決意 ③

「――絢乃さん、これが僕のクルマです。さ、どうぞお乗り下さい」


 僕はリモコンキーでドアロックを解除すると、彼女のために後部座席のドアを開けた。


「ありがとう、桐島さん。でも……助手席でもいいかなぁ?」


 彼女はそう言いながら、助手席のドアに手をかけた。


「えっ、助手席……ですか?」


「うん。ダメ、かな? お願い」


 その懇願するような眼差しがこれまた可愛くて、僕のハートはまた射抜かれてしまった。


「いえ、あの……。いいですよ、絢乃さんがどうしてもとおっしゃるなら」


「やったぁ♪ ありがとう!」


 子供みたいに諸手をあげて無邪気に喜ぶ絢乃さん。こんな何でもない仕草まで破壊級に可愛すぎるなんて反則だ。これにやられない男はいないだろう。彼女はある意味、小悪魔ちゃんかもしれない。


「では、助手席へどうぞ。ちょっと狭いかもしれませんけど」 


「うん。じゃあ失礼しまーす」


 彼女はクラッチバッグを傍らに置き、お行儀よくシートに収まるとキチンとシートベルトを締めた。


 初めて出会った日に、狭い車内で至近距離に想いを寄せる女性がいるというこのシチュエーションは、男にとってちょっとした拷問ごうもんだ。オプションとしていい香りがしていればなおさら。


「――絢乃さん、何だかいい香りがしますね。何の香りですか?」


「ん、これ? わたしのお気に入りのコロンなの。柑橘系の爽やかな香りでしょ? 今のご時世、香りがキツいとスメハラだ何だってうるさいからね」


「そうですね」


 スメハラ=スメルハラスメントの略。つまり、香りによる嫌がらせということだが、今の時代は柔軟剤の香りが強いだけで嫌がらせハラスメントと言われてしまうのだ。イヤな時代になったものである。

 僕も職場でハラスメント被害に遭っているだけに、この言葉にはちょっとばかり敏感なのだ。


「セクシー系の香りって、あまり強いと相手に悪い印象を与えちゃうでしょ? だからわたしも香りには気を遣ってるの。元々シトラス系の香りは好きだったし」


「なるほど。確かに、こういう爽やかな香りなら品があっていいですよね。僕も好きです」


 逆に、どキツいセクシー系の香水は清楚な絢乃さんに似合わない気がする。お嬢さまだから、というわけでもないだろうが。


「――ところで、このクルマってお家の人から借りてるの? それともレンタカー?」


 無邪気に問うてきた絢乃さんに、僕は「いえ、自前ですよ」と答えた。というか、こんなボロいクルマを貸し出しているレンタカー店なんてあるだろうか。


「……えっ、このクルマって桐島さんの自前なの?」


 彼女は僕の返事を聞いて、目を丸くした。その眼差しは「サラリーマンの分際で背伸びしちゃって」というバカにしたものではなく、「自前なんだ、スゴいなぁ」という尊敬の念がこもっているように僕には感じられた。


「ええ、入社した時から乗ってます。でも中古なんで、あちこちガタがきてて。そろそろ新車に買い替えようかと」


 僕は彼女のために安全運転を心がけながら、少し謙遜もこめてそう答えた。でも走行距離はかなり行っていたし、車検をクリアできそうになかったことも事実だ。


「新車買うの? どんな車種がいいとかはもう決まってるの?」


「ええ、まぁ。父がセダンに乗ってるので、僕もそういうのがいいかなぁと思ってます。現金キャッシュでというわけにはいかないので、頭金だけ貯金から出してあとはローンになるでしょうけど」


「そっか……。大変だね」


 意気込んで決意を語った僕に、絢乃さんはそんなコメントをした。

 僕は同情されるのがあまり好きではないのだが、何故か彼女に同情的なことを言われるとイヤな気持ちがしなかった。それは彼女が決してお高くとまっていなくて、その言葉の端に彼女の優しさが滲んでいたからだ。

 幸いにも僕には大金をつぎ込むような趣味はないし、篠沢商事は月収が高いので貯金の額もそれなりにあった。クルマの維持費やアパートの家賃(十二万円)と光熱費やら生活費やらを引いても月に五万円くらいは貯金に回せたのだ。

 とはいえ、初対面の女性にお金の話をするのも野暮なので、絢乃さんにその話はしなかった。


「――ところで絢乃さん、助手席で本当によかったんですか?」


 その代わりに、再度そう訊ねてみると。


「うん。わたし、小さい頃から助手席に乗るのに憧れてたんだー♡」


 という無邪気な答えが返ってきた。僕にはちょっとばかり意外な返答だったので正直驚いたが、彼女のような育ちの女性なら、クルマに乗る時は後部座席というのがデフォルトなのだろう。

 つまり、この夜が彼女にとっての助手席デビューということだ。もっと上等なクルマならなおよかったのだろうが、それは言わないでおこう。


「そうですか……。それは身に余る光栄です」


「え? 何が?」


 思わずポツリと洩らした言葉に、絢乃さんが反応して顔を上げた。独り言のつもりだったのだが、聞こえてしまったらしい。


「絢乃さんの助手席デビューが、僕のクルマだったことが、です」


 可愛らしく首を傾げる彼女に、僕は誇らしい気持ちと照れ臭さ半々でそう答えた。



 その後、僕は絢乃さんに自分の家族の職業や、実家近くのアパートでひとり暮らしをしていることなどを話した。

 父が銀行員をしていること、母が結婚前には保育士として働いていたことにも彼女は感心されていたが、もっともリアクションが大きかったのは四歳上の兄・ひさしが将来自分の店をオープンさせるべく、飲食チェーンで正社員としてバリバリ働いていることだった。僕としてはちょっと面白くなかったというか、正直兄にジェラシーさえ感じていた。


「へぇー、スゴいなぁ。立派な目標をお持ちなんだね。桐島さんにはないの? 夢とか目標とか」


 と興味津々しんしんで問うてきた彼女に、大人げなく「余計なお世話だ」とも思った。放っといて頂きたい。


「…………まぁいいじゃないですか、僕のことは。今はこの会社で働けているだけで満足なので」


 多分、ぶっきらぼうに答えた僕の顔にもその感情は表れていたかもしれない。絢乃さんも少々不満げだったが、もしも「昔はバリスタになりたかったのだ」と僕の夢を語っても関心を持って下さっていたのだろうか。

 でも、そうなると「どうして諦めたのか」と詮索されるのもイヤだったし……。

 ちなみに、彼女は今もそのことについて詮索してこない。「この会社で本当にやりたい仕事はなかったの?」と訊かれたことはあっても。


 そして、このセリフはウソだが半分は僕の本心である。その当時、総務課の仕事に満足していたかといえば不満だった。総務課に配属されたことは不本意だったし、島谷氏が課長になってからは毎日不満タラタラだった。

 それでも退職せず必死に会社にかじりついていた理由は、篠沢商事の平均月給が他に受けた会社よりずっと高く、福利厚生も充実していたからだ。ここを辞めたら、こんなにいい給料がもらえて待遇もいい会社にいつ恵まれるか分からなかった。


 それよりも、僕にはその時、気がかりなことがあった。もし源一会長がお亡くなりになったら、この会社やグループ全体の経営方針はどうなってしまうのか、と。

 篠沢グループの各社がこんなに優良ホワイト企業でいられるのが(中にはブラックな部署もありそうだが……)、源一会長の経営手腕のたまものだったのだとしたら、後継者次第で変わってしまう可能性もあった。

 そして……、彼の後継者になり得るのは加奈子さんと絢乃さんだけだった。他の親族に候補者がいなければ。

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