鬼さんどちら
@sankanba27
第1話 出会い
「助けて、泥棒」
後ろから女性の声がしたと思ったら、いきなり波子のすぐ横を、男が走り抜けた。
波子はとっさに男を追い掛けた。
30メートル位走った所で男に追い付き、肩の辺りを思い切り押してやると、男はたまらずつんのめって転倒し、ひったくったバッグが手から離れた。
男は手から離れたバッグを取り返そうと、バッグにいざり寄った。
波子は男の腰の辺りに抱きついて、バッグを取られまいとした。
「こら、離せ。殺すぞ。」男はバッグの方に再びにじり寄って行った。
少しもみ合いになっていると、ようやく周りの人の近付く声がして、男は波子の腕を振りほどき、立ち上がって逃げ出した。
バッグを取られた女性が、波子のもとにやって来た。「助かったわ、本当にありがとう。怪我は無かった。」
「大丈夫です。バッグ持って行かれなくて良かったです。」
「本当に助かったわ。大切なお金が入ってたので。」
「良かった。済みません、バスに間に合わなくなるので失礼します。」
波子は女性にバッグを返すと、足早にその場から立ち去って行った。
引ったくりの有った現場から道路を挟んで向いのバス停の辺りで、山県はその一部始終を見ていた。
山県智宏は、陸上競技短距離走のコーチ兼トレーナーとしてフリーで活躍していたが、関東ブロックの大会が輪光市であり、澤部美帆という選手が、最近どんどん記録を更新しており注目を集めているので、どんな選手か見に来たものである。
最寄り駅までバスで帰ろうとバスに乗っていたが、少し市内散策しようと途中下車し歩き出して、何気なく向いのコンビニに目を向けていたところ、高校生くらいの若い女性が店から出て来て、その後直ぐに中年くらいの女性がバッグを肩に提げて出て来て歩き出し、間をおかずにマスクをした若い男性が出て来たと思ったら、中年の女性を目掛けて走り出し、バッグを引ったくると前を歩く女性の横をすり抜けて走り続けた。
若い女性は少し振り向いたが、「助けて」の声に反応するかのように男を追いかけ、3、4秒走って直ぐに男に追い付いたものだった。
「速い、かなりの走力だ」、山県は心の中でつぶやいた。
車道の向こう側なので、何かアクションを起こすでもなく、漠然と事の成り行きを見守っていた。
若い女性は中年の女性にバッグを渡すとさっさと立ち去ってしまった。
山県は、今日自宅のある千葉県の千草市に帰ろうと思っていたが、先程の女性に興味を覚え陸上競技をやらないか、声を掛けて見ようと思い立った。
駅近くのビジネスホテルは、金曜日、土曜日の宿泊は混むが、日曜日の宿泊とあって当日の申し込みにも空きが有り、無事に一泊する事が出来た。
ホテルで荷物を解いていると強化委員の一人、橋本克哉からスマホに電話が入った。
「澤部美帆はどうだった。」
「うん、やはり凄いね。走り方に隙がないよ。」
「それじゃあコーチしてみたくなったか。」
「それが、そうでもないんだな。走りがほぼ完成されていて、俺がコーチ出来る事はなさそうなんだ。まだ、少し伸びる余地は有るけど俺がやってみたい事は無さそうだな。」
「それは残念だな。」
「それが、少し面白い子を見つけたんだ。詳しくは、戻ってから話すけど、明日その子に会って見ようと思ってる。上手く会えればいいのだが。」
「そうか、報告楽しみに待ってるよ。」
翌日、取り敢えず若い女性の出て来たコンビニから当たって見ようと思い、あまり早く行っても店に迷惑になると考え、ホテルで簡単な朝食を済ませると、チェックアウトタイムぎりぎりの10時前にホテルを出た。
ホテルを出ると、荷物が邪魔になるので一度駅に向かい、コインロッカーに荷物を預けてから目指すコンビニに向かった。
コンビニで責任者に面会を求めると、怪訝そうな顔をしながらオーナーと呼ばれる責任者が出て来た。
「何か御用ですか。」
「用と言う訳ではないのですが、昨日の夕方この店から出て来た客が、ひったくりに遭ったのをご存知ですか。」
「ああ、その事ならわかりますよ。それが何か。」
「ええ、その時そのひったくりを捕まえたのも、この店から出て来た若い女性でしたので、その若い女性について何か知らないかと思いまして。」
「ああ、ハコちゃんの事か、紀平波子うちでバイトをしてる娘だよ。」
「それは良かった。少し話しをしたいのだけれど、電話番号とか教えて貰えますか」
「いやぁ、あんたは悪い人には見えないけど、ストーカーとかこんな世の中だからそれは無理だね。」
「駄目ですか、足が早そうだったので陸上をやってみないか誘ってみようと思ったのですが。」
「そうですか、目立つ事が嫌いそうな娘だから多分無理だと思うけど、この店で話す分には良いから、今日は平日で学校が終わってからだから午後の4時からだけど、バイト入ってるのでその頃もう一度来てみたら。」
「ありがとうございます。じゃあ、そうさせてもらいます。」
店を出る時、レジ横のセルフのコーヒーサーバーから珈琲の良い匂いが流れて来た。
店を出ると、一度駅に行き最寄りの観光案内を見ながら時間のつぶし方を考えようとおもった。
JRの駅で観光案内のパンフレットを貰い見てみたが、電車で一駅行けば観光する所はかなり有りそうだけど、この駅の周辺には目立つ観光スポットは無さそうだった。
しかし、電車に乗るのも面倒なので、時間はたっぷり有る事から杉並木の散歩をしたり、ゆっくり市内を見物をしたりする事にした。
手始めに人通りの少ない並木道を散策する。
八月なのに空気がからっとしていて歩き易い。並木が線路と交差する踏切の辺りで左に折れ、暫く歩くと又別の杉並木に当たった。
流石にここまで歩くと少し汗ばんで来た。
市内の方に向かって歩くと、そこがこの杉並木の始めなのか、並木が途切れた。
丁度信号の有る角にラーメン店を見つけた。ラーメンを食べるには少し暑いかなとも思ったが、空腹をおぼえて店に入ることにした。
外観は「大慶」という店名と同様ちょっとした中華料理店風だが、中は丸テーブルがあるわけでもなく、普通のラーメン店だ。
「いらっしゃいませ」軽やかな声と共にエアコンの涼しい風が、汗ばむ額に当たって気持ちいい。
メニューも一般的なラーメン店のもので、冷やし中華にしようかとも思ったが、結局店名の付いた大慶ラーメンを注文した。
ラーメンは大ぶりのどんぶりに炒めた野菜のたっぷり入ったしょう油味のラーメン。
スープを一口啜ると、これが思いの外美味く満足して食べ終わると、少し得をした気分になった。
「ご馳走様、美味しかった。」
「またどうぞ」の返答に、後日また来る事になるとはこの時は思いもしなかった。
昼食を終え道の駅の様な直売所を眺めた後、市内の少し賑やかな場所を歩いて時間を潰した。
4時の15分くらい前に波子がバイトをするコンビニに入る。
「いらっしゃい、もう来てますよ。今、制服に着替えてますから。」
店の責任者は、そう言いながら裏の事務室に案内してくれ「そこの椅子にでも座って待ってて下さい。」一言残して仕事に戻って行った。
「私、やりませんから。」
いきなりだった。
私服のトレーナーの上に半袖の緑色の制服を着た、160cmを少し超えるくらいの女性がこちらを見ていた。
容姿は普通で、全体的にはっきりした顔立ちの娘だった。短い髪が軽やかな印象を与えた。
「えっ」山県は思わず聞き返し、「ですから、陸上やりませんから。」
「そう、かなり速く走れそうな感じなんだけど。」
「私、そういうの興味ないんです。それに説得しようとしても無駄ですから。」
「解った、今日は帰るよ。」
「でも、諦めたわけじゃないよ。近いうちに又来るから」
山県は素直に帰る事にした。
コンビニを出て空を見上げると、夕方に毎日のように夕立に見舞われると云う空が、今にも降り出しそうな暗い雲に被われていた。
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