第2話 白い部屋とREC

 目が覚めた時彼は、白い場所にいた。足元、頭上、左右――全てが白いその場所は、まるで箱のような空間だった。木でできた背もたれのある四つ脚の物に、それは座っていた。四つ足の物の『名前』が、『椅子』だと思い出すのに、数分がかかった。


 ――名前?

 ――思い出す?

 ――数分……それは、時間?


 そこで彼は気づいた。この空間は、『部屋』と言うのだ。

 おぼろげに状況認識を、それは始めた。だが、彼は『自分』が何者なのか、分からない。自分自身の事は思い出せず、名前も分からない。目を開けたらここにいたわけであるから、いつから己が座っていたのかも分からない。


 自由になる両腕を動かし、彼は自分の掌を見た。足は僅かに開いた状態で、椅子の脚に固定されている。全身の肌が、部屋の空気に触れている。暖かくもなく、寒くもない。


 この場所に在るのは、彼と椅子――そして、気づいた事としては、真正面に黒い物がある。透明な丸い部分がはめ込まれている。三本脚の器具で、それは固定され、彼の方を向いている。あの品の名前は分からない。全体的には四角くて、隅に赤い光と文字があり、『REC』という記号が見える。


 俯いた彼は、足の合間からぶら下がっている部位を見た。それは長く萎れていて、先端が少し独特の形をしていた。首の長い鳥の首元に似ている気もしたが、『鳥』とは何なのかは、すぐに分からなかった。


 何も分からないのに、いくつかの『名前』が勝手に浮かんでくる。

 同様に彼は、その部位の名を思い出した。『教わった』ではないか。


 しかし『教わる』という事がどういう意味だったのか、唐突に分からなくなった。それは、『誰か』から『聞く事』のように思うのだが、ここには彼一人しかいない。


 ――自分しか存在しないのだから、『俺』が考え自分に教えたのかもしれない。いいや、俺が存在するのだから、どこかに『俺以外』も存在するのだろうか?


 分からない。何も、分からない。

 だが、分からない事が自然であるように、彼には思えた。


 そうだ自分は、『何も思い出せず理解出来無い状態で一人で座っている事』が、常であり自然なのでは無かったか。


「俺の自由になるのは、この二本の腕と、首……それと」


 下腹部を見た。

 何なのだろう、ここは。

 彼がそう考えた時だった。


 壁の一角が音もなく消失し、白い衣を纏った『俺ではない人間』が、部屋に入ってきたのは、それからすぐだった。黒い物に近づくと、上部の突起に触れた来訪者は、ちらりと彼を見ると、退屈そうな瞳をした。


「エピソード記憶以外も喪失させようとしたが、失敗か」


 白衣の下には、深く濃い、黒に似た緑色の、首元まで覆う服を着ている。首から下がっている紐の先の、透明な四角い板には、『樫鞍』という記号があった。


「俺ではない……お前は、誰だ?」

「――基本的には、きちんと記憶が消えているのか。あらた

「アラタ? それは、俺か? ……いいや、俺だ。俺の名前だ。俺は、新だ」


 そこで彼は思い出した。記号だと思っていたものは、『文字』だ。『REC』もまた文字だ。

 その事を新に教えたのは、目の前にいる『樫鞍』だ。

 新は樫鞍に会う前は、草を編んだ『服』と毛皮から作った品を着ていたはずだ。今、樫鞍が皮膚の上に、服を着ているのと、それは同じ事だったはずだ。


 ――自分は、ヒタカミの誇り高き戦士では無かったか?

 ――だけど、ヒタカミとは、なんだろう?


「次の実験を開始するか。記憶制限は目に見える効果がすぐに得られない事はよく分かったが、認識の研究には悪くない。また記憶を消去――リセットして、今度は別の感覚を……しかし、リセットか。嫌な言葉だな」


 ブツブツと呟いてから、樫鞍は白い壁の前に向かい手を当てた。するとそこがまた消失し、彼が出て行くとそこは壁に戻った。こうして新は再び、白い箱のような空間に、全裸で残された。


 視界が二重にブレたのは、その時の事だった。新の意識が暗転した。



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