11.焦りと迷いが蜷局を巻く

 思いついた場所はここしかなかった。

 夜七時、ぼくは古びたビルを見上げていた。周囲はまだ宵の始めだというのに静まり返り、灯りの点いた建物も僅かだった。

 見上げたビルの二階の窓からは仄暗い灯りが漏れ落ちている。

 重い足取りで階段を上がり、辿り着いた『フォール便利事務所』の扉は前回と同じく開いていた。

 そこにいる男は今日も訳知り顔で訪問者を出迎えていた。


「どーも、要君」

 届いた呼びかけに何も応えず、ぼくは部屋を見回す。いつも彼の傍で影のように寄り添う女性は今日も灰茶色の瞳でそこにあるものを見ていた。

「で、君はどうしてほしい?」

 前置きもなく問う彼が、ぼくが知る黒い服を着た少女と同じようなものであるのは分かっていた。

 その存在が理解の範疇を超えていると思われるもの。

 ぼくは再び応えず、彼の背後にある深い闇を見つめた。


「あの男を消してほしいとか?」

 その言葉にぼくの身体と心は揺らいだ。

 それは相手の死を望むことも意味している。

 確かに思いつくままにここに足を運んでいた。だけどそこまでは決して望んでいないとは思う。疑惑はあったとしても確定はしていない。けれど本当のところはどうなんだろうと問えば、自分自身が分からなくなっていた。


「分かんないんだったらこっちも困るよ」

 そう言われてもどう答えればいいか分からず、考えれば焦りだけが先立ち、何かを返そうとしてもとりあえずの言葉すら出てこない。

 沈黙が重くのしかかった。

 それを破ったのは変わらぬ呑気な声だった。


「ところで要君、代償は?」

「え?」

 ぼくは間の抜けた顔と声で問い返す。

 対する男はデスクの向こうでチェシャ猫のような笑みを浮かべていた。


「分からないならこっちから提案するよ。要君、君さぁ、幼馴染みの女の子の恋路を邪魔してない? 彼等の気持ちを君だけは知ってるよねぇ。男の嫉妬は醜いよ。だからみっともない感じじゃなくなったらまたおいでよ」

 半笑いで発せられたその言葉にぼくはカッとなった。指摘されたそのとおりであるのは間違いない。でも今はそのような話題に構っている現状でもなく、場合でもなかった。全てを分かっているはずなのに全てをはぐらかされている。そんな気かしかしなかった。


「そんなの……そんなのぼくにだって分かってますよ! だけど今はそんなことよりもしかしたら可奈子が!」

 ぼくは自分の考えさえまとまっていないのに苛立ちだけを先行させて、感情をこんがらがせていた。

 自分の感情の行き先が分からなかった。自分が何をすればいいかも分からない。そして自身の中に確信が持てるものが何もなかった。


「中野、客がお帰りだ」

 いつの間にか彼女が背後にいた。動かないでいると腕を取られ、抗おうとすると振りほどけない力で抵抗を抑え込まれていた。

「他力本願なのは君らしくないよ、要君」

 放り出されるように廊下に追い出され、その言葉が閉じる扉の隙間から聞こえた。

 寒々とした廊下で、ぼくは何もできず突っ立っていた。

 出口の見えない焦りと迷いは、まだぼくの中で蜷局を巻いている。

 閉じた扉は二度と開くことはなく、消沈の中帰宅するしかなかった。

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