31 ルールブック
『もうこれ以上は、気づいちゃだめだよ』
君はそう言った。
『いやだ。叶歩のこともっと知りたいんだ。だからぜんぶ話してよ』
陽菜乃はそう言おうとして、言葉を飲み込んだ。我慢するしかなかった。
それから数分の間、ふたりには重い沈黙が流れた。数分ほど座りながら自然音を聞いて我慢を続けたが、しばらくして結局、陽菜乃の心の中で渦巻いていた感情は決壊してしまった。
「だーーっ!もうよくわからん!」
叶歩はびっくりして「ど、どうしたの?」と防御体勢を取った。
「気づくなってなんだよ!ほんとは叶歩だって自分のことわかってほしいんだろ!何隠してんだよ!なんで素直になってくれないんだよ!こんなに愛しいのに!」
陽菜乃の感情は、心のモヤモヤフィルタを通ったせいで少し汚くって……そして正直な言葉として出力されてしまった。
「……ひなのちゃん」
叶歩が罪悪感に溢れた顔をすると、陽菜乃はハッとして、慌てて自身の発言を修正する。
「いや……その、ごめん。たしかに、叶歩には色々事情があるんだと思うよ。でもさ、俺たちきっと不器用すぎるんだよ」
叶歩は「そうだね」と苦笑いした。
陽菜乃はそれに対する適切な返事が思いつかず、結局また沈黙が流れてしまった。あれだけ取り乱してしまったので、さっきの沈黙よりもずっと気まずい。というか、これまでの二人のどんな瞬間よりも気まずい。ベンチに座りながら悶々と真夏の熱風に揉まれ、陽菜乃は苦しんでいる。
こんなにも苦しいのは、叶歩の守りが硬すぎるからだ。叶歩は純粋かつ誠実すぎるがゆえに色々とボロをだすことはあるが、それでも自身の秘密の核心に触れるようなミスは一度も零していない。
陽菜乃は誰かの心を読んだりとか、そういうことは苦手だ。対人経験の多い人間なら叶歩の気持ちが読めるのかもしれないが、陽菜乃はそうではない。いままで純粋な人間(今目の前にいる人物)とばかり関わってきた弊害だ。正攻法で叶歩の防壁を突破するのは、疑うことを知らない自分には不可能な気がした。
(いや待てよ)
陽菜乃は深呼吸する。
正攻法で突破することができないのなら、正攻法でやる必要は全くないじゃないか。
それに気づいた瞬間、陽菜乃の脳が一気に活性化されていく。体中の血管が開き、火照っていくように冴える。脳内で、叶歩との関係を修復するためのシナリオが瞬く間にマッピングされる。それはまるで、いままで独立していた点と点がつながったみたいなシナリオだった。
陽菜乃は目元を隠しながら口角をにたりとあげると、静寂を破った。
「そうだよ。叶歩、ルールブックを作るんだ」
「……るーるぶっく?」
叶歩は目を見開いて、陽菜乃の顔を覗く。
「ああ。そうすれば俺たちのモヤモヤはいくらか解決されるはずだ」
陽菜乃の提案はこうだ。『叶歩が陽菜乃にされたら嫌なこと』その境界線をリストアップして<ルールブック>にしよう、という要望だ。自分でも、なぜ最初からこうしなかったんだと思うほどに美味しい考えだと思う。
叶歩が嫌がっていることを明確に可視化できるならば、彼女の秘密へと一歩近づくことができる。それに、地雷を踏んで嫌われてしまうようなリスクも軽減できる。
「……ボクが陽菜乃ちゃんにされて、嫌なこと?」
「うん。それを共有すれば俺が迷惑かけることも無いだろ。健全に仲良くなれるというわけだ」
陽菜乃が叶歩に言ったのは、全てが本心で構成された嘘だ。まぁ嘘というよりかは、その根にあるもっと大事な本懐を汲んでない発言、ということだ。
叶歩は陽菜乃の提案を聞いて妙に納得したようになるほどねぇとぼやくと、次の瞬間「わかったよ」と言ってポーチから手帳を取り出し、ボールペンを走らせた。叶歩はくちびるを結びながら、さらさらと手帳に文字をかくと、びりびりとページをちぎり、陽菜乃にわたした。
「はいどーぞ……最低限の内容になっちゃったけど、読んでよ」
「ん。ありがと」
陽菜乃は、叶歩に手渡された一片の紙を受け取り、黙読する。
すこしだけ掠れた字で、こんなことが記されていた。
・ぼくを、女の子として好きになりすぎないこと
・それを防止するために、キスとかぎゅーとかは禁止
(なるほど)
だいたい、陽菜乃が予想していた通りだ。どうやら叶歩にとっては、陽菜乃に好かれてしまうこと自体に問題があるらしい。それは叶歩の最近の振る舞いを見るに、なんとなく勘づいていた。とはいえ、「叶歩の事を好きになりすぎない」というルールは守れないというか、すでに破ってしまっている気がするが。
「俺に好かれるのは嫌?」
「……うん。嫌。」
「そうかぁ」
陽菜乃は空をみて少しだけ考えると、ため息をついた。これを言われる感情に慣れることはないなぁ、と。きっとそれは、そのセリフを言う叶歩にとっても同じことなのだろう。陽菜乃は叶歩の言葉を噛みしめ、次の提案へと歩を進める。
「じゃあ。それでは俺からも、叶歩への命令を記したルールブックを提示しようと思う」
「え、ひなのちゃんから?聞いてないよ!」
「いやいや。俺だけが叶歩の希望を一方的に聞くってのは、さすがに不公平だろ?叶歩も俺からの願いを聞くのが義理ってもんだ」
「……さては、ボクを嵌める気だな!いったい何を書くのー……」
陽菜乃は叶歩からもらった切れ端を裏返すとボールペンを握りしめ、空白に一文だけ、記していく。その文章を書いている時──鏡がないので実際の所は分からないが、陽菜乃は映画の
そんな顔をして書いた一文が、これだ。
・もし叶歩がほんとうに辛くなったら、ルールだとか信念だとかめんどくさいことはぜんぶ忘れて、陽菜乃を頼らなければいけない
それを読んだ叶歩はきょとんとすると「え?これだけ?」と素っ頓狂な声をあげた。叶歩はきっと、陽菜乃の大胆な命令で嵌められるとでも思っていたのだろう。そう予期して聞いた命令が、ただ叶歩を想うだけの優しくて暖かい文だったのだから、意表を突かれたように顔を赤くしていた。
「これはルールだ。だから守るんだ。絶対に」
「……もっと大胆な命令をするのかと。……その。優しいね」
「……ふふ。そうだろそうだろ。生優しいと思ったろ。でも残念なことに、俺の我儘はこれで終わりじゃないんだ。あと一つだけルールがある。しかもそれは、ただのルールではない」
「と、いうのは?」
陽菜乃は調子よさげに立ち上がると、腰に両手を当てて緩やかに一歩踏み出し、両手を広げた。
「俺はいまから、友情のレンタルサービスをはじめようと思うんだ」
あまりにも突拍子もないことを言ったので、叶歩は「何言ってんの」とぽかんとした様子だ。でもこれは叶歩に対して陽菜乃の我儘を通すための、革新的な作戦なのだ。
陽菜乃は叶歩の握った手帳の切れ端をひったくると、その下にもう一センテンスだけ、続きを書いた。
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