はるのひつぎ

待鳥月見

はるのひつぎ

 学校のいちばん大きな桜の木には、春の精が宿っている。

 桜が咲き始めるころ、深夜二時ちょうどにその桜の木の前でお祈りをすると、春の精が願い事を叶えてくれる。


 ……そんな噂を聞いた。


 ◆


 四月九日、火曜日。午前一時。

 僕は真っ暗闇のなか、自転車を漕いでいた。はぁはぁと息が上がる。校門前で自転車を乗り捨てて、柵をのぼり、学校の敷地に潜入する。心臓の音がうるさい。こうした不法侵入は初めてで、緊張していた。暗闇のなか闇夜と同化した黒い輪郭の校舎も、昼間とは雰囲気が違って、木々がざわめくたびにひやりとしたものを感じた。

 数分走って、校内でいちばん立派な桜の樹に辿り着いた。

 ……なにごとも、起きないはずだった。噂はただの噂で、春の精なんて、架空のおとぎ話で。

 それなのに、彼女はそこにいた。

 白く淡く浮かび上がる病衣。長い髪は風になびき、それを白い手が抑えていた。か細い電灯がその人の、青白い美しい貌を照らしていた。歳の頃は二十二、三歳くらいか。

「春の、精……?」

 僕の声に反応して、春の精の顔がこちらに向いた。首をかしげる。

「ん、中学生? なに、そっちこそ幽霊?」

「ゆ、幽霊じゃないです」

「えぇ、じゃあ家出少年?」

 そう言って、彼女はからからと独りで笑う。

「私はここで花見をしていたんだよ。少年もそのために来たんだろう、ほら、おいで」

「そういうわけじゃ……」

「明るいところへ寄っておいでよ、お菓子もあるんだ」

 僕は言いたかった言葉を飲み込んで、彼女のそばにいくことにした。病棟から抜け出してきたかのような姿には、不審さはあったけれど、危害を加えてくるような人物には思えなかったから。

 近くによって、彼女の持ち物が露わになる。彼女が持っていたのは、筒に入ったタイプのポテトチップスと、ギンビスのアスパラガス一袋と、ビスコ、チロルきなこもちの袋だった。

「古川千晴(ふるかわちはる)」

「え?」

「名前。幽霊君の名前は?」

「……司(つかさ)」

 名前だけを名乗った。危ない感じはしなかったけど、警戒心を全く持たないのもよくないと思った。

 風が吹く。自転車を漕いでいたときは暑くて気にも留めなかったが、春の夜風はまだ少し肌寒い。

「ほら食べなよ」

 チロルきなこもちを一粒貰った。僕はそれを口に含んで、春の精のことを考えていた。

 春の精がいたら、僕は父を殺してもらおうと考えていたのだった。


 深夜のお菓子パーティは、一時間もしないうちに終わった。

「そろそろ体も冷えてきたし、帰る」と、千晴が伸びをしながら言ったのだった。


 僕たちは連絡先も交換しないで別れた。


 また会うことは、ないはずだった。


 ◆


 四月十二日、金曜日。午前一時。

 学校からほど近い公園で僕は暇をつぶしていた。スマホの明るい画面を見ながら、やることもなく、ぼーっとする。寒い上に眠い。ベンチの上で横になり、このまま死ねたら楽だろうな、とぼんやりしていた。死ぬってどんな感じなのかな。静謐な暗闇に独り取り残される感じかも。狭苦しそうな棺桶に入れられて焼かれたおばあちゃんの姿が思い出された。

「あれ、司じゃないか?」

 聞いたことのある声がした。がばっと起き上がると、その人の顔が目の前にあった。

「うわっ、ごめんなさい」

「そんなに焦らなくてもいいじゃない」

 その人はすこし僕から距離をとる。古川千晴と名乗った女性だ。背中側に手を回して、なにが楽しいのだか、体を左右へ動かす。このとき、この間は白だと感じていた病衣が、うっすら緑色をしていることに気が付いた。おばあちゃんが入院していたときに着ていた病衣と同じもののようにみえる。いや、どうだろう、違うかもしれない。

「えっと……千晴……さん、で合ってる……? 総合病院から抜け出してきてるんですか」

「そう、古川千晴、二十二歳。総合病院の六階の眺めがいいとこで暮らしてるよー。私のことは、千晴お姉さんって呼ぶといいよ」

「千晴……」

 お姉さんと呼ぼうとして、少し喉がつっかえた。親戚のお姉さんじゃあるまいし。

「ま、呼び捨てでもいいけど。それよりブランコに乗ろうよ。星が綺麗だからさ」

「星……」

 呟いて、僕は千晴に誘われるがまま、ブランコに乗った。

 ブランコを漕ぎながら上を見ると、たしかに星々がきらめいていた。

「とーっても、綺麗だね! こういうときにはタバコが吸いたくなるねえ」

 暗闇のなかでも千晴が僕に笑いかけているのがわかった。

「未成年はタバコ吸えないよ」

「えーお姉さんが買って吸わせてあげようか」

「ダメだから。興味ないし。その恰好で買えるの」

「しーらないっ」

 ふふっと、千晴はとても無邪気に笑う。

「司は家出なの?」

「ちがう」

「じゃあ追い出された?」

「……ちがう」

「ほんとぉ? 困ってるなら児相に通報したげるけど」

「やめてください」

 ブランコを止めた。俯いて、吐きそうになるのをこらえる。めまいがする。せっかく楽しい気分になれたと思ったのに、がっかりだ。

「あーあ、水を差しちゃったね、ごめん」

 千晴もブランコをとめる。

 覗き込んでいる気配があった。心配の色を滲ませて、こちらを見ているのだろうと予想が簡単にできた。教師と同じだ。僕を通りすがってきたたくさんの大人たちと同じだ。

 可哀想という目で見られることはべつにいい。それどころか、僕は無才で秀でたところもないから、大人からときどきそういう目で見られると、特別目をかけてもらっているみたいで嬉しかった。だけど、同時に大人から「助けられない子」という目で見られるのも鬱陶しさもあった。誰も助けてくれない現状に、どす黒い感情が抑圧されていた。

 つまり、誰かに助けてほしいという期待もあるのだ。

 自己分析すると泣けてくる。もちろん涙なんてひとつも零すわけがないけど。

 ああでも馬鹿な子供みたいに泣けたら楽なんだろうな。

 千晴は僕のそういった感情を悟るはずもない。どうせ世間様の常識を押し付けてくるだけなのだろうと思っていたが。

「ん、誰か殺したら、解決するの? その話。殺してあげようか。私もう長くはないから、誰かに最高のプレゼントを贈りたいの」

 僕の春の精への願いを見透かされたみたいで、ぎょっとした。千晴がそんなことを言い出してくれるなんて、あまりにも、僕にとって都合がよすぎる。

「……誰かを殺すなんて思っちゃいけないでしょ……? とても悪いことだよ」

「じゃあ、私と司は、同じくらい悪い人だ」

 その声には安らぎだけがあった。

「もしかして千晴も、誰かを殺したいくらい、憎いと思ったことが……あるの?」

 のろのろと顔をあげる。

「あるよ」

 端的に千晴は答えた。

「お父さん、お母さん、お姉ちゃん、……みんな、いなくなっちゃえばいいのにって思ったことがあるよ」

「……そうなんだ」

 笑ってしまった。

 なんだ、自分だけではないのか。指摘されてしまえば僕の自己憐憫の壁は呆気ない。この世界に人は何十億と住んでいて、僕より不幸な人はたくさんいて、たとえば僕より幼いのに過酷な目に遭っている子だって普通にありふれている。僕の不幸は多数ある不幸のなかじゃ特別じゃない。馬鹿だな、愚かだな、幼稚だな、自己嫌悪が自分のなかで虚ろに響く。束の間自分が空洞になってしまったかのように、その声は反響するのだ。

「人の不幸と、自分の不幸は、比べたらいけないよ。人のが軽くても、重くても、落ち込むから」

「そう、ですね……」

「それで、最高のプレゼントはいるの? いらないの?」

「……いまは、いりません」

 誰かに助けてほしいと願っていたけれど、千晴の手が汚れて、それで逝くなんてどうなのかと思った。善人は善人のまま死んでくれたほうがいい。ハッピーエンドを望む気持ちは僕にだってある。

「そうなんだ、じゃあ、最高の人生を変えてくれるプレゼントがほしくなったら、言ってね。私がここにいるうちなら、あげるから」

「わかりました。……千晴さん、また、会えますか」

 僕はそう訊いてしまった。

 知りたくなったのだった。この人の過去を、家族を憎む理由を、どうして入院しているのかを。

「んー、どうかな。多分会えると思うけど、でも、もう長くはないかもね」

 他人事みたいに嘯く。

「また明日、……それか、明後日、ここで同じ時間に」

「努力してみるね」

 千晴はにっこりと笑った。


 ◆


 四月三十日、火曜日。午前一時。

 千晴と最後に会ってから二週間と、少し。十二日に「明日か明後日」という約束をしたのに、僕はあれから夜間に家を出ることができないでいた。母に強く懇願されたためだった。母は父の圧制によく耐え、普通の家庭を偽装することに必死だった。

「司、なんて時間にどこに行っているの? もし補導なんてされたら、ほかの父兄の方々に会ったとき、どんな顔をすればいいと思っているの。やめなさい」などと、喚いてしがみついてきた。頬のこけた顔は化粧がぐちゃぐちゃで、掴む手は細い。そんな母を僕は振り払うことはできなかった。

 二十六日を過ぎた頃には、桜が散り始めていた。このままでは千晴との思い出が褪せてなくなってしまう。僕は焦った。そして頃合いを見て三十日、こっそりと家を出て、自転車に跨った。あの公園まで、行ってみるつもりだった。

 電灯に桜の白い花が浮かび上がっている。とはいえ花より多くの場所で緑が芽吹いているのが見受けられて、散り際なのは確かだった。

 千晴はそこにはいなかった。しんと静まり返った遊具が暗闇にぽつぽつと置かれているだけだった。当然だ。約束をしたのは二週間も前だ。

 残された千晴の手掛かりは、総合病院の六階という情報だけだった。


 ◆


 五月一日、水曜日。午後三時。

 病院内を行き交う人はさまざまだ。白衣を着ている医師、看護師、松葉杖をつく人、包帯を巻いている人……。

 総合病院の六階は「内科(血液)、神経」の病棟らしい。フロアマップを見て、僕は身体が強張っていくのを感じた。これから千晴に会いに行く。手土産は花。

 母に入院している友人を訪ねるつもりだと告げると、顔をほころばせて「ならお花を買っていくといいわ。鉢植えはダメよ。かならず切り花ね」とお金を渡してくれたのだった。母の明るい表情はめずらしかったため、少々面食らった。僕の口から友人の話が出たのが嬉しかったのだとわかって、そういえば小学生以来友人の話は家ではしていなかったような気がする。僕は母からもらったお金を使い、花屋のお姉さんにオレンジ色の小さな花束を見繕ってもらった。僕自身は花の良し悪しはいまいちわからないが、女の子が好きそうなかわいらしい感じに仕立ててもらえた、と思っている。

 それを渡しに行くだけだぞ、と心の中で唱えながら、エレベーターに乗った。千晴に会ったら言いたいことがあった。

「僕の全部をあげたら、千晴さんの全部をくれますか」

 千晴の余生に、僕が関われることが、お互いの救いとなるような、そんな妄想をしていた。

 エレベーターを降りてすぐ、ナースステーションがある。ここでお見舞いをする人は名前を表記して、各々必要であれば部屋を訊ねるようだった。

 僕は看護師に古川千晴の名前を伝えた。

 途端、看護師の顔が曇った。

「あ、古川さんのお友達ね……訃報、届いてなかったかしら。四月十一日の深夜にね、古川さんはご逝去なされているの。ええっと、いま個人情報の決まり事で、これ以上は教えられない。そうだ、ご実家の場所とか知っていらっしゃるかしら。知らないなら、ご実家から連絡してもらえるように、あなたの連絡先を伝えることはできるのだけど」

 看護師がかろうじてそのようなことを言っていたのは覚えているが、それ以降、どのような返事を自分がしたのかわからない。

 我に返ると、千晴と初めて会った、中学校の敷地内にある大きな桜の樹の下にいた。夕暮れで、校庭からは野球部やサッカー部の声が遠く聞こえる。僕の周りはしずかだった。

 四月十二日に会った古川千晴は、なんなのか。いや、でも千晴とはっきりと名乗ったのだから、千晴に決まっているだろう。千晴の幽霊が、最後に「プレゼント」をしてくれようとしていたのか。

 幽霊でもよかったのに。

 千晴ともっと話したかった。

 桜の樹の下に、花束を置く。

 叶うのなら、時が戻ってほしい。

 頭上の桜はもう散って、葉が茂りはじめている。


 ――あぁ、春が、終わる。大切な人を奪って、春が終わる。

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はるのひつぎ 待鳥月見 @matidoritukimi

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