1-2

 何が『勇者』だ。良いことなんて何もない。

 時は流れて十一年後。

 二十三を迎えたアシエルは、王女直属部隊の黒い軍服に身を包み、緑溢れる森の中、巨大な竜の前に立っていた。


「よう、はじめまして。狂竜殿」

「グルアアアァア!」


 曇天の下、辺りの木々より頭ひとつ大きい赤竜が、獰猛な唸り声を上げる。対する『勇者』ことアシエルは、狂った竜の目と鼻の先で、飄々と剣を構えていた。癖の強い金髪を風に揺らしながら、つり目がちの翠眼を細めてアシエルは笑う。

 脆弱な人の身ひとつで堂々と竜に対峙する様は、傍から見れば英雄譚の一幕のように見えたことだろう。

 実際のところ、飄々とした表情は頬が引きつっているだけだし、皮肉げに笑ったのだって、歯の根が合わぬほどの恐怖をヤケクソでごまかしているだけだ。通常であれば千人規模の部隊で討伐するべき竜をひとりで討伐せよなどという、無茶ぶりにもほどがある任務を与えられれば、誰だってこうなるだろう。

 勇者。英雄。救世主。

 偉大な称号はその人物の能力と功績に応じて周囲から自然と与えられるものであって、能力も人柄も功績もない者に名乗らせても痛々しいだけだ。だというのに、なんだってアシエルのような凡人が、『勇者』というご大層な二つ名を与えられた挙句、単独竜殺しなどという自殺行為に挑戦しなければならないのか。

 何度考えても理解できないが、所詮アシエルは天涯孤独の平民だ。祖国イーリスが望む通りの成果を出さなければ、己のようなちっぽけな存在は、王族の一言で容易く消されてしまう。やれと言われたら、頷く以外の選択肢はないのだ。

 薄暗がりの中、アシエルは震える歯を噛み締めて、首元のペンダントを強く握った。金の金具に赤い石があしらわれた首飾りは、母の形見でもあり、アシエルをハリボテの勇者たらしめるでもある。

 血よりも赤い石に指先が触れた瞬間、血管が破裂しそうなほどの、濃密な魔力が体を巡る。


「恨みはないけど、その命、譲ってくれよ!」


 言葉の終わりに合わせるように、アシエルは魔力任せに生み出した光の魔術を赤竜の鼻先へと投げつけた。生きるか死ぬかの瀬戸際で使うのは、魔術と決めている。眩い光の塊は、いつかのアシエルの記憶をなぞるような無数の矢と化し、全方位から竜へと襲いかかった。

 着弾を確認するよりも早く、アシエルは鋭く息を吐いて大地を蹴った。一歩、二歩と足が進むころには、アシエルの骨と筋肉の細部まで魔力が行き渡り、全身の強化が完了する。

 向かい来るアシエルを見咎めた竜は、巨体に見合わぬ俊敏な動きで爪を振り下ろす。けれどその時にはもう、アシエルは音を置き去りにして駆けていた。竜が腕を振り下ろした瞬間、その腕に飛び乗ったアシエルは、艶やかな鱗を足掛かりとして、竜の巨体を駆け上がる。

 生物としての格の違う相手に持久戦を挑んだところで死ぬだけだ。唯一アシエルが生き延びられる可能性があるとしたら、最も体力と気力にあふれる今、全力で竜の首を落とすことだけ。

 一か八か。前だけを見て駆け上がる。

 炎の熱気は気合いで堪えた。死ぬことに比べたら、多少の怪我など安いものだ。魔力任せに弾幕を張って竜を怯ませつつ、決死の思いでアシエルは飛び上がる。


「らあっ!」


 裂ぱくの気合いとともに、両手で握った剣を竜の首目掛けて振り降ろす。間近で響く断末魔に顔を顰めながら、アシエルは無我夢中で剣を振りぬいた。


「ぎアあぁああァ!」


 狂ったような咆哮が、空気に溶けるように消えていく。わずかに遅れて、アシエルは痙攣する竜の上に、剣を突き立てながら着地した。

 耳の奥で、うるさいくらいに拍動が響く。竜の痙攣が止まっても、噴水のように噴き出す血を全身に浴びても、アシエルは放心したまま動けなかった。


「……生きてる」


 確かめるようにアシエルは呟いた。

 実感した途端に、達成感と興奮で、汗が吹き出してくる。叫びたいほどの安堵が湧き上がってくる一方で、また死に損なったと泣きたくもなった。

 ぽたりと髪の端から竜の血が滴り落ちていく。膝をつきたい気分ではあったが、呆けている時間はない。

 誰も来ないうちに、

 胸元から首飾りを引っ張り出す。交戦前は血よりも濃い赤色だった石は、薄い桃色に変わっていた。

 丁寧に首からペンダントを外したアシエルは、先端の石を厳かに竜の血へと浸す。どくりと脈打つように震えた石は、さながら血を飲み込むかのように、じわじわと色を赤く深めていった。


(しばらくは、これで持つかな)


 色を確かめたあとで、アシエルはそっと首飾りを服の内に戻した。

 物心ついたときからアシエルの傍らにあった母の形見のペンダントには、膨大な量の魔力をため込む性質があった。ため込むだけではなく、引き出して使うこともできる。魔力は血と似たようなもので、本来であれば長期間の保存など不可能であるはずなのに、母の形見には、その法則を無視する奇妙な力があったのだ。

 アシエルがその性質に気付いたのは、ちょうど十年前、彼が正式な職業軍人となった修了式の日のことだ。


 * * *


『そっちだ! 回れ! 絶対に竜を通すな!』

『二等兵どもは前へ出ろ! 魔術も使えぬ貴様らは、せめて上級兵の盾になれ!』


 空から落ちてきた手負いの竜種を相手に、アシエルたち平民出身の軍人たちは、肉の壁を作らされていた。


『なんでこんなところに竜がいるんだよ……!』


 迫り来る竜のあぎとを前に、その日二等兵となったばかりのアシエルは、ひたすらに天を呪っていた。逃げ惑う下町の民を背に庇い、同僚とともに剣を構えて突進する。


『行け! 死ぬ気で竜に突撃しろ!』


 上級兵の無慈悲な言葉に、アシエルは顔を顰める。馴染みの下町ひとつ守れぬまま、貴族の捨て駒にされて終わるのかと思うと、ふざけるなと叫びたくてたまらなかった。


(俺にも魔術が使えたら)


 あの夜に見た少年のように戦うことができたなら、肉壁以外の何かになれただろうか。

 血を吐くような悔しさとともに母の形見を握りしめた瞬間、がぶわりとアシエルの中へ流れ込んできた。

 熱くて熱くてたまらない。竜の牙が今にもアシエルに突き刺さらんとしたその瞬間、アシエルの体を伝って噴き出た魔力の塊は、魔術ですらない不格好な矢の形になって、竜の喉元を内側から貫いた。


『え……?』


 重々しい音をたてて倒れた竜の死骸の前で、アシエルは呆然と膝をつく。

 一秒遅れて、周囲が不穏にざわめき出した。


『竜を殺した……! なんだ、あの魔術?』

『魔術師? いや、新兵――平民だ!』

『平民が魔力を持つはずあるか。大体あんな少年兵が、あれほどの魔力を持っているのはおかしいじゃないか』

『それを言ったら、竜がこんなところに出ること自体おかしい。それこそ誰かが手引きでもしない限り、わざわざ町に落ちるだなんて――』


 疑念と畏怖に染まった視線が、アシエルを突き刺す。やがて、誰かが怯えたように呟いた。


『魔族じゃないのか』


 化け物、と怯えたように呟く声が聞こえた。嫌なざわめきが、急速に広まっていく。


『――静まりなさい』


 その時、涼やかな声が、ざわめく人々の輪に割って入った。こつり、こつりと優雅な靴音を立てて歩くその人の姿を見て、人々は自然と口を閉ざす。

 陽に透けるような金色の髪に、王族特有の菫色の瞳。修了式に臨席していた第一王女ユリアは、当時二十歳を迎えたばかりの美しいかんばせに穏やかな笑みを湛えて、アシエルの目の前で足を止めた。事切れた竜の死体を眺めて、ユリアは豪胆に口角を上げる。


『お前が仕留めたのか。見事なものだ』

『あ……』


 雲の上の相手を見上げることしかできないアシエルに、ユリアは声をひそめて『悪いようにはしない。私の言う通りにしなさい』と囁いた。


『跪きなさい。私の手に口付けて』


 小声で与えられた指示を聞き、アシエルは座学で習った知識を必死で思い起こしながら、片膝を立てて跪いた。差し出された白魚のような手に、アシエルが怖々と口付けると、ユリアは周囲を囲む人々を振り返り、よく通る声で語りかけ始める。


『皆、安心しなさい。町を荒らした竜は今討たれた。命を顧みず民を守ったイーリス軍の献身と、恐怖に負けずに冷静に行動した皆の勇気を、誇りに思う。――竜を屠った若き勇者に称賛を!』


 王女に促されるまま立ち上がると、先ほどまでとは打って変わって、囃し立てるような声と拍手が聞こえてきた。目を白黒とさせるアシエルの背に、ユリアがそっと手を添える。


『出る杭は打たれる。後ろ盾のない者は、特にね。……けれどお前のその力、潰すには惜しい。どうだろう。私の下で働いてみないか』


 王族からの問いかけは、実質的な命令だ。恐々と頷いたアシエルに、ユリアは美しい微笑みを向けて囁いた。


『いい子だ。イーリスのために、これからもお前の献身を期待する。竜殺しの勇者よ』


 * * *


 ――かくして、偶然の果てに竜を殺し、ユリア王女に救われたその日、アシエルは『勇者』となった。


 アシエルに生来の魔力はない。知識に秀でてもいないし、飛び抜けた剣の腕を持つわけでもない。ないない尽くしの凡人だけれど、取り繕うことだけは得意だった。

 母の形見が与えてくれる莫大な魔力で身体を強化すれば、凡才であろうとも剛力の剣豪になれる。

 込める魔力の量が桁違いならば、ごく単純な魔術しか扱えずとも一騎当千の魔術師だ。

 膨大な魔力を溜めこむ首飾りがある限り、周囲を騙し、取り繕いながら任務をこなすことは、アシエルにとってそう難しいことではなかった。平民だろうと貴族だろうと、誰もアシエルの嘘を見抜けない。――たとえ、王族だろうとも。


 平民の出でありながら、人並み外れた実力を買われて、本来であれば貴族しか入れない特殊部隊に特例で配属された軍人アシエル。 

 『勇者』の二つ名を預かる彼は、その実、国をも騙す大嘘つきだった。



 剣を鞘に納めたアシエルは、通信の魔道具をのろのろと起動する。

 

「こちらアシエル。狂竜の討伐に成功しました」

『見ていた。おつかれさま、アシエル少尉』

「……んん?」


 親しげな声は上司のものではなく、観測を主な任務としているはずの同期のものだ。近くにいるのかと辺りを見渡すと、通信先の男は面白がるように言葉を足した。


『こっちだよ。後ろの岩場だ。森の入り口』


 振り返っても、木々が途切れた先には、荒涼とした大地が広がっているだけだ。土煙のせいで視界も悪く、人影ひとつ見えやしない。

 見える者がいるとすれば、それは異能と呼んでも差し支えがないほどに優れた五感を持つ、センチネルだけだろう。

 ため息をつきながら、アシエルは「サボってんなよ、ゼークラフト中尉」と軽口を叩いた。


『サボってなんかないさ。見るのが俺の仕事なんだから』

「便利でいいよな、センチネルは」


 センチネルとは、五感のうち、ひとつ以上の感覚が異常発達した能力者のことだ。ゼークラフト中尉のように視覚に特化したセンチネルなら、障害物すら物ともしない千里眼を持つし、聴覚のセンチネルなら、離れた会話はもちろん、鼓動の音さえ聞き分ける。触覚のセンチネルは空気の揺れで周囲の敵を感知できるし、嗅覚に特化すれば人探しはお手の物。味覚に優れた者は毒見役として比類なき力を発揮する。いずれも、軍隊はもちろん、貴族からも引く手あまたの人材たちだ。


『便利だろう。代わりに、目も頭も、さっきから痛くて仕方がないけどな』

「じゃあ余計に遠見なんてしてんなよ。……そっち、手伝いは必要か?」


 今回アシエルたち特殊部隊に与えられた任務は、隣国テンペスタと内通する軍事施設を、関係者もろとも闇に葬ること。実験生物であった狂竜の討伐は、そのうちのひとつに過ぎない。

 ゼークラフト中尉によそ見をしている余裕があるということは、本隊の仕事も終わりかけているのだろう。そうは思いつつ一応尋ねると、アシエルの予想通り『必要ない』と短い返事が返ってきた。


『もう終わる。ゆっくり戻ってきてくれていいよ』

「了解」


 アシエルが森を抜けるころには、ゼークラフト中尉の言葉通り、部隊の面々は仕事を終えていた。後処理をしている同僚たちを横目に、アシエルは乱れた気配を辿って、岩地を歩いていく。

 声なき声と、乱れた気配。昔はそれが何か分からなかったけれど、今はもう、それはセンチネルが上げる悲鳴なのだと知っている。

 案の定、辿り着いた岩陰には、ゼークラフト中尉が青い顔をして、ぐったりと座り込んでいた。

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