第34話 四日目・夜中


 目が覚めた。目蓋を閉じたまま、じんわりと意識が中から外へと広がっていくのを感じる。

 意識がちゃんと覚醒するのを待ってから、私はゆっくり目蓋を開く。

 真っ暗だった。それでも目蓋を開く前ほどはではない。

 窓から入ってくるわずかな月明かりを浴びて、輪郭くらいはとらえられる。

 目が闇に慣れてくるとその輪郭はよりはっきりとしてきた。それでも色はない。すべてが闇に覆われていて、等しく色を失っている。

 輪郭を作り出しているのは淡い闇と濃い闇の濃淡だけ。

 そんな闇の中――枕の上に頭をのせたまま体を横に向ける。

 私の眠るベッドのすぐ隣のベッドにアゼルさんが眠っていた。

 結局あの後、少女の霊は現れなかった。他に不思議な現象も起きなかったし、新たな発見もなかった。

 そしてここ数日アゼルさんが使っているミュラー邸の子ども部屋に、隣の子供部屋にあったベッドを運び込んで私は眠りに付いた。

 それからどれだけの時間がたったのかはわからないが、まだ夜明けには程遠い。

 だからもう一度眠りに付けばいい。眠れば自然に朝はやってくる。

 それはわかってはいたが、そういうわけにもいかない事情があった。私はトイレに行きたかったのだ。

 しかし辺りは真っ暗で、ここは霊の出るミュラー邸。一人でトイレに行くことには抵抗があった。そもそも一人で眠ることすら怖くて、アゼルさんと一緒の部屋で寝ていたのだ。こんな夜中に一人でこの家の中を歩き回ることなんてできるわけがない。

 ただそれでもトイレに行きたいから付いてきてくれと、アゼルさんを起こすことにも抵抗があった。

 きっとアゼルさんは嫌な顔一つせずに付いてきてくれるだろう。それでもやっぱり恥かしかった。

 どうしたものかと考えをめぐらせながら、アゼルさんを見る。暗い中、目を凝らしてよく見てみると、アゼルさんが上に掛けている毛布が大きく膨らんでいて、何かがもぞもぞ動いていることに気が付いた。

 その正体は簡単に想像がつく。それでも毛布をめくって中を確認してみることにした。

 想像通りタナットさんがいた。タナットさんはアゼルさんの上でなかなかしっくりくるところがないのか、ごろごろと寝転がりながら動き回っていた。

 昼間はずっとアゼルさんの背から動かないのに、今はこんなに動いているのだから、タナットさんは夜行性なのかもしれない。

 その光景がなんだか微笑ましくて、ぼんやりと眺めていると――視界の端に光りが見えた。

 すぐにそちらへと視線をやるが、すでに光りはない。

 今のはなんだったのだろう。ロイテラー家で夫人が言っていた光りに似ていた気がする。彼女の言っていたように、光りが見えたのは壁の上のほう、天井付近だった気がする。

 そして気づいた。これはもしかしたら、アゼルさんを起こすに足る理由ではないかと。

 今は夜中でアゼルさんはまだ眠っている。それでも緊急事態だ。アゼルさんを起こす必要があるのではなかろうか。

 だから!

「アゼルさん」

 呼びかけるとアゼルさんはすぐに目を覚ました。

「アリアさん……どうしました?」

 目を擦りながら起き上がるアゼルさん。先ほどまでごろごろしていたタナットさんはそんなアゼルさんの膝の上に座って、ぎゅっと正面から抱きついている。

 さらに私とアゼルさんのベッドの間の床で眠っていたネコさんも目を覚ましたようで、顔を上げて耳を立てている。

「ロイテラー家で聞いた不思議な光の話は覚えていますか?」

「はい」

「あれを私も見たかもしれません。天井付近、壁側の高いところが一瞬だけ光ったような感じでした」

「それはどんな光りでした? それこそ火の玉とか鬼火といったような、心霊現象っぽいものでしたか?」

「ほんの一瞬、私も目の端でとらえただけだったので、それほど確かではないのですが……ロイテラー家で聞いたように部屋の中を照らすような強い明かりではありませんでした」

「うーーん。なんなんでしょう。この家で起きていることと何か関係あるんでしょうか……」

 アゼルさんは考え込む。

「あ、それとトイレにいきたいんですけど、できたら付いてきてもらえませんか? また少女の霊が出たりすることも考えられますから……」

「そうですね。じゃあ行きましょう」

 そう言ってアゼルさんが立ち上がると、ネコさんも大きな欠伸をしながら一緒に立ち上がる。

 私はパーティーメンバーのみんなとトイレに向かう。

 昼間はちっとも気にならなかったに、闇の中では床の軋む音が恐怖を誘う。

 どうして人は闇を恐れるのだろう。考えてみる。

 明るい所より得られる視覚情報が少ないからだろうか。視覚情報が少ないということは、それだけ安全確保が難しくなる。自身の安全を確保できないことを恐れるのは当然だろう。

 でも安全確保が難しいというだけだったなら、そのぶん注意をはらえばすむことだ。

 私は今、細心の注意をはらっているにもかかわらず、この恐怖はぬぐえない。

 ついつい想像してしまうのだ。足りない視覚情報を補うための想像の中に、怖いものの存在まで想像してしまう。

 今も目の前にある廊下の先、まだ見通せない闇の奥に、霊が潜んでいるのではないかと考えてしまう。

 そのときだった。

 本当にそれは現れた。しかし闇の奥ではなく、闇の上に赤い服の少女の霊はいた。

 窓から入るわずかな月の光り以外光源のない闇の中では、目の前にいるアゼルさんたちの姿さえ闇に紛れてしまってはっきりとは捉えられないのにもかかわらず、5メートルほど先に現れた少女の霊の姿ははっきりと捉えることができた。

 まるでそれは現実世界という絵画の上に、後から描き足された別の絵のようだった。

 その異様で非現実的な光景を直視したくはなかった。溢れ出す恐怖心に促されるまま、ここから逃げ出してしまいたかった。

 それでも私は――

「また少女の霊が現れました」

 そう言って、少女の霊を見る。

 ハイイロオオカミの亜種との戦いで私は何もできなかった。せっかくアゼルさんとパーティーを組んでもらえたのに、私は何の役にも立てなかった。

 あの戦いの後の宴会で先輩冒険者であるシルバンさんとクロードさんは言ってくれた。パーティーの仲間と同じようにできる必要なんかない。本当に必要なことは、仲間にはできないことができること。パーティーにとって大切なことは、互いを補い合うことだと。

 だから私は恐れおののく心を奮い立たせて、少女の霊をちゃんと観察する。これは私以外の仲間にはできないことなのだから。

 廊下の先でうつむいている少女の霊は前回見たときと変わらないように見えた。

 欠損しているのは左腕と右足。うつむいているために顔はよく見えない。

 少女はゆっくりと顔を上げる。左目がない。左目のところだけ黒い穴のようになっている。これも前回と変わらない。

 そして少女の霊は口を開いた。いや正確に言えば、口を開いていた。口を開くような動作はなかった。閉じている状態から、大きく開いている状態へと一瞬で変化したのだ。

 口というよりはそれも左目と同じような黒い穴のように見えた。中には何もない。暗くて見えないのではなく、黒という色で塗り潰したような純粋な黒い空間。

 そこから音が溢れ出す。

「で、て、いっ、て。こ、こ、か、ら、は、や、く、で、て、い、て!」

 一音、一音区切った、搾り出すような声。

 言葉をすべて吐き出した瞬間、ガンっと足下から打ち上げるような衝撃と音。

 そして悲鳴。少女の霊の黒い口から苦痛に歪んだ音が溢れ出す。

 すると少女の残った左足が急に切断された。廊下の上に倒れる左足。そこから血は溢れない。足を失って、少女は闇の底へと落ちていくように消えた。

 少女の霊が消えてしまうとそこには元通りの闇だけがあった……


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る