ハリボテ勇者の命日
あかいあとり
第一章 勇者と呼ばれた凡人
1-1
何が『勇者』だ。良いことなんて何もない。
「よう、はじめまして。狂竜殿」
「グルアアアァア!」
曇天の下、辺りの木々より頭ひとつ大きい赤竜が、獰猛な唸り声を上げる。対する『勇者』ことアシエルは、狂った竜の目と鼻の先で、飄々と剣を構えていた。癖の強い金髪を風に揺らしながら、つり目がちの翠眼を細めてアシエルは笑う。
脆弱な人の身ひとつで堂々と竜に対峙する様は、傍から見れば英雄譚の一幕のように見えたことだろう。
実際のところ、飄々とした表情は頬が引きつっているだけだし、皮肉げに笑ったのだって、歯の根が合わぬほどの恐怖をヤケクソでごまかしているだけだ。通常であれば千人規模の部隊で討伐するべき竜をひとりで討伐せよなどという、無茶ぶりにもほどがある任務を与えられれば、誰だってこうなる。
勇者。英雄。救世主。
偉大な称号はその人物の能力と功績に応じて周囲から自然と与えられるものであって、能力も人柄も功績もない者に名乗らせても痛々しいだけだ。だというのに、なんだってアシエルのような凡人が、『勇者』というご大層な二つ名を与えられた挙句、竜の前に放り出されているのだろう。
何度考えても理解できないが、所詮アシエルは天涯孤独の平民だ。祖国イーリスが望む通りの成果を出さなければ、己のようなちっぽけな存在は、王族の一言で容易く消されてしまう。やれと言われたら、頷く以外の選択肢はない。
薄暗がりの中、アシエルは震える歯を噛み締めて、首元のペンダントを強く握る。金の金具に赤い石があしらわれた首飾りは、母の形見でもあり、アシエルをハリボテの勇者たらしめる
血よりも赤い石に指先が触れた瞬間、血管が破裂しそうなほどの、濃密な魔力が体を巡る。
「恨みはないけど、その命、譲ってくれよ!」
言葉の終わりに合わせるように、アシエルは魔力任せに生み出した光の魔術を赤竜の鼻先へと投げつけた。眩い光の塊は、数十本に至る矢となって、全方位から竜へと襲いかかる。
着弾を確認するよりも早く、アシエルは鋭く息を吐いて大地を蹴った。一歩、二歩と足が進むころには、アシエルの骨と筋肉の細部まで魔力が行き渡り、全身の強化が完了する。
向かい来るアシエルを見咎めた竜は、巨体に見合わぬ俊敏な動きで爪を振り下ろす。けれどその時にはもう、アシエルは音を置き去りにして駆けていた。竜が腕を振り下ろした瞬間、その腕に飛び乗ったアシエルは、艶やかな鱗を足掛かりとして、竜の巨体を駆け上がる。
生物としての格の違う相手に持久戦を挑んだところで死ぬだけだ。唯一アシエルが生き延びられる可能性があるとしたら、最も体力と気力にあふれる今、全力で竜の首を落とすことだけ。
一か八か。前だけを見て駆け上がる。
炎の熱気は気合いで堪えた。死ぬことに比べたら、多少の怪我など安いものだ。魔力任せに弾幕を張って竜を怯ませつつ、決死の思いでアシエルは飛び上がる。
「らあっ!」
裂ぱくの気合いとともに、両手で握った剣を竜の首目掛けて振り降ろす。間近で響く断末魔に顔を顰めながら、アシエルは無我夢中で剣を振りぬいた。
「ぎアあぁああァ!」
狂ったような咆哮が、空気に溶けるように消えていく。わずかに遅れて、アシエルは痙攣する竜の上に、剣を突き立てながら着地した。
耳の奥で、うるさいくらいに拍動が響く。竜の痙攣が止まっても、噴水のように噴き出す血を全身に浴びても、アシエルは放心したまま動けなかった。
「……生きてる」
確かめるようにアシエルは呟いた。
実感した途端に、達成感と興奮で、汗が吹き出してくる。叫びたいほどの安堵が湧き上がってくる一方で、また死に損なったと泣きたくもなった。
ぽたりと髪の端から竜の血が滴り落ちていく。膝をつきたい気分ではあったが、呆けている時間はない。
誰も来ないうちに、
胸元から首飾りを引っ張り出す。交戦前は血よりも濃い赤色だった石は、薄い桃色に変わっていた。
丁寧に首からペンダントを外したアシエルは、先端の石を厳かに竜の血へと浸す。どくりと脈打つように震えた石は、さながら血を飲み込むかのように、じわじわと色を赤く深めていった。
(しばらくは、これで持つかな)
色を確かめたあとで、アシエルはそっと首飾りを服の内に戻した。
物心ついたときからアシエルの傍らにあった母の形見のペンダントには、膨大な量の魔力をため込む性質があった。ため込むだけではなく、引き出して使うこともできる。魔力は血と似たようなもので、本来であれば長期間の保存など不可能であるはずなのに、母の形見には、その法則を無視する奇妙な力があったのだ。
優れた道具は、ただの凡人を英雄に見せかけることさえ可能にする。
平民であるアシエルには
けれど、取り繕うことだけは昔から得意だった。
莫大な魔力で身体を強化すれば、凡才であろうとも剛力の剣豪になれる。
込める魔力の量が桁違いならば、ごく単純な魔術しか扱えずとも、一騎当千の魔術師だ。
膨大な魔力を溜めこむ首飾りがある限り、周囲を騙し、取り繕いながら任務をこなすことは、アシエルにとってそう難しいことではなかった。平民だろうと貴族だろうと、誰もアシエルの嘘を見抜けない。――たとえ、王族だろうとも。
平民の出でありながら、人並み外れた実力を買われて、本来であれば貴族しか入れない特殊部隊に特例で配属された軍人アシエル。
『勇者』の二つ名を預かる彼は、その実、国をも騙す大嘘つきだった。
剣を鞘に納めたアシエルは、通信の魔道具をのろのろと起動する。
「こちらアシエル。狂竜の討伐に成功しました」
『見ていた。おつかれさま、アシエル少尉』
「……んん?」
親しげな声は上司のものではなく、観測を主な任務としているはずの同期のものだ。近くにいるのかと辺りを見渡すと、通信先の男は面白がるように言葉を足した。
『こっちだよ。後ろの岩場だ。森の入り口』
振り返っても、木々が途切れた先には、荒涼とした大地が広がっているだけだ。土煙のせいで視界も悪く、人影ひとつ見えやしない。
見える者がいるとすれば、それは異能と呼んでも差し支えがないほどに優れた五感を持つ、センチネルだけだろう。ため息をつきながら、アシエルは「サボってんなよ、ゼークラフト中尉」と軽口を叩いた。
『サボってなんかないさ。見るのが俺の仕事なんだから』
「便利でいいよな、センチネルは」
センチネルとは、五感のうち、ひとつ以上の感覚が異常発達した能力者のことだ。ゼークラフト中尉のように視覚に特化したセンチネルなら、障害物すら物ともしない千里眼を持つし、聴覚のセンチネルなら、離れた場所での会話はもちろん、鼓動の音さえ聞き分ける。触覚のセンチネルは空気の揺れで周囲の敵を感知できるし、嗅覚に特化すれば人探しはお手の物。味覚に優れた者は毒見役として比類なき力を発揮する。いずれも、軍隊はもちろん、貴族からも引く手あまたの人材たちだ。
『便利だろう。代わりに、目も頭も、さっきから痛くて仕方がないけどな』
「じゃあ余計に遠見なんてしてんなよ。……そっち、手伝いは必要か?」
今回アシエルたち特殊部隊に与えられた任務は、隣国テンペスタと内通する軍事施設を、関係者もろとも闇に葬ること。実験生物であった狂竜の討伐は、そのうちのひとつに過ぎない。
ゼークラフト中尉によそ見をしている余裕があるということは、本隊の仕事も終わりかけているのだろう。そうは思いつつ一応尋ねると、アシエルの予想通り『必要ない』と短い返事が返ってきた。
『もう終わる。ゆっくり戻ってきてくれていいよ』
「了解」
アシエルがゆっくりと森を抜け終わるころには、ゼークラフト中尉の言葉通り、部隊の面々は仕事を終えていた。後処理をしている同僚たちを横目に、アシエルは乱れた気配を辿って、岩地を歩いていく。
辿り着いた岩陰には、ゼークラフト中尉が青い顔をして、ぐったりと座り込んでいた。
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