第10話 巨猪との戦い

 二ヶ月ほどが経ったある日。


 その少女はへたりこんでいた。〈不気味の森〉の深部、鬱蒼うっそうと生い茂る木々の合間に開けた地面の上に。

 彼女から3メートルほど離れた地上では、巨大な魔獣が低いうなり声を上げている。

 巨猪ジャイアント・ボア。象のような巨躯きょくに、これまた象牙のように巨大な牙を備えたその姿は、森の主と呼ぶに相応ふさわしい様相をていしている。


 魔獣は首を振り、少女を正面に見据えた。一、二度、力を溜めるように前足で地面を削る。突進の前触れだ。

 少女の顔が蒼白になる。その体が震えるのが遠目にも見えた。


 やがてそのときが訪れた。

 巨猪が地面を蹴り、暴風のように猛然と突進する。

 あたら若い命が散ったかに見えた、その刹那せつな――


 一陣の疾風が少女をさらった。

 標的を目前で失った巨猪は暴走を続け、そのまま激突した若木をなぎ倒す。砲撃のような轟音が大地を揺らした。


 一方の少女は、いつしか若い女の腕に抱きかかえられ、木々の合間をって風のように素早く移動していた。

巨猪のいる位置から充分に離れたのを確認すると、女は少女を地面に下ろした。


「もう大丈夫だよ。アイツはうちらがシバいてやるから!」


 笑顔でそう言ったのは、もちろんギャル美だ。


「お、おいギャル美。本当にヤツと戦うのか?」


 少し離れた位置にいたおれは、木々の向こうに見える巨猪の恐ろしさにおののきながら声を張った。


「もち! だってアイツ、間違いなく今回の依頼クエストの討伐対象じゃん?」


 サムズアップしながら言うと、ギャル美は巨猪に向かって駆け出した。


「ちょ、待てって!」


 慌てておれも後を追う。

 ギャル美は巨猪の目前に躍り出ると、腰にげたショートソードを抜き放った。


「ごめんね、巨猪ジャイアント・ボアちゃん。お命、頂戴いたします!」


「ま、待てギャル美! 正面から戦ったら勝てっこない!」


 とおれが言い終わらないうちに、巨猪は突進の体勢に入っていた。


「あ、危ない! けろ!」


 ズドン、と腹に響く轟音。

 心臓が喉から飛び出そうになる。


 ギャル美は……?


「うわヤッバ! 見た、オタクくん? うちの神回避!」


 生きていた。ホッとする。と同時に、脳天気にピースサインなぞを決めているギャル美にいろいろもの申したくなった。


「そんなことより見ろ、後ろを」


「へ?」


 振り向いたギャル美の瞳には、樹齢何十年もあろうかという巨木が巨猪に激突された衝撃でメキメキと音を立てて倒れる様子が映ったことだろう。


「え、ガチ? ヤバー! あんなん食らったら即死なんですけどー! ウケるー!」


「ウケんなし! つーか次が来るぞ!」


「りょ!」


 再びの突進をギャル美は飛び退き、背後に立っていた巨木がまた一本犠牲になった。

 すかさずギャル美は巨猪の臀部でんぶにショートソードの一太刀を浴びせる。

 ザクリ、と肉が切れる音がしたが、巨猪は何事もなかったようにギャル美の方へ体を向けた。


「ちょ、ガチ? 全然効いてないっぽいんですけど?」


 まあ、ご覧の通りの巨体だ。ショートソードでの浅い斬撃なぞ、かすり傷のようなものなのだろう。

 なら、どうすれば倒せる?

 おれは必死に記憶をたどった。


 この二ヶ月間、町の図書館で読んだ魔物に関する書物の数々。膨大な情報インプットのなかの、巨猪に関する項目を思い出す。


 『巨猪ジャイアント・ボア:土属性。急所は脳天』――


「ギャル美、〈エアロスラッシュ〉だ! 脳天を狙え!」


 おれはそう叫んだ。


「え、でも脳天って正面から狙わなきゃ無理くない?」


 ギャル美が巨猪の突進をかわしつつ返す。

 おっしゃるとおりで……。


「あ、わかった!」突如ギャル美が叫んだ。「オタクくん、うちがコイツを引きつけてるから、その間に“アレ”やって!」


「あ、“アレ”か? “アレ”は、でも……」


「大丈夫、オタクくんならできるよ!」


「わ、わかった。なんとかする!」


 “アレ”とは、おれがこの二ヶ月間で習得した魔法のひとつだ。スライムなどの弱い魔物には効果があったが、巨猪にも効くだろうか?

 正直、自信はない。だが、やってみるしかないだろう。


 バクバクと鳴る心臓を手で押さえる。深呼吸し、集中力を研ぎ澄ませる。


 いまこうしているうちにも、ギャル美は何度も巨猪の突進をかわしつづけている。少し、息が弾んできている。ギャル美の体力も無限ではない。決定打に欠ける現状の打破。それはおれの魔法の成功にかかっている。失敗は許されない。


 一瞬、目を閉じる。


『大丈夫、オタクくんならできるよ!』


 ギャル美の声が、いま一度胸に響いた。

 おれは目を見開き、巨猪を眼前に見据えて叫んだ。


「〈ダークネス〉!!」


 瞬間、球体状の黒煙のようなが現出し、巨猪の頭を包んだ。


 〈ダークネス〉――このいかにも中二病っぽいネーミングの魔法は、一定の範囲にを現出させ、相手の視界を奪う効果がある。食らった側からしてみれば、突如目の前が真っ暗になり、なにも見えなくなる感覚だろう。要は目くらましだ。


 しかし、現在のおれの技量では効果時間は最大約10秒とさほど長くはない。そのうえ、魔法耐性や暗闇自体に対する耐性を持つ相手に対しては、効果時間がさらに短くなるか、最悪の場合は全く効かない場合も考えられる。

 巨猪の場合はどうか――


 ギャル美に対して次の突進の構えを見せていた巨獣は、急に相手を見失ったように左右に首を振りはじめた。困惑し、うろたえているような気配も見て取れる。

 〈闇魔法ダークネス〉が効いたのだ。

 問題は、何秒間相手の行動を制限できるか。


 10秒? 5秒? ――いや、3秒でいい。

 3秒もあれば充分だろ?

 なあ、ギャル美。


「ありがと、オタクくん!」


 ギャル美は巨猪の目前で大きく跳躍しながらショートソードを振りかぶった。


「〈エアロスラッシュ〉!!」


 そう叫んだのと同時に、薄緑色の光として可視化されたが剣の刀身を包んだ。

 風属性・・・を帯びた刀身が巨猪の脳天に振り下ろされる。


 まさに渾身の一撃。

 鋭い斬撃音が響く。


 数秒ののち。

 巨獣はどう、と倒れた。断末魔の叫びを上げることすらなく。

 それを見届けると、緊張の色を浮かべていたギャル美の顔にぱっと明るい笑顔が咲いた。


「やったやった! やったー!」


 子どものように飛び跳ねて欣喜雀躍きんきじゃくやくするギャル美。

 その姿を見て、おれはホッと胸をなでおろした。



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