命を迎え、揃って死ぬその日まで、例え振られたとしても、樫鞍と水折は共にこの地下区画にある楽園研究室で過ごさなければならない。子供は作ることになるが、底に気持ちの有無は考慮されない。生涯の内の半分以上を気まずい空気のまま過ごす事など考えたくもない。


「あー、本当、怠ぃ」


 煙草を銜えた樫鞍は、酒の缶を開けた。嗜好品は、楽園研究室の地下にある、文明記憶再建施設で手に入れる事が可能だ。その隣の地下スペースに、樫鞍と水折の私室、居住スペースが存在する。現在は、樫鞍に与えられた私室のデスク上のモニターを見ながら、煙草を吸っている。光学キーボードを叩きながら、樫鞍は新の記録を確認する。


 実を言えば、樫鞍はそれほど、制限理論を地上に広めたいとは考えていないのだと思う。そうして人を増やす必要性を、それほど感じてはいない。このまま生涯、水折と自分にとっての楽園で二人、過ごしたいというのが本心だ。水折を自分の腕の中に閉じ込めておきたい。


「水折を……俺のものにする、か」


 自分の思考に、一瞬困惑した。だがそのまま水折を実験室に囲い、自分の思うがままに愛でたいという思い強くなり始めた。慌てて酒を飲み込み、樫鞍は動揺を収めようとする。


 炭酸の泡は心地よく樫鞍の舌を濡らしたが、思考は乾いている。


 ――いいや、乾いているのは、体なのだろうか?


 多分水折でしか、己は満たされないのだろう。


 ――水折が欲しい。


 そんな事を考えてから、樫鞍はコントロール装置を操作し、モニターに新のいる実験室を映した。黒いカメラを設置してあるのだが、そこに録画されている映像が流れだした。


 今は、視覚を封じる実験をしている最中だ。記憶を消去し、『見える』という感覚を知らない状態にしている。樫鞍は現在、『本能生体研究』として、被験者の新の身体状況を観察している。


 ブツンとモニターの電源を切った。

 椅子の背をギシギシと軋ませて、煙を吐き出す。

 ノックの音がしたのは、その時の事だった。視線を向ければ、水折が入ってきた。


 色素の薄い髪と瞳。大きめな形の良い目を、眼鏡の奥に隠しているが、惹きつけられる。樫鞍が知るいかなる人間よりも魅力的だ。柔らかそうな唇にも、絹のような触り心地の良さそうな髪にも、服から覗いている鎖骨にも、全てに樫鞍は心を奪われている。


 水折は可愛い。本当に可愛い。


「何か用か?」


 だがそんな内心を押し殺し、樫鞍は笑うでもなく顔を向けた。本人を前にすると、優しい言葉は上手く出てこない。おそらく傍から見たら、樫鞍は水折に冷たいだろう。


「楽園管理部から、荷物が届いていたから、代わりに受け取っておいたんだ」

「管理部から?」


 地下区画は数多あるのだが、それを管理する本部が、存在する。何だろうかと記憶を辿ったが、特に思いつかない。首を捻っていると、水折が手にしていた箱を、近くのテーブルに置いた。


「内容確認が必須だったから、開封させてもらったよ」

「悪いな。で、中身は?」

「――大人の玩具」

「……ああ」


 樫鞍はひきつった顔で笑いそうになった。よりにもよって、水折には見られたくなかった。女性のサンプルに突っ込む用途の卑猥な玩具を、実験用と称して購入した事を、やっと思い出した。


「何に使うの?」

「……感覚制限実験もしているんだ」

「ヒタカミの原始人を抱き潰しているという理解でいい?」

「……今は違う。今回のサンプルは男だ」

「本当にそれは実験なの?」


 水折が眼鏡の奥で瞳をすっと険しくしたのを見た。それが嫉妬だったらよいのにと思う感情と、人権について説教されるのだろうという理性が、樫鞍の脳裏で戦い、理性が勝利した。嫉妬などあり得ないだろうと判断する。


「お前が『原始人』なんて言葉を使うのも珍しいな」

「……ねぇ、樫鞍」

「なんだよ?」

「溜まってるんなら、その」

「その?」

「――私にも性欲と好奇心はあるから、覚えておいて」


 それを聞いて、実験に興味があるという事なのだろうと理性は判断したが、樫鞍の中心が熱を帯びそうになった。水折の華奢な体を抱きしめたいとついつい考えてしまう。


「誘ってんのか?」

「そうだと言ったらどうするの?」

「どう? どうして欲しいんだよ」


 表情だけは平静を装い、樫鞍は尋ねた。吐き出した煙草の煙が、天井へと登っていく。


「私じゃダメな理由を述べてもらいたいかな」

「ダメ? そんな事言ってねぇだろ、一言も」


 ――これ、は。自分は行為がしたいと、押しても良いのだろうか?


 樫鞍は、体の統制権を失い、煙草をおいて、立ち上がった。そして欲望のままに、水折の細い手首を握り、腕を引く。すると水折が素直に樫鞍の腕の中に収まった。樫鞍はその額にキスを落とす。目を伏せた水折の、長い睫毛を見て、抑制が効かなくなりはじめる。


「なぁ水折」

「なに? こういう私は嫌?」

「――いいや。お前さえ良いんなら……」


 樫鞍は、次の言葉を探した。



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