短編

@reizouko

キリンジ絶交事件

私はキリンジが好きだ。溺愛しているといっていい。なぜ好きか、語る必要はないだろう。とにかく私の血肉である。

それが高じてか、私はキリンジの曲を聴いている人間と絶交する傾向がある。今まで仲良くしていた人間でも、キリンジを聴いていると知ると、とたんに魅力のない人間に見えてくるのだ。あまりにもキリンジが光り輝いているからだ。対して、キリンジが好きと知ってより魅力的に見える人間もいるものの、こちらは生涯で数人しか出会ったことがない。この人間関係の選別を、私は「キリンジ絶交事件」と呼んでいる。

例えば大学で知り合ったA子。学内で会えば一緒に昼食を摂る仲だった。

ある日、彼女が私との待ち合わせにイヤホンをつけてきた。私はイヤホンには気づいたけれど、何も言わなかった。他人の趣味を詮索するのは好きではない。ただ、A子は生姜焼き定食をフォークで解体している間、聴いている曲を自ら明かしてきた。「最近、キリンジにはまってるんだ」と。私は彼女のお気に入りの曲を数曲聞いて、それからなんとなく彼女を避けるようになった。彼女からしたら意味がわからなかっただろうが、とにかくこれ以上一緒にいるのが耐えられなかった。A子にしたら全く不愉快な行動だったかもしれない。A子が悪いわけではない。ただ、そういう運命だったのだ。

例えば、以前付き合っていたB男。展覧会もよく知っており、いつも美術館に行っていて、なんだか知的に見えたし、なによりかっこよかった。少なくとも当時はそう思っていた。

だがある日、彼が何気なく口笛で吹いた曲があろうことか「十四時過ぎのカゲロウ」だった。これは私の背骨のような曲である。これがなければ私は自分の足で立っていられないほどの曲だ。なぜそれを、下手くそな口笛で吹こうなどと思ったのだろう?

どこでその曲を知ったのか聞いてみると、「Youtubeでたまたま流れてきた」とのこと。なるほど。確かにそういう出会いはあるだろうし、私も数多くのアーティストとは自動再生で出会った。しかし、その曲だけは迂闊に好きになってほしくないのだ。いかんせんキャッチーで誰もが好きになりそうな曲だから、好きになるのはわかる。さらにこの曲は私のキリンジとのファーストコンタクトだった。知り合いに教えてもらって、衝撃を受けた曲だった――そんな思い出が私の頭に一気に蘇り、次の瞬間には、彼氏を嫌いになっていた。まるで魔法がとけたように、彼が灰色の小汚い男にしか見えなくなった。かっこよくもなければ趣味も平凡、いやむしろ悪趣味だとここで気づいてしまった。奴はただ、思考停止して、みんながいいと思うものを安直に称賛しているだけだ。なので、別れた。ただし彼からすれば意味がわからないと思うので、忙しいとか価値観が合わないと適当に理由をつけた。

ここまで書くと、では私はキリンジを好きに値する人間なのか?……という質問をしたい人もいると思う。正直、私は値しない方の人間だと思う。キリンジ以外の趣味はいたって平々凡々といったところで、ここで例は挙げないが、あなたが平凡だと思うアーティストを想像して貰えばいい。私の好みはヒットチャートからできている。キリンジももちろん、ヒットチャートにあがったことはあるだろう。だが彼らの多くの名曲はヒットチャートには上がっていないし、いわゆる知る人ぞ知る、といった類の音楽だと思う。

キリンジを聴いている自分が特別だと思っているわけではない。ただ、どうしても自分の体験と分かち難く癒着してしまっているだけなのだ。曲を聴いた時、あまりのかっこよさに震えるような体験を、キリンジがくれたのだ。ただ音楽と歌詞だけで、文字通り世界が180度変わるような感覚。自分の知らない世界が、この平凡な日常に広がっているような——後にも先にもない体験である。だから、キリンジが好きと軽々しく言ってしまう人間とは相容れないというだけだ。私の心が狭いという指摘には、同意する。それで人を傷つけているという指摘にも、同意せざるを得ないだろう。数曲しか知らないだけでも、そのアーティストを好きと名乗っていい、のもわかる。だが私からすれば、キリンジを軽んじられることは(当然彼らには軽んじているという意識はないだろうが)、自分の頭を思い切り殴られるような痛みを伴うのだ。もちろん理解し難い心の動きではあると思うので、最低限、この判断基準は誰にも明かさないように心がけていた。



そんな中、一人だけ、キリンジが好きだと明かされてますます魅力的になった人物がいた。それが私の高校時代の先輩である。

当時私は高校2年生、先輩は3年生。先輩は受験勉強に励みながら、常にイヤホンを欠かさなかった。どのような経緯かは忘れたが、私はその先輩と夏期講習で一緒になり、お昼休み、たまたま音楽の話題になったのだった。

「私ね、キリンジが好きなんだ。知ってる?」

もちろん知っている。だが、私は初対面でキリンジが好きだとは言わない。というか、ほぼ誰にも言ったことはない。先ほども書いたように、私はキリンジを好きだと公言できるほどの人間ではないからだ。私はお昼ご飯の菓子パンをかじりながら、慎重に返答を返す。

「名前は、聞いたことあります」

「この曲が好きなの」

彼女が持っているのは、古びたウォークマン。この時代に、ウォークマンだって?……ここで私は先輩に興味を持ち始める。先輩は黒髪を後ろで一つにまとめ、メガネをかけている。パッと見、地味な外見ではある。ただ、背が高く、よく見ると目がぱっちりとして、正直言って可愛かった。私はその瞬間どぎまぎしてしまった。

「知ってる?この曲」

私はウォークマンの画面を見た。『愛のCoda』と表示されている。

「あぁ!これ、いいですよね!」

先輩はにっこりした。

「あとは、この曲も好き」

次の曲。『イカロスの末裔』

ここで私は、先輩にますます興味を持ち始める。

「実は、こういう曲もたまに聴きたくなるの」

次に表示された曲は。『むすんでひらいて』

「新しいのも好き」

『説得』

……先輩は相当キリンジを聴いているようだ、とわかった。というか、私より聴いているかもしれない。

「私は、『冬のオルカ』が好きです」

「私も好き!他は、何が好き?」

「『アルカディア』とか」

先輩は目に見えて、にこにこし始めた。

「趣味、合うね」

「は、はい」

「キリンジが好きだなんて、渋いね」

「あっ、あれです、CMで『エイリアンズ』が流れてはやったでしょう、別に渋くないです」

「でも、挙げてくれた曲は、ちょいマイナーじゃない?」

「そうかも、ですけど」

とうとう一番好きな『十四時過ぎのカゲロウ』は挙げられなかった。この時、一番好きな曲を挙げていれば未来は少し変わったのかな、なんて思うことも、あるにはある。

先輩は他に、好きな歌手を教えてくれた。たとえば、

「フィッシュマンズが好きなんだー」

フィッシュマンズ!私は、聴いたことがなかった。というか、キリンジ以外の通好みのアーティストは、知らなかった。

「あとね。ピンクフロイドも好き」

ピンクフロイド。そんな古典みたいな音楽は聞いたこともない。

「もちろん、ビートルズも好きだよ」

ビートルズなんか真面目に聞こうと思ったこともない!ヨーカドーの店内で流れている曲という印象しかなかった。

私は圧倒された。先輩の「音楽偏差値」に。話によれば、先輩は軽音部でベースをしているらしい。先輩は本物の音楽好きだった。もちろん、私は「音楽偏差値」の高い人間がセンスが良くて素晴らしい、と言いたいわけではない。ただ先輩が本気で音楽が好きなのが伝わってきて、たちまち先輩にぐいぐいと惹きつけられてしまっただけだ。先輩の手は大きかった。ベーシストの手だ。さらに親はいつも洋楽を聴いていて、それで自然と詳しくなったのだという。いわば音楽の英才教育を受けてきた人間だったのだ。

先輩!

私は夏期講習に毎回甲斐甲斐しく通い、先輩との交友を深めた。背の高く、ちょっと声の低い、だが目はぱっちりとした可愛らしく頼もしい先輩に、私は犬のようについていった。先輩が私に「ジュース買ってきて」とか頼めば、喜んで買ってきただろう。先輩の奴隷になりたかった。だが、いたって普通の倫理観を持った先輩は、そんなことはしなかった。ただ私に音楽の話をして、にこにこしていた。メガネの奥の長いまつ毛が扇のように開いたり閉じたりする。

私は先輩のことをなんでも知ろうとした。SNSのアカウントを調べたり、本名を調べたが、何も出てこなかった。先輩はSNSをやらないらしい。怖いから。

「演奏してみたとか出さないんですか?」

「ん〜、出したいけどねぇ」

「先輩の演奏、絶対みんな聴きますよ」

すると先輩は照れたように、こう言った。

「今度、ライブするんだ。もしよかったら、チケット無料であげるからさ、人数合わせに来てもらえないかな?」

行かない選択肢がない。



私は先輩のライブに行った。正直、その時のこともあまり覚えていない。コピーバンドではなく、普通に自分たちで作曲したものを演奏していた。曲の良し悪しは私にはわからなかった。私は楽器を演奏したこともなく、ロックも全く詳しくなかった。

ただ、先輩の手をずっとみていた。ネイルもせず、ただベースのためにある、女性離れした手を。

「来てくれて、ありがとう」

先輩は私の差し入れしたスポーツドリンクを飲んだ。先輩は喉仏があった。でも、女性らしく細い首だったから、アンバランスで、目が奪われた。Tシャツから突き出る、しっかりした腕がかっこよかった。曲の中でベースだけが際立って聞こえてきた。スラップ技法とか、なんとか、色々と先輩からベースの知識を仕入れていた。だから私は、周りに合わせて身体を揺らしながら、これはなんちゃら技法だ、と頭の中で確認していた。

先輩、かっこいい。

ライブ終了後、先輩と食事に行けないかなぁ、なんて淡い期待を寄せていたが、ライブ会場から出ても先輩は一向に出てこなかったので、ひとりでとぼとぼと帰路についた。電車に乗っている間も、名も知らない旋律が、音圧が、耳の奥で響いていた。

先輩は今頃、仲間内で打ち上げをしているのだろうか?

私も、そこに混ざりたかったなぁ……。ただ、私は誘われても断ってしまったと思う。下手なことを言って、先輩を失望させたくなかったからだ。



終わりは唐突に訪れた。というか、夏期講習の終わりとともに、先輩に会う機会がなくなった。

私は持ち前のストーカー気質を生かして、先輩が清掃委員にいることを突き止めた。

「先輩っ」

先輩は花壇に水をやりながら、驚いたように私を振り向いた。

「お、お久しぶりです」

ああ、と先輩はそっけなく言った。私をバンドに誘った時の態度とは明らかに違う。声が前にも増して低い。……ちょっと、寒気がした。まだ、9月の初めなのに。

「せ、先輩が今、何してるかなと思って」

「別に、受験で忙しくて」

「受験はうまくいってますか……?」

会話が弾まない。先輩に笑顔がない。これは、まずいな、と思い始める。まずい兆候だ。そして焦れば焦るほど、会話も仲もぎこちなくなる。

「実はね、もう会ってほしくないの。話が合わないから」

「え……!?ど、どうして?」

そして先輩は最後に、私にこんなことを言った。

「キリンジが好きな人、私、苦手なの」

この言葉の意味を、私は知っている。

私が……センスのない人間、ということだ。キリンジを好きに値しない人間。

私は、先輩の前で、ただの哀れな小娘に成り果てた。ただの芋っぽい小娘、可愛くも魅力的でもなんでもない、先輩の隣にいるに値しなかった人間……。



今思えば、先輩もわざわざ私にはっきり言う必要はなかったと思う。だが先輩にも譲れないものがあったのだろう。私はこの時深く傷つき、もう一生キリンジは好きだと公言しないことに決めた。そして誰かと絶縁する際も、絶対にキリンジの名前を出さないと。

風の噂で、先輩は現在、教育系の仕事をしていると聞いた。多忙のあまりベースもやめてしまったらしい。

彼女は今でも、キリンジを聴いているのだろうか。新譜を追いかけているのだろうか。

先輩はもしかすると、一番好きな曲を私には教えなかったんじゃないだろうか。

私はいまだに、キリンジ以外の通好みのアーティストを知らない。

私はたまに、夜中、エイリアンズを聴く。先輩を思い出しながらこの曲をかけて、月を見上げるのだ。先輩が嫌いそうなセンスのない行為かもしれない。でもどうしようもなく、先輩への想いが溢れてくるのだった。

世間一般では、これを失恋と呼ぶのだろう。

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