44 ワインレッドのリップ
「叶歩、それずっと書いてるんだっけ」
「うん、そうだよ。大事な思い出だからね」
叶歩は、机の上に置いてある分厚いノートを広げた。紺色の表紙がぱたんと音を立てると、中に挟んであった銀杏の押し花の栞が覗く。
叶歩は陽菜乃との思い出がいつまでも消えないように、ふたりの間にあったことを常に記録し続けている。叶歩は自室のビーズクッションに陽菜乃とふたりで腰掛けながら、一緒にそれを読んだ。
出会ってから、今に至るまでの出来事がびっしりと埋め尽くされていた。嬉しい思い出も悲しい思い出も恥ずかしい思い出も、一つ残らず記録されているその内容は、陽菜乃の涙腺を軽く刺激した。
「来るべき日がきたら、これ、あげるね。さよならしても、ずっとおぼえててね」
陽菜乃は何も言わず頷いた。
ハート柄の刺繍が施された薄いカーテンから、夕日が差し込む。
陽菜乃は、しばらく叶歩の家にお泊りすることにした。両親にも美咲さんにも許可を取って、ここで一夜を過ごす準備は万端だ。
叶歩の部屋の中で、ふたりきり。
今日は、美咲さんの帰りが遅いらしい。
永遠のように静かな部屋の中には、ふたりの呼吸音だけが聞こえる。
ふたりとも、寝れない夜を過ごしたおかげでもう眠たいムードでいっぱいだ。
さっき公園で昼寝はしたけれど、眠い。そういえば、昼寝で不眠を解消することはできないんだっけ。テレビで専門家がそんなことを言っていたのを思い出す。
「ひなのちゃんってさ、なんか最近かわいくなったよね」
「なっなんだよそれ!急にどうしたんだよもう……」
「いや……女の子になって一日目のひなのちゃんってなんかダサかわな感じだったけど、今はかわいい服も自分で選べるようになって正統派かわいい系になったよなぁ、って」
叶歩はそう言いながら、陽菜乃のハンドバッグを持ち上げ、ごそごそと中身を漁った。
陽菜乃はここ最近、かばんの中にポーチをいれて外出するようになった。黄色いパンジーの柄で彩られたちいさなポーチの中には、櫛やリップが入っている。
「化粧ポーチも持てちゃうなんて、すっかり女子力も磨かれたね」
「いいだろーっ、かばんに色々いれてたほうが落ち着くんだよ」
「その習慣、いいと思うよ。ひなのちゃんってドジっ子なとこあるからね、いろいろと備えてたほうが安心だよね」
「だれがドジっ子だっ!」
陽菜乃の外見も、当初とは比べ物にならないほどに洗練された。髪は枝毛の一切も無いくらいに整っていて、肌荒れのないように日焼け止めや保湿は欠かさない。
それらのケアもぜんぶ、叶歩の入れ知恵なのだが。
「あっ!ひなのちゃんのリップ、ボクが前から欲しかったやつだぁ」
叶歩は陽菜乃の化粧ポーチから、リップグロスを取り出す。粘度の高い薄ピンク色の液体が入った、直方体の小瓶。先端には金属性の回転式の蓋があって、筆記体でブランド名が記されている。
叶歩がそのリップに興味津々なのを見て、陽菜乃はある提案をしてしまった。
「……叶歩もつけてみる?」
──発言してから、その内容の重大さに気付いた。いや、ほんとうは気付いていながらも、つい言ってしまったのだ。
その提案はつまり、自分が普段つかっているリップが叶歩の唇に触れる、ということになってしまう。
「ごっごめん今のはやっぱ嘘──」
「ひなのちゃんっ」
陽菜乃は言い切ることを許されなかった。
叶歩が陽菜乃の胸元に飛び込んできたのだ。
「……いいよ。ボクのリップとひなのちゃんのリップ、つけあいっこしようよ」
そう言って、叶歩は自分の引き出しからワインレッドのリップを取り出した。
──これ、大事な日につけてくやつなの。
きゅぽん、と蓋の開く音が響く。
陽菜乃は生唾を飲み込んだ。
気付けばふたりはしゃがみこみ、お互いの手をクロスさせて、互いの唇めがけ、各々のリップを押し当てていた。
粘り気のあるリップが、自分の口元に塗られていくのが伝わってくる。陽菜乃は自分の心臓が高鳴るのを聞きながら、叶歩の宝石のような唇に薄ピンクを塗っていく。中心から、グラデーションをつけるように。塗った部分が部屋のライトで煌めいていき、艶のある輪郭を作り出す。
「つやっつやだね……このままキスしたら、どうなっちゃうかな」
叶歩は笑いかけた。
「キ、キッ……!ちょっと、何言ってんだ!」と、思わず叫んでしまう。
「ふふふ、大丈夫だよ、今日はしないって。……でもさ、その、いつかはしたいんでしょ?」
陽菜乃は目を逸らした。
リップでコーティングされた上唇と下唇が少しだけ粘着するように離れ、艶が広がっている。
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