ヘロスの説法
ヘロスと出会って数日、私はあの酒場に赴き続けていた。彼を無意識に探し続けたが、結局私はジョッキを傾けることしかできなかった。今まで心地よかった下品な空気、怒号、臭気、酒。全て不味く感じた。それでも、その時の私は、彼を意識的に求めることはしなかった。その晩、とうとう酒でも胸に空いた穴を埋められなかった私は、女楼に向かい、女を買った。そして、酒で埋められなかった穴を埋めるかのように、その女を抱いた。男と女が欲望のままに野生に帰る行為、私は、目の前にいる雌に、欲望が赴くままに私の欲求をぶつけた。しかし、事が終わってみれば、私の胸に空いた穴は、底が見えないほどに、あらゆる欲を吸い込むように、深く、広く、拡張される結果となったのである。途轍もない虚無感にさいなまれた私は、晩を女楼で明かした。私がヘロスを意識し始めたのは、いつもの時間に起きてすぐのときであった。
私の胸の穴は彼、ヘロスにしか埋められない…
あの素っ頓狂なことを抜かす青年にしか…
そう気付いた私は、作業が終わると無煙通りにいた。私は、あらゆる所に足を運んだ。西通りを隅から隅へと探し終えると、中央通りの隅まで探した。酒場も周り、女郎も周った。数日それを繰り返すと、私はやがて、ある酒場にたどり着いた。
その酒場は、私の通っていた安い酒場に比べて静かであった。ただし、そんな静けさの内に、一人の声が鳴り響いていた。扉の向こうに、私を完成させる唯一のパズルピースを私は聞いた。足は、吸い寄せられるように扉に引き寄せられ、扉へと手が伸びた。扉を開くと、そこにあった。まっすぐと立ち、はっきり透き通る声で説法を説く、ヘロスの姿がそこにあった。彼と出会った時よりも増していた彼の凶々しい魅力が、言葉となり耳触り良く私に伝わった。
「君たちは財産を一切持たない」
言葉、一つ一つが、彼へと意識を誘い、気づけば私は、彼の説法を聞いていた。
「それは、全て、神のもたらした厄災故である。我々の崇める神、それが我々をさらなる高みから引き離し、我々は泥を啜るような生活をしている中、資本家や上流階級の奴らは至福を肥やすことが許されている。だが、君たちは信仰心によって、そんな生活に満足を感じている。不足感を感じたことはあるだろうか。
我々は人である。人であり、人として生きるべきなのである。人として相応しい生き方を営む権限を、我々、個人、個人は保有しているはずである。そのはずなのだが、その実はどうだ。人間らしいと呼べるか。君たちは、疑問に思ったことはあるか。一三時間の労働で、我々の手元に残る金は、安い酒代で吹き飛ぶほど少ないのか。なぜ我々は、労働するために定められた生活を営まなければならないのか。そして、なぜ我々は財産を持てないのか。私は、私自身、自分の生活は人より程遠い、異質な汚らわしい物に感じている。我々は、奴隷でもない、惨めなものである。では、私は、なぜ君たちの前に現れたのだろうか。なぜ、資本家でも、貴族でも、神官でもなく、労働者の私が君たちの前に現れたのか。答えは簡単である。私も人ではない惨めな存在だからである。君たちと同じモノだからである…」
場は、ヘロスに夢中であった。
「にゃんだよ。お前、にゃにしゃまのつもりだ。俺達がにゃんだって。そんなお前は~」
「てめえの母は俺が~よ、橋の下でヤッて~ヤッたのさ~。俺のことは、お父さんとでも呼びやがれガキがよ~」
少数の酔っぱらいは、口々にヘロスを罵り始めた。だが、ヘロスはそんな邪魔には気を止めぬようで、ただ彼らが喋り終えるまで黙っていた。
「………………………」
「なんとか言ったらどうだよ。息子よ。がっははは」
「しょうだ。にゃんとか言いやがれ」
「………………………」
返事を求められても、嘲られても、ヘロスの態度は超然としていた。次第に彼らは、ヘロスが反応しない苛立ちに身を任せ、飲んでいた酒をヘロスに向かって投げ始めた。ヘロスはジョッキ、グラス、それらを避けるために動くことはなく、ただじっとそこに立ったまま攻撃を受け続けた。やがて彼らは冷めたのか、悪態をつきながら酒場を後にした。その間、ヘロスは一言も発することは無かった。酒に濡れても、グラスがあたっても、ヘロスは微動だにしなかった。ロスに聞き入っていた傍聴者たちもこの間、ヘロスへの攻撃を止めさせようともしなかったのである。それはヘロスの器を見定めていたのか、はてまたヘロスの様子に心酔していたからか、分からない。しかし、私自身、ヘロスが攻撃を受け続けてなお、超然とした態度で立ち尽くす姿を眼前に、ヘロスが自身の正当性、または潔白さを証明しようとしているのではないのかと感じた。一通り事が済んだ後、ヘロスは語りだした。
「私は、君たちと同じ存在である。そんな私は言う。我々は人ではない。であるから、私は言う。人に、我々は成り上がらなければならない。我々が、我々に相応しい生活を取り戻す必要があり、そのためには、あらゆる苦難を乗り越える勇気、地面にへばりついて泥を啜りながらでも前へ進む忍耐力。そして、あらゆる事柄を根底から覆すもの。それすなわち、この国にあるものをかき混ぜ、平等に平坦にするモノである。それすなわち、我々が、本来持つべきものを取り戻すための運動である。それは、革命である。私は、我々のために、我々の本来の生活を取り戻すために奔走するつもりだ。もし、私の決意を聞いて、酔っぱらいの戯言だと思うのなら、元いた生活へ帰れば良い。そのままの惨めな存在のまま野垂れ死ねば良いだろう。だが、私にはそれが耐えられない。だから、私は、ここで宣言する。私は、神を殺す。そして、我々のこの呪われた定めを絶つ。もし、私と隣り合って歩む者がいるのなら、我々は、今日を持って、神を殺すという誓いによって固く結ばれた兄弟となり、苦境を分かち合う同士となろう」
ヘロスがそういった瞬間、私の脳裏に雷が走る感覚に襲われた。
(彼と歩もう)
私はその日を持って、ヘロスと兄弟になった。
「
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