繊細さん(笑)

時苑朝雪

繊細さん(笑)

 傷つけられたらどうしよう。そんな不安がいつも目の前にぶら下がっている。


 使い古したスウェットの紐みたいな形をして、ぷらぷらぷらぷら、視界の真ん中で揺れている。その向こう側の「たった今」にピントを戻しても、またすぐに気を取られてしまう。


 だって結局また雑に扱われちゃったら、今度こそダメな気がする。懲りずに心を開いてしまったバカな自分を、この先ずっと赦せなくなってしまう。


 いっそのこともう一生独りでもいいかな、なんて思ったりもした。実際口にしてみると本当に独りでいいような気がする。嬉しくて、誇らしくて、呪縛が解けたような清々しさにつつまれて、世の中のカップルが可哀想にすら思えた日もあった。


 だけどあるとき地下鉄で、彼氏から肩に回された手をそのままにして澄ました顔でいる女を、意地悪な目で値踏みしている自分に気づいた。降りるまでの間、真っ暗な地下鉄の窓に映り込む自分が視界の枠に入ってこないようにした。きっと眩暈がするほど虚しく、惨めで醜い姿に違いないから。


 そしてこんな痛々しい寂しさを他の誰かに見透かされでもしたら、恥ずかしさで死んじゃうかもしれないと思った。


 それで、その日のうちにマッチングアプリを始めた。32歳になったばかりだった。


 五月に初めて会った彼は、私に何も強要しなかった。


 つまり4回目のデートで彼を自分の部屋に呼んだのも、硬くなったペニスを口に含んだのも、跪いたのも、全部全部私の意思だった。あとで虚しくならないように、自分をバカだと責めないで済むように、頭の中で何度も自分自身に確かめた。


 なのに一分も経たずに胸焼けしそうな後悔が、頭蓋骨のふちいっぱいまで膨らんだ。急速に冷めていく興奮に焦りながら、夢中で頭を動かす。だけど一生懸命動けば動くほど、膝にカーペットの凹凸がめり込んで、どんどん気持ちがその場から剥がれていった。

 疲れたし、飽きたし、こんなのちっとも楽しくない。


 彼が満足そうにため息をつくたび、例の紐がぷらぷらと視界を遮る。


 今この瞬間にも「都合のいい女」のフォルダーに仕分けられていたらどうしよう。今日を境に連絡がまばらになったらどうしよう。「嫌われないように」という私への柔らかな怯えや優しい遠慮が、露骨に色褪せてしまったらどうしよう。


 そしたら私のことだから、冷たくされればされるほど相手の気持ちが気になって、相手からの返信を待っている間に占いとか通い始めて、クレジットカードの請求に給料が追いつかなくなってきたあたりでようやく気が済んで、結局また「独りの方が楽」とか言い出すに違いないのだ。

 だってこれまでずっと、そうだったし。


 始めたのは私だったから、責任感ひとつで最後までやりきった。そのときにはもう、不安は半ば確信に育っていた。

 というかすでに、彼がシーツのシワの隙間から引っ張り出したTシャツを着るテキパキした仕草や、半裸の私をよそにのんびりとスマートフォンを開いて日常に戻っていく姿に、傷つけられている。


 ほらやっぱり。目の前で揺れていたはずの紐は、いつの間にか私の喉をキリキリと締めあげていた。

 でも、20代の頃よりもよっぽどうんと早い段階で気づけたんだから、これでよかったのかもしれない。


「どうしたの?」


 不意に、彼のまんまるな両目がこっちを向いた。

 気づいて欲しかったくせに、わざと涙の粒をほっぺたに貼り付けたままでいたくせに、いざ思い通りに関心を向けられると、自分の幼稚さが強烈に恥ずかしくなって俯くしかなかった。


「……わかんない」

「おいで」


 まんまと私を利用していたはずの彼は、そう言ってあまりにも無邪気に自分の隣を叩いた。

 決まり悪さで強張った全身をトボトボと運んで、言われるままに腰掛ける。

 するとまるでずっと前から私を知っているみたいな、だけど「優しい自分」に酔った演技じみた雑味もない軽やかさで、彼は私を抱きしめた。


 これまでずっと欲しくてしかたなかったものは、思いがけないタイミングで私の手元に放り込まれた。

 夢見ていたよりもずっと気まずくて、食い込んだ関節や指先の感触は少し痛くて、相手の首筋に変な形のほくろとか見つけちゃって、なのにさっきまでのこざかしい涙なんかよりよっぽど熱くて激しい塊が、目玉と鼻の奥目掛けてどっと押し寄せた。


 そしてこんな瞬間ですら、例の紐は私の熱く潤む視界をぷらぷらと揺れている。きっと他の人にもやってるに違いない。手慣れているから、こんな風に私みたいな奴にもすんなり優しくできるのだ。調子に乗って心を開いたら、あとでもっと手ひどく傷つけられるに違いない。


 彼を好きになりたいと思った。きっとなるべきなんだとも思った。

 だけどそれ以上に、彼を嫌いになりたくなかった。

 それで、熱くとろけそうな心の外側は、結局一人でに固く乾いて、ぎゅっと閉じてしまった。


 だけど私は引き続き彼の腕の中で泣いていた。

 どうやったって被害者になってしまう自分の性が憎くて泣いた。

 ぬいぐるみを抱っこする子供みたいにまわされた手を、打算のこもった眼差しで眺めることしかできない自分が悔しくて泣いた。


 傷つけられたらどうしようって四六時中用心しているくせに、結局自分の弱さに一番傷つけられている、そんな自分が無様で、虚しくて、悲しかった。

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繊細さん(笑) 時苑朝雪 @j_asayuki

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