4-4
冷たく大きな手のひらだった。身を強張らせ、拘束を解こうとしたその時、聞き覚えのある声がアシエルの鼓膜を震わせた。
「騒ぐな」
低く落ち着いたその声と、口を塞ぐ手から伝わってくる形容しがたい気配に、アシエルは我知らず体の力を抜く。触れられるまでこの独特な気配に気づかないなど、薬のせいでガイドとしての能力までおかしくなっているらしい。
背後から抱き抱えられる体勢のまま、アシエルは室外の人間が通り過ぎるのをじっと待った。
やがて人の声が聞こえなくなると、口元からゆっくりと手が外される。照明の落とされた暗い部屋の中、そろりそろりと振り返ると、そこには苦り切った顔をしたディズジェーロが立っていた。
「下が騒がしいと思って来てみれば……なぜお前がここにいる、アシエル」
「いや、まあ、事情があって。助かった。ありがとう、ディー」
仕事中なのだろうか。ディズジェーロは下町に居るときの怪しいローブ姿ではなく、テンペスタの軍服を身に纏っていた。ざっとアシエルの全身に視線を走らせ、最後にむき出しになった額の傷に視線を留めたディズジェーロは、あからさまに不機嫌そうに顔を歪ませる。
「何をされた」
「あー……ちょっと痛めつけられた。悪ぃな、見苦しい格好で」
古い知り合いがいたもんで、と決まり悪く言葉を足しつつ、アシエルはそっとディズジェーロの顔を見上げた。普段顔を隠している布一枚ないだけで、随分と表情豊かに見えるものだ。
「まあ、俺の事情はどうでもいいだろ。あんたがここにいる方が驚いた。今日はあのローブ着てないんだな」
「邪魔になる」
「仕事中か?」
問い掛ければ、わずかな逡巡の後、ディズジェーロは頷いた。
ディズジェーロがこの場にいる事情次第で、アシエルの現状は良くも悪くも変わり得る。口を開くことさえ億劫ではあったが、霧散しそうな思考をかき集めつつ、アシエルは人当たりのいい笑顔を作ってみせた。
「聞きてえんだけどさ。ここって、テンペスタ?」
「……違う」
「じゃあイーリスだな。今この場で、あんたと俺の立場は対立するか?」
いくら顔見知りとはいえ、アシエルとディズジェーロの所属する国は違うのだ。テスの町ではたまたま利害が一致したが、今回もそうとは限らない。
警戒心を滲ませたアシエルの言葉に、ディズジェーロは答えなかった。代わりに再度アシエルに手を伸ばしたかと思えば、緑色の光を放つ術式を手のひらに纏わせる。
ディズジェーロの手が、そっとアシエルの額の上にかざされる。あたたかい光が額を中心にふわりと広がり、アシエルの全身を包み込んだ。緑色の光が血管に沿って体内を巡るたび、身体の痛みが嘘のように消えていく。
ほう、と息を吐いて心地よさに目を細める。優しい癒しの光は、数分も経たないうちに、アシエルの体に吸い込まれるようにして消えていった。
離れていく手を名残惜しく見送りながら、アシエルはディズジェーロを見上げて微笑みかける。
「ありがとう。あんたには、世話になってばっかりだな」
「……。お前は見るたびぼろぼろになっている。何をどうすればこの短期間で繰り返し傷を作ることになるのか、理解できない」
「治してもらっといて何だけど、あんたにだけは言われたくねえな、それ」
首を傾げるディズジェーロに、アシエルは苦笑いを返した。再度口を開こうとして、直後に肌に感じた感触に、アシエルはひゅっと息を呑む。
首に嵌められた魔封じに、ディズジェーロの手が触れていた。拘束を解こうとしてくれているのだろうが、如何せん通常からは程遠い状態であるアシエルの体は、ディズジェーロの冷たい指先が肌を掠るたび、不自然にびくりと震えては、息を跳ねさせてしまう。
そんなアシエルの大袈裟な反応を訝しんだのか、ディズジェーロは手を止め、眉根を寄せた。
「どうした」
「悪いけど……あんまり触んねえでもらっていいかな。妙な薬打たれてて、きついんだ」
「薬? 妙に心拍数が高いと思えば、そういうことか」
「あんたそういうことあんまり言わない方がいいと思うぞ。センチネルだからそういうもんだって分かるけど、丸裸にされてるみたいで落ち着かない」
鼻を鳴らしてアシエルの言葉を聞き流したディズジェーロは、身を引こうとするアシエルに構わず、再度首枷に手をかける。
「おい……」
「魔封じの枷を外すだけだ。そのままでは支障があるだろう」
言うが早いか、ぱきりと音が響いた。首に嵌められていた硬質な感触が、砕けて床に落ちていく。首枷が壊れたのを横目に確認しつつ、素早く剣を抜いたディズジェーロは、アシエルの両手を戒める縄をさっと切り落としてくれた。
自由になった腕をひらひらと振ってほぐしながら、アシエルは気まずい思いで目を泳がせる。利害が対立しないなら、知り合いのよしみで枷を外してくれと頼むつもりだったのに、駆け引きを持ちかける前から助けられてしまった。
「……どうも。悪いな、何から何まで」
「これで動けるだろう。施設の外へ転移しろ。今すぐにここから出て行け」
一刻も早く追い出したいとばかりに、矢継ぎ早に投げかけられた言葉に、アシエルは面食らう。
「……何かまずいものでもあんの? テンペスタのあんたが動かないといけないようなものが、ここにあるってことだよな? イーリスの地下にある、こんないかにも怪しい施設に」
「お前は知る必要のないことだ」
「そりゃそうだ」
ついつい口を出してしまったけれど、アシエルとて他国の事情を簡単に聞かせてもらえるとは思っていない。自分がディズジェーロの立場でも、同じ返答をしただろう。
言われたとおりに出ていきたいところではあったが、アシエルにはディズジェーロの勧告を聞き入れられない事情があった。
「とっとと出て行きたいのは山々だけど、探し物があるんだ。取られたものを取り返すまで、帰れない」
「探し物?」
「赤い石のついたペンダント。大事なものなんだ」
「……たかが物ひとつのために、故郷に別れを告げたいか?」
表面上は優しげな声音で、ディズジェーロは問いかけた。普段下町で見かけるときにはフードで隠されているから気にならないが、恐ろしいほど整っている顔というのはそれだけで迫力があるものなのだと、正面から向き合うと改めて実感する。
薄く弧を描いた唇には蠱惑的な魅力があり、見ているだけでぞくりと肌が粟立ってくる。蛇に睨まれたカエルは、きっとこんな気分だろう。思わず身を引こうとした瞬間、逃げ道を塞ぐように、ディズジェーロはアシエルの体の脇に手をついた。
「私はここにはいなかった。この施設もここに存在しなかった。……そしてお前も、誰にも看取られずに姿を消した」
ゆっくりと身を屈めたディズジェーロは、ぞっとするような声音で囁いた。
「――そうしてほしいのか、アシエル」
髪が触れそうな距離で、逸らすこともできない視線を真っ向から受け止めながら、アシエルはごくりと唾を飲んだ。アシエルとて、あわよくば誘拐犯とこの施設について、多少の情報を手に入れられたらとは思うけれど、命を懸けてまでここに留まりたいわけではない。
けれど、ペンダントを取り返さない限り、アシエルは魔術ひとつろくに使えやしないのだ。足を使ってここから出られたとして、昨日まで使えたはずの魔術が急に使えなりましたなど、周囲に説明の仕様がない。
アシエルには選択肢がないのだ。
乾いた唇を無理やり捻じ曲げ、震えを隠して笑みを浮かべる。軽薄に聞こえるようにと願いながら、アシエルは努めていつも通りの声を作った。
「言ってる意味がよく分かんねえな。言っただろ。俺、薬を打たれてるんだ。体も大概馬鹿になってるけど、頭なんてくらくらして、ろくに使い物にならねえよ。生きて出られたとしても、明日には丸ごと忘れてるだろうよ」
言った直後に、くらりと視界が揺れた。敵地で盛っている場合ではないというのに、嫌味なほどよく効く薬だ。
動けるうちに動かなければ。悠長にお喋りに興じていられる余裕はない。
「だから……まあ、そういうことだ。俺は俺で動く。あんたはあんたで動けばいい。イーリスに害がない限り、ここであんたに会ったことはきっちり忘れるし、迷惑もかけない。……怪我、治してくれてありがとうな。助かった。じゃあな、ディー」
早口で言い切り、アシエルは覆いかぶさるディズジェーロの体を押しのけた。ひらりと手を振り、部屋を出る。
しかし、別れを告げたにも関わらず、ディズジェーロの気配は一定の距離を保ってついてくる。幾ばくもしないうちにぴたりと足を止めたアシエルは、そろりと後ろを振り返った。
「あのさ」
もの言いたげに相手を見つめれば、ディズジェーロは何でもないことのように一言呟いた。
「私は私で動いている」
「ああ、そう」
本人がそう言うならばそうなのだろうが、どうにもこうにも調子が狂う。頭をかいて歩き出す直前で、ディズジェーロはアシエルに何かを投げ渡してきた。
反射的に受け取って、視線を落とす。
軍用ナイフだ。刃渡りこそ短いものの、造りは良い。人間相手なら、武器としては十分だろう。
「くれんの?」
「丸腰で動こうとする方がどうかしている」
「場合によっちゃ、これであんたを切るかもしれないのに?」
「弱ったお前に切られるほど間抜けではない」
ぶっきらぼうに言って、ディズジェーロはアシエルを追い抜いていく。
「探し物を見つけたらすぐに離れろ。従わない場合、命は保証しない」
「……了解」
小さく呟き、アシエルはディズジェーロの背を追って足を踏み出した。
滑り込むように空き部屋に入り込んでは、ディズジェーロは机の上から本棚の中までをかき回すように調べていく。何もアシエルの探し物を手伝ってくれているというわけではなく、あちらはあちらで別の探し物があるらしい。
便乗させてもらう形になるのも気が引けるが、目も耳も鼻も利くディズジェーロの後について行動すれば、人に見つかる心配は限りなく低くなる。本人が何も言わない限りは、利用させてもらって良いのだろう。
ひと通り部屋の中を探ったディズジェーロは、書類らしきものをひとまとめにすると、丁寧に炎の魔術を構築した。背後から漂ってきた焦げ臭い香りに、またか、とアシエルは顔を顰める。ディズジェーロが何かを見つけ出して持ち帰りたいのか、それとも残してはならない何かを処理しに来ているのか知らないが、いくら魔術で制御しているとはいえ、地下で炎を使われると落ち着かない。
「なあ。今さらだけど、よかったのか」
辺りを忙しなく探りつつ、アシエルは小声で問いかけた。薬に侵された体は、気を抜くとすぐに崩れ落ちそうになる。歩いて、話して、手を動かして、絶えず何かをしていなければ、とても耐えられないのだ。
訝しげにアシエルに視線を向けたディズジェーロは、粛々と焼却作業を進めながら、短く返事をした。
「よかったとは、何が?」
「俺と一緒に来たことだよ」
「私は私で動いていると言った。行き先が偶然同じだっただけだ」
「そういう言い回しは俺も好きだぜ。でも、見たやつはそうは思わない。あんた、有名なんだろう? それだけ綺麗な面してる上に、桁外れの力を持ったセンチネルってなったら、顔だって知られてるんじゃねえの」
「だとしたら何だと?」
一応は誉め言葉に分類されるはずの言葉にも、ディズジェーロは眉ひとつ動かさない。話している間にも、ディズジェーロの手の中でまたひとつ資料の束が炎に包まれ、消えていく。
「俺はイーリス、あんたはテンペスタ。今はお互い仕事中。仲の悪い隣国の兵士と一緒にいるところなんて、見られたらまずいだろ」
「問題ない。見ようが見まいが、どの道この場にいる者は全員消える」
ディズジェーロはさらりと恐ろしいことを言う。アシエルは顔を引きつらせつつ、「『消す』の間違いだろ……」と口の中だけで呟いた。
アシエルの所属する特殊部隊でも、似たような掃討任務を行うことはある。狂竜の討伐を命じられた先の作戦でも、部隊員は軍事施設の破壊と反逆者の掃討を申し付けられていた。他人のことをとやかく言える立場ではないが、
けれど、現在進行形で力を借りている相手に対して、それはあまりに不躾というものだろう。辛うじて軽口を呑み込んだアシエルは、代わりに別の言葉を口にした。
「テスの町の時もこそこそ動いて大概だったけど、魔王様のお仕事にしちゃ地味で地道なことしてるよな」
「人のことが言えるのか? 私怨で暴行された挙句、半裸で廊下をさまよう無様な勇者は初めて聞いた」
「スミマセン」
流れるように返された言葉の切れ味に怯みつつ、アシエルはすごすごと口を閉ざした。
無駄口を叩いている間にも、次々と室内の備品が灰に変わっていく。さすがにペンダントの石は燃えないだろうが、アシエルが手をつけていない場所までまっさらに燃やされているのを見ると、少々不安になってくる。
部屋を変えては同様の作業を繰り返していたそのとき、ふとディズジェーロが顔を上げた。ここではないどこかを覗くかのように遠くを見据えながら、ディズジェーロはぽつりと呟く。
「お前の場合、手当たり次第に探すより、この場所の人間に聞いた方が早いのではないか」
「今さらだな。知ってるやつがいれば、そりゃそうだけど……」
歯切れ悪くアシエルは答える。事情は他の人間から聞くことにするとモーガン相手には啖呵を切ったものの、貴族子女たちの誘拐事件が組織的な犯行である保証はない。アシエルが捕らえられていると知る者が、他にいるのかどうかさえ分からないのだ。
「いる」
角部屋の前で足を止めながら、ディズジェーロは断言した。
半開きになった扉からは、実験室らしき内装が覗いていた。人間ひとりが余裕で入れそうなほどの大きな培養槽の中に、謎の肉片がぷかりと浮かんでいる。何の研究をするための設備かさえ不明だが、見るだけでも気色が悪い。
設備を一瞥したディズジェーロは、中に足を踏み入れることすらせずに、指先を軽く振った。瞬時に生み出された魔術の黒い刃が、無情に施設を破壊していく。先ほどまでは音に気を遣っていたように思えたが、こうも派手に壊して良いのだろうか。他人事ながら心配になってくる。
崩れた室内に、人影は見当たらない。隣に立つディズジェーロをちらりと見上げて、アシエルは問いかける。
「……どこにもいなくねえ?」
「ここではない。上にいる。逃げられないとようやく理解したらしい。騒がしい声が響いている」
耳を澄ませるように小首を傾げて、ディズジェーロは薄く微笑んだ。見ているだけで背筋が冷えるような、冷酷な笑みだった。
指先ひとつで魔術を放ち、常人には聞こえぬ遠くの嘆きを拾って嘲笑を浮かべる様は、少なくとも書類漁りをする姿よりは余程、魔王と言われるにふさわしい。
「逃げられないって?」
軽い足取りで通路を歩きつつ、三つ、四つと続けざまに研究室を破壊したディズジェーロは、おどろおどろしく言葉を続けた。
「脱出口はすべて破壊した。転移の魔術を使わなければ、誰もここから出られない」
「転移って……使えるやつは軍属か、貴族お抱えの魔術師くらいだろ、そんなもん」
つまりは誰も逃げられないということだ。
見返りなくアシエルの傷を癒す優しさを見せておきながら、一方で、容赦なく他人を追い詰め、あまつさえそれを厭わない非情さをディズジェーロは持っている。それを楽しんでいる節さえあるのが恐ろしい。煙で虫を燻すように、静かに人を追い込んでいくやり方に、寒気がした。
「魔獣を狩るみたいに人を狩るんだな。怖いやつ」
何の気なしにアシエルが呟いた瞬間、前を歩いていたディズジェーロがぴたりと足を止めた。結果、ぼんやりと後を追っていたアシエルは、勢いよくディズジェーロの背中に鼻を打ち付けることになる。痛む鼻を押さえつつ、自分の不注意を棚に上げてアシエルは文句を言った。
「急に止まるなよ。どうかしたのか?」
「……この匂い」
「匂い? 何かあったのか――って、おい!」
考え込むように足を止めていたディズジェーロは、次の瞬間駆け出した。瞬く間にその姿は通路の奥へと消えていく。取り残される形となったアシエルは、人気のない真っ白な通路を唖然と眺めた。
ディズジェーロの言葉を借りるならば、アシエルたちは偶然行き先が同じだっただけで、別に一緒に行動していたわけではない。だからといって、何の説明もなしに置き去りにしていくのはどうなのだ。
混乱しつつも、一歩遅れてアシエルはディズジェーロの背を追いかけた。
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