ハリボテ勇者の命日

あかいあとり

第一章 勇者と呼ばれた凡人

1-1

 宗教国家イーリスの空には膜がある。この国のみならず、大陸全土を守る結界だ。

 原理も分からぬ巨大な結界は、遠い昔、凶悪な魔物を退けるために神が人へと与えたものらしい。普段はそこにあることさえも忘れているけれど、月の消えた夜に空を見上げると、青緑色の光がひらりひらりと揺らいで見える。

 十二を迎えたばかりのアシエルは、訓練兵が集まる合宿場を抜け出して、ひとり冬空を見上げていた。


(寝れねえ)


 日中の格闘訓練の打ち所が悪かったのか、肩がじんじんと熱を持っていて、どうにもこうにも寝付けない。こんな日は、眠くなるまで外を歩くに限る。たとえ日夕点呼後の外出が禁止されていようとも、バレなければいいのだ。

 アシエルには帰る家もなければ家族もない。唯一の肉親であった母も、形見の首飾りだけを残して、数年前に流行病で死んでしまった。アシエルが死んだところで誰が困るわけでもあるまいし、そもそも同年代の訓練兵で、己に勝てる者は誰もいない。

 自分の身くらい自分で守れる。ならば初めて来た場所くらい、ひっそり散策してみたって罰は当たるまい。

 そんな少年らしい好奇心で森に踏み込んだアシエルは、はじめはふらふらと散歩をしていたが、やがて何かに呼ばれるように、岩場へと足を向けた。



 助けを求める声が聞こえた。実際に耳で聞こえるわけではなく、気配という方が近いかもしれない。

 昔からアシエルには、他の人には聞こえない、声なき悲鳴が聞こえることがあった。子どもの頃に村を訪れた旅人曰く、それはアシエルが『ガイド』の力を持っているからだという。詳しい理屈は知らないけれど、声なき声を辿っていくと、真っ青な顔で蹲っている人がいることだけは、アシエルも知っていた。

 森を抜けたアシエルは、声に呼ばれるがまま、足場の悪い岩場を慎重に下っていく。

 しかし、声なき声に気を取られていたアシエルは、すっかりと忘れていた。

 夜間外出に限らず、峡谷への立ち入りが禁じられていること。そしてそれは、峡谷で凶暴な狼魔獣が目撃されたからだということを。


「グルルルル……!」


 獣の唸り声が響く。びくりとアシエルは肩を跳ね上げた。


「……魔獣? なんでこんなところに?」


 呟いた途端に、岩陰から複数の魔獣が姿を現した。狼の魔獣は、ぽたぽたと涎を垂らしながら、アシエルを囲むように距離を詰めてくる。


「本日の夜食ってか?」


 顔を引きつらせながらアシエルは呟く。対人戦ならともかく、魔獣相手に素手はきつい。しかし腰元を探れど、アシエルの手元には野営用のナイフしかなかった。

 すり足で後ずさるうち、あっという間にアシエルは逃げ場のない岩場の角へと追い詰められてしまう。


「俺、成長期まだだからさ。食ってもうまくねえと思うよ。やめとかない?」


 冷や汗をかきながら声を掛けるが、魔獣が言葉を解するはずもない。

 ――かくなる上は、やられる前にやるしかない。

 覚悟を決めたアシエルは、両手でしっかりとナイフを握ると、真正面にいる狼の目を狙って素早く突き出した。


「キャン!」

「――っし!」


 怯んだ魔獣をすかさず蹴飛ばし、とどめを刺す。倒れる魔獣を見ることもなく、アシエルは全力で駆け出した。しかし、それを見越していたかのように、続々と狼魔獣が行く手を塞ぎ、ついにはアシエルを囲んでしまう。


(あーあ、下手打った)


 飛びかかってくる魔獣を絶望とともに見つめて、ここまでか、とアシエルは身を竦める。

 その瞬間、流れ星のように闇を裂いた光の矢が、目にも止まらぬ速さで、魔獣の首を射抜いていった。近くで見れば、それが光ではなく炎で作られたものだと分かっただろうが、当時のアシエルにそんな余裕があるはずもない。眩い光の軌跡だけが、アシエルの目に焼き付いていた。


「――耳障りだ」


 凍るような声が聞こえた。振り返ると、真っ黒なローブに身を包んだ誰かが、ひどく殺気だった様子で岩陰から顔を出している。深くフードを被っているせいで顔は見えないけれど、声と体格からして、アシエルよりもわずかに年上の少年だろう。

 仲間を殺された魔獣たちが、一斉に標的を変える。


「あ――」


 危ない逃げろ、とアシエルが叫ぶよりも早く、少年の前には、鮮やかな赤い魔法陣が展開されていた。


(魔術師⁉︎)


 宙に浮かんだ緻密な紋様が、枝葉を伸ばすように広がっていく。一秒と経たぬ間に魔法陣の中央に集まった眩い光は、瞬きのうちに何十本もの矢と化して、魔獣の群れを次々と地に沈めていった。運良く矢を逃れた魔獣すら、少年はまるで相手の一挙一動が分かっているかのように、剣の一振りで仕留めてしまう。


「すげえ……!」


 圧倒的な強さに、ただただアシエルは感動した。十を越える魔獣の群れを、たった一秒で屠るその強さ。集団に狙われてなお怯まぬ胆力も、見たこともないほど洗練された魔術を扱う実力も、とてもアシエルと変わらぬ年頃とは思えない。

 強いというのは、きっとこういう人間のことを言うのだろう。同年代の中では強い方だなんて驕っていた自分が、猛烈に恥ずかしくなった。

 あっという間に魔獣を片付けてしまった少年へと、アシエルは興奮のままに声を掛ける。


「兄さん、無茶苦茶強いな! ありが――え?」


 言い終わるより前に、ぐらりと少年の体が傾いた。崩れ落ちるように倒れたかと思えば、そのまま少年はぴくりとも動かなくなってしまう。魔獣の攻撃はすべて躱していたように見えたけれど、違ったのだろうか。

 慌ててアシエルは少年のそばに駆け寄った。


「おい、大丈夫か!」


 肩を揺さぶろうと手を伸ばした瞬間、それまで頭の中で聞こえていた声が、一際大きくアシエルの中に響いた。

――苦しい。寒い。死んでしまいたい。

――もう、楽になりたい。


「……この声、あんただったのか」


 聞いているこちらが苦しくなってくるような声なき声が、可哀想でならなかった。

 意識が混濁しているのか、呼び掛けてもほぼ反応がない上、少年の体は、暗闇でも分かるほどに傷だらけだった。フードの下に覗く唇は紫色だし、顔色など、もはや死人のようだ。


「……さ、わ……るな」


 朦朧としながらも、少年はアシエルを威嚇するように歯を剥いた。弱弱しく上げられた少年の手は、痛みからか、それとも寒さからか、細かく震えている。気づいた瞬間、迷う間もなくアシエルは手を伸ばしていた。

 アシエルにガイドの力があると教えてくれた旅人は言っていた。

 声なき悲鳴の主を見つけたら、手を握ってやりなさい。君が真実ガイドなら、が感じている苦しみを、きっと和らげてあげられるから、と。

 少年の冷たい手を、アシエルは両手でしっかりと握り込む。旅人が言っていた言葉の意味は分からなかったが、辛く苦しい思いをしている人がいて、自分に何かができるのなら、力になりたかった。それが自分を助けてくれた相手であるとなれば、なおさらだ。


「や……めろ……」


 か細い声で少年が言う。けれどアシエルは離れない。手を引こうとするのは、怯えているからだ。逃げようとするのは、怖いから。不思議とそれが分かったから、アシエルは少しでも安心させようと声を掛けた。


「大丈夫」


 少年の目を覗き込む。見たこともない濃い赤色の瞳と目が合った瞬間、アシエルと少年との間で、何かが


「……っ⁉️」


 激流にぐいと引きずり込まれるような感覚とともに、重い息苦しさがアシエルの全身を襲う。

 風が肌を嬲る。水音が耳を刺す。星明かりが目に眩しくてたまらない。強く痛む頭と、込み上げる吐き気のせいで、目の前が白く掠れた。汗と涙が吹き出して、座っていることさえ辛くなる。

 何が起こっているのか分からなかった。けれど、苦しむアシエルとは対照的に、横たわる少年の体からはゆっくりと強張りが抜け、氷のように冷たかった手が、少しずつ温まっていく。気分は最悪だったが、少しでも少年の痛みが和らいでいるのなら、きっとこれでいいのだろう。

 死にかけていた少年がセンチネルと呼ばれる特殊な能力者であり、アシエルがしたことは、センチネルの苦痛を取り除くための『調律』と呼ばれる行為だと知ったのは、随分後になってからのことだ。

 少し経つと、意識がはっきりとしてきたのか、少年は素早くアシエルの手を振り払う。


「……っ、なぜ……!」


 身を起こして後退りする姿を見て、よかった、とアシエルは口角を上げる。


「動ける、か……? あんた、手当てしないと死ぬぞ。それ」


 荒い息をつきながら、問いかける。少年の体からは夥しい量の血が流れていた。手当てをしてやりたいところだが、生憎手元に道具がない。


「俺にも魔術が使えればな。治癒の魔術」


 とはいえ、ないものねだりをしても仕方がない。無断外出の罰則は免れないだろうが、合宿場の医務官に頼むしかないだろう。

 しかし、アシエルが覚悟を決めて立ち上がった瞬間、森の方角から険しい声が聞こえてきた。


「ここにいたか、アシエル! 夜中に何をやっている、この馬鹿者!」

「げっ!」


 教官だ。無断外出がバレていたらしい。


「ゲオール教官、違うんです。こっちに怪我人が――うわっ!」


 言い訳がてら手を借りようと声を張った瞬間、少年は素早くアシエルを突き飛ばした。


「え? あっ、おい!」


 声を掛けても、少年は振り返らない。暗がりへ駆けていく後ろ姿を、アシエルは尻もちをついて呆然と見送った。



 まだアシエルが正式な軍人になる前の、遠い冬の日の記憶だ。

 あれが誰で、何をしていたのかも分からない。顔も名も知らない相手だけれど、夜闇を払ったあの鮮烈な輝きだけは覚えていた。何年経っても、アシエルにとっての強さの象徴として、記憶の片隅で燦々と輝き続けていた。

 訓練課程を終えて正式な職業軍人となった日も、下町の人々を背に庇って竜の前に立った日も、――そして、偶然の果てに竜を倒した挙句、何を間違ってか『勇者』と呼ばれるようになってしまってからも、変わらずに。

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