知ってしまったようですね……
夕飯と入浴を済ませると、自室で早速水無瀬さんに勧められた小説を読み始めた。
内容としては、大きな怪我をして一度挫折した陸上選手が素敵な女性と運命的な出会いをして、彼女に支えられながら再起を目指すものだった。
難しい表現は使われておらず、文体も思ったよりもライト寄りだったので、スラスラと読み進めることができた。
水無瀬さんが自信を持ってオススメしてきただけあり、全体的に好みの作風で夢中になってページを捲った。
久しぶりに時間を忘れるほどにおもしろい本ではあったのだが……一点だけ気になることがあった。
「……結構ラブシーン多めだな」
ジャンルとしてはスポーツものだとは思うが、恋愛要素もかなり強めで、ところどころ過激な描写が挟まれる。
一般小説のわりには濃いめの性描写だったので驚いた。とはいえ大きな賞を取った小説もそういう描写があると聞くし、別に珍しくはないのかもしれない。
ただ、この小説を勧めてきたのがあの水無瀬さんだと考えると妙な気持ちになってきた。
オススメしてきたということは、少なくとも水無瀬さんはこの小説を読んでいるということだ。
あの清楚な水無瀬さんが、こんな濃密なラブシーンが書かれた小説を……。
「な、なんか体が熱くなってきたな」
水無瀬さんはどんな気持ちで、このシーンを読んだのだろう。
自分と同じように、ソワソワしながら読み進めたのだろうか。
いや、ひょっとしたら変な目で見ているのは自分だけで、水無瀬さんはちゃんと作品の参考対象として研究していたかもしれない。
描写のひとつに、いちいち悶々としている自分がなんだか恥ずかしくなった。
……しかし、それはそれとしてだ。
「やっぱり、ちょっと生々しすぎやしないか?」
ラブシーンの描写だけを切り取ったら、その手の小説だと勘違いをしてもおかしくない。
雰囲気も、言葉のチョイスも普段ネットで読むポルノ小説と似通っている。
「……」
目線は本から別のものに移動した。
それはひとつのティッシュ箱。
……思えば蘭胤荘に引っ越してから何かと慌ただしかったし、女性しかいない環境ということから心理的な遠慮もあって、すっかりご無沙汰であった。
不本意ながら、絵のレッスンで撫で回した璃里耶の肢体と肌の感触が蘇ってくる。
本を閉じて、ティッシュを何枚か手に取った。
ああ、悔しい。そして情けない。ちょっとした敗北感と罪悪感に苛まれながらも本能に抗うことができなかった。
「だって、俺だって健全な男子なんだもん」
言い訳するように独り言を呟くと……。
ギィ、とドアが動く鈍い音がした。
「ひえ」
飛び上がる勢いで驚き、ドアのほうを見る。
……うっすらと扉が開いていた。
おかしい。ちゃんと閉めたはずだ。立て付けが悪いせいかもしれなかったが、いままでそんなことはなかった。
「だ、誰かいるのか?」
おずおずと声をかける。返事はない。
……この間も、誰かの視線を感じた。やはり誰かが扉の隙間から、自分を見ているのではないか。
唾を飲み込んで、ゆっくりと扉に近づく。
そこには誰もいなかった。
やはり気のせいか。そもそも二階に誰かが来れば、階段で足音が鳴るはずだ。
繰り返し階段を使っているからよく知っている。
あれだけ古い階段を音を鳴らさずに使うのは、なかなか至難の技だ。
できるとしたら忍者か何かだ。
安心して扉を閉めようとすると、
「ん?」
入り口の近くに、何かが落ちているのに気づいた。
薄桃色の布だった。
何だろう? 手に取って広げてみる。
……女性物のショーツだった。
若干、まだ生暖かい。
「……」
無言で階段を降りた。
向かう先は一〇一号室。璃里耶の部屋である。
なるべく女子の部屋に行かないようにするつもりだったが、もうそんなことは知ったこっちゃなかった。
ドンドン、と少し乱暴にノックする。
「俺だ、璃里耶。出てこい」
ひと声かけると、璃里耶はすぐに出てきた。
「あら、カケル。こんな夜に私の部屋に尋ねに来るなんてどうしたの? ちょっとドキドキしてしまうじゃないの」
「返すべきものを返しに来ただけだ」
「返すべきもの? 何か渡したかしら?」
「とぼけるな。こ、これを俺の部屋の前に置いていっただろ!」
薄桃色のショーツを差し出す。
璃里耶は目を丸くする。
「……これが、カケルの部屋の前に?」
「そうだ! まさかこれも絵のためのレッスンとか言うつもりじゃないだろうな!? 刺激を与えるためとか、そんな理由で置いていったのか!? 何度も言ってるだろ! 俺はハレンチな絵は描かんと!」
「……私じゃないわよ?」
「嘘をつけ! こんな変態的なことをするやつ、他に誰がいる!? まだ仄かに温かいところ、恐らく脱ぎたてだ! 貴様はいまノーパンであろう! この痴女め!」
「私ちゃんと履いてるわよ。ほら」
「ぶっ!?」
躊躇いもなく璃里耶はスカートを捲り、水色のショーツを見せつけた。
確かに履いている。
「へ、部屋に戻ってすぐに履いたんだろ?」
「今日一日履いてたものよ。なんなら触って確かめてみる? 生暖かいから」
「い、いらん! いらんから脱ごうとするな!」
ショーツに指をかける璃里耶を慌てて止める。
しかし璃里耶が犯人でないというのなら、いったい誰がこんなことを?
……ゾーッと背筋に寒気がはしる。
「や、やはり、これは怪奇現象なのか!?」
謎の視線。足音を鳴らさずに俺の部屋にショーツを置いていく何者か……。
こうして物理的証拠がある以上、俺につきまとう不可解な存在がいることは間違いなかった。
「いったい、この蘭胤荘に何が起こっているというんだ!?」
「『恐怖! パンツの置き土産!』ね」
「やかましい!」
くだらないことをドヤ顔で言う璃里耶にツッコミを入れつつも、恐怖で震えが止まらなかった。
その夜、俺は面倒だと思い使ってこなかった部屋の鍵を、初めてかけた。
厳重に戸締まりをしてから布団を頭まで被り、「邪気退散、邪気退散……」と唱え続けた。
* * *
懇願虚しく、その後も俺の周りでは謎の現象が相次いだ。
「くそ~、雨に降られるとかついてないぜ」
休日のお出かけの帰りに、運悪く悪天候に見舞われた俺は蘭胤荘に帰ると、すぐに風呂場に直行した。
幸い、まだ誰も使っていないようだったので温かいシャワーを浴びるべく服を脱ごうとする。
「……はっ!?」
そのとき、またしても何者かの視線を感じた。
すぐに脱衣所の扉を開ける。
……やはり誰もいない。
しかし、目線を下にやると、またしても女性物のショーツが一枚置かれていた。
「ひええ……」
下着フェチならば舞い上がるのかもしれないが、正体不明のショーツに興奮するほど俺の神経は図太くはなかった。
ただただ、恐ろしいとしか思えなかった。
「いったい、これは誰のパンツなんだ!?」
謎のパンツを握りしめながら俺は叫んだ。
やはり、脱ぎたてホカホカだった。
* * *
「空野くん、最近やつれてない?」
「木ノ下、安い物件はやはり何かしらの曰く付きで、人間の理解を超えた現象が起きるらしい。もしも一人暮らしをすることになったときは、気をつけろ」
「え? こわっ。何の話?」
学園で木ノ下に心配されるほど、俺は精神的に参っていた。
まさかパンツに恐怖を覚える日が来るとは思いもしなかった。
俺の心を象徴するように、その日もどんよりとした曇り空で、帰る頃にはまたもや雨が降ってきた。
「あれ?」
蘭胤荘の門に入ると、玄関扉の前に宅配袋の荷物が置いてあった。
置き配らしい。
ラベルを見ると、水無瀬さん宛ての荷物のようだった。
「雨でびしょびしょじゃないか……」
配達員は一応雨除けになる場所に置いてくれたようだが、何分古い建物なので思いもしない箇所から流れてくる雨水で荷物は濡れていた。
「さすがに、ここに置きっぱなしはまずいな」
他人の荷物を勝手に触るのは良くないとは思ったが、このまま雨で濡らすのも心配だったので回収することにした。
もしかしたら水無瀬さんにとって大事な荷物かもしれない。
とりあえず水無瀬さんの部屋の前に置いておこう。
抱えると、そこそこ重かった。何かが大量に入っているらしい。
この量なら宅配袋ではなくダンボールに詰めれば良かったのに。気が利かない業者だ。
というか、触っているだけで中身が雑に入れられているのがわかる。たまにSNSでも話題になっている悲惨なパッキングに水無瀬さんは運悪く当たってしまったようだ。
しかも雨水で濡れているので、いまにも破けてしまいそうだった。
「いかんな、慎重に運ばないと……うわっ!」
気をつけようとしたところで、宅配袋の耐久値が限界を迎えた。
湿気で脆くなった部分を突き破り、中身の荷物が雪崩のように落ちてしまった。
落下した衝撃で真空パックの包みも外れ、荷物が廊下に散乱する。
「うわーやっちゃった……水無瀬さん怒るかな……ん?」
慌てて拾おうとした俺の手はピタリと止まった。
荷物はすべて文庫本だった。
水無瀬さんの荷物なのだ。小説を大量に取り寄せても別に不思議ではない。
しかし、その表紙を見て、衝撃を受けた。
「こ、これは……」
すべての表紙が、女性の淫らなイラストだった。
『義母とお隣の未亡人との禁断の密夜』
『連れ子のハーフ三姉妹は肉奴隷』
『無垢な青い果実は、獣の色に染まる』
そのタイトルも書店の一般コーナーではとても並べられないものばかり。
官能小説というやつだった。
「な、なんで、こんなものが水無瀬さん宛に……」
あの清楚で『聖女』と謳われるお嬢様の水無瀬さんがこんなものを頼むはずがない。
もしや誰かのタチの悪いイタズラではないだろうか?
品の良い少女に卑猥なものを送りつけて、その反応を想像して楽しむ変質者の仕業と考えると合点がいく。
そうだ、そうに決まっている。
あの水無瀬さんが、官能小説を読むワケが!
「空野さん」
「ひっ!?」
いつのまにか、水無瀬さんが後ろに立っていた。
とても笑顔だった。
しかし、瞳に光がなかった。
「みみみ、水無瀬さん……こ、これは……水無瀬さん宛ての荷物が雨に濡れてたから、部屋の前に置こうと思って……」
変に誤解をされないため、慌てて状況を説明した。
そして、ハッキリと確認すべきだと思った。
この官能小説の山が、水無瀬さんが注文したものではないということを。
「で、でもさ。違うよな!? こんな荷物、水無瀬さんは身に覚えがないよな!?」
「いいえ。私が注文したものですよ?」
「……え?」
雷鳴が轟く。
雨は激しさを増し、とうとう雷雨となった。
薄暗い蘭胤荘の廊下で、水無瀬さんの貼り付けたような笑顔が雷で光る。
「うふふ。とうとう知ってしまったようですね。私の秘密を」
「み、水無瀬さん?」
後ずさりをした。
目の前にいるのは、本当に水無瀬さんなのだろうか?
俺の知る水無瀬さんとはまるで異なる気配。まるで別人だ。
水無瀬さんは落ちた官能小説を手元に集めると、余裕のある態度で俺を見た。
「そういえば空野さん。知りたがっていましたね。私がどんな小説を書いているのか」
クスリ、と清楚とは程遠い蠱惑的な笑みを水無瀬さんは浮かべる。
「よろしければ私の部屋に来てください。教えてさしあげます、私が何を作っているのかを」
初日に「部屋に来るのはご遠慮ください」と言っていたにもかかわらず、いまやむしろ歓迎するように、水無瀬さんは俺を自室まで招いた。
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