2.祖母、九条八重

 降り立った駅の前方には百八十度に開けた山々の遠景が広がっていて、隣にいる時雨はそれを見て感嘆の溜息を零した。

「すごいねぇ、時雨」

 ぼくもそれに負けない感嘆の言葉を零して、その場に立ち尽くした。


 以前に来た時はまだそういった感動器官が発達していなかったのか、このように感じなかったけれども、今はぐるりと見渡せば視界に入る美しいパノラマが言葉を失わせている。多くの山々を遠い背景にして、目前にはデパートやホテルやビル、飲食店などが建ち並び、路面電車や車が行き交う光景がある。普段目にしないその数々の光景が随分遠くに来たことをぼくに感じさせていた。


「要、バス乗り場はこっちみたいだ」

 時雨がトランクを手に呼んでいた。母の田舎には到着したけれど、母の実家に行くにはまだここからバスを乗り継いで向かわなければならなかった。

 見慣れない景色を眺めながらバスに揺られてまた一時間半。

 再度降り立った場所から周囲を見回して、再び時雨は感嘆した。


「すごいな、こんな所は初めて来た」

 目の前には掌を合わせたような茅葺き屋根の家々が山間に点在する光景がある。周囲の山々は早くも所々紅葉していて、晴れた午後の空との取り合わせがとても美しかった。


「要、お祖母さんの家はどこなんだ?」

 景色に見とれていたぼくは隣からのその声に周囲をもう一度見回した。

 六年振りだけども覚えている、と思っていた。けれどその記憶は思っていたより曖昧で、集落の真ん中に立ってぼくは困惑した。周囲に建つ家々はどれも一つ一つ違っているのだけれど、その中から祖母の家を特定するには確定的な自信がない。座敷の隅っこだとか台所の床だとか廊下の端だとか厨房の扉だとか、どうでもいい断片的な記憶しか蘇ってこなくて、ぼくは辺り一帯をうろうろした。


「要かい?」

 その声が不意に頭上から届いて、ぼくと時雨は顔を上げた。

 見上げた高台には周囲と同じ茅葺き屋根の家がある。その前には手ぬぐいを頭に被った女性がいる。手にはまだ泥がついた野菜を載せた箕を持っていて、ぼくはその女性の姿に安堵の表情を浮かべて「お祖母ちゃん」と言葉を返した。

「ほら、こっちに上がっておいで、疲れたやろ」

 記憶にある声でそう言った僕の祖母、九条八重は箕を片手に持ち替えると手招きした。ぼくと時雨は連れ立ってその高台の家に向かった。


 坂を上がり到着すると、家の前で待っていた祖母はぼくと時雨を順に見て、「その子が言っていた時雨ちゃんかい?」と言って、もう一度時雨を見た。

 最初は誰でも時雨を見るとこんな反応になると思う。

 黒い服はいいとしても、彼女の顔半分を覆うような黒革の眼帯は少女には異質すぎる。ぼくの周りにいる人達は元々あまり色々と気にしない人達だから割合すぐに慣れていったけれど、やはり最初の時は今の祖母のような反応をした。


「よろしくお願いします。私は鈴木時雨といいます。この格好と眼帯は単なる趣味です。お祖母様に会えるのを楽しみにしていました。これはつまらないものですが」

 すると時雨はぼくの心配をよそにぺこりとお辞儀をすると、手際よく菓子折りを差し出した。その驚愕の姿をぼくは二度見する。

 時雨が自身の身分を偽るのはいつものことだけれども、その装い方が本当にただの少女のように見えるそのスタンダードなやり方に驚きを隠せない。鈴木というのは凛太朗の姓を拝借したのだろう。祖母には友達の妹がどうしても独特な造りの家を見てみたいと言っているから同行する、とだけ伝えていたから設定は外していない。


 祖母を窺うと最初の困惑は薄くなり、時雨を〝礼儀正しい女の子〟を見る表情になりかけている。

 相手に毎度本当のことを言えないのは十分承知していて、毎度事実を嘘で覆い隠しているのも十分承知している。今回も全てが完全な嘘ではないのだと思いたいけれどやっぱり嘘は嘘に違いなくて、誰かを騙しているという思いはいつも消えない。


「とにかく入り、立ち話もなんだ」

 祖母に言われ、ぼくと時雨は家の中に招かれる。

 午後三時を過ぎ、陽の光は翳りの兆しを見せ始めていた。山の日暮れは思うより早い。家の中は明りを灯さなければもう薄暗かった。祖母が電灯を点けると、家の内部が照らし出される。畳敷きの広い居間に囲炉裏、見上げれば煙で燻された太い梁が幾重にも張り巡らされている。ものすごい歴史もそこに積み重なっているようで、少しの眩暈すら覚えた。


「要、私は今興味津々だ」

 時雨は残った方の右の瞳を見たこともないほど輝かせて、家の中を見回している。その姿に困惑も覚えるけれど、彼女が興味津々なのはいいことだと思う。時雨は元々凝り性なところがある。長い間生きているのにまだ興味が持てる事象があるのは尊敬にも値する。


 祖母がお茶と煎餅を用意してきてくれて、ぼく達は囲炉裏を囲んで座った。

 けどなんだか会話は進まない。

 ぼくは祖母に会うのは六年振りだし、十才の子供じゃない自分でここにいるのはまだちょっと居心地が悪い。

 祖母もそのように感じているぼくに感化されているのか、もしくは母のいない里帰りに思うところがあるのか、接し方に戸惑っているようにも見える。時雨はこういった時に口を挟んだりしないから、黙ってお茶を飲んでいた。


「要、ここに来るまで大分時間かかったろ?」

「うん、でも道中にいろんなものが見られて楽しかったよ。列車の旅もなかなかないことだし」

「そうか、それならよかった。なんもない所だけど食べ物だけはおいしい。短い間だけとよう楽しんでかれ」

 まだ互いにその場の空気を譲りあってる感は漂っているけれど、祖母の抱く歓迎感は伝わってくる。それならこちらだけが居心地悪い感を出し続ける訳にはいかなかった。

「うん、ありがとうお祖母ちゃん。充分楽しんでいくよ」

 ぼくがそう伝えると祖母は笑みを見せる。その顔が母ととても似ていることに気づいて、ぼくはほんのちょっとだけ塞いだ。


 日暮れの早い山間の集落は夜の光もほとんどない。

 祖母の作った夕飯を食べて風呂に入ったぼくは早々に床についた。

 布団が敷かれた座敷にはぼくしかいない。時雨は襖を挟んだ隣の部屋にいて、多分もう眠りについている。

 時雨の風貌に少し二の足を踏んでいた祖母も、夕食を食べ終える頃にはもう馴染んでいた。「時雨ちゃん」と呼んで本当の孫のように接していた。母は一人娘で孫は男のぼくしかいないから、女の子がいるとうれしいのかもしれない。あくまで推測でしかないけれど。


 ぼくが横になっている座敷には大きな仏壇がある。今は扉が閉じられているけれど、何かの祭壇みたいなそれがぼくは子供の頃、怖かった。これだけじゃなく家の長い廊下も、近くの神社の階段も、探検した雑木林も、昼間は楽しいけれど日が落ちた途端に怖くなった。そこに落ちる影がそれらを別物にしてしまっているようで、肌に感じるその何かになんだか怯えた。それは六年経った今も変わってないと思う。


「要」

 その時、がたがたっと襖が開いて名を呼ばれ、ぼくは布団の上で飛び上がりそうになった。

「寒くないかい? こっちは冷えるのが早いからね。毛布もう一枚持ってこようか?」

 目を向けると心配して見に来た祖母が、襖の隙間から顔を覗かせていた。

「ううん、大丈夫だよ。平気」

「そうかい? 寒かったら遠慮せんといてや」

 祖母はそう言うと隣の時雨にも同じ声をかけて戻っていった。

 六年前はもっと生命力に溢れていたはずのその背中が少し小さく感じる。孤独のようなものは今もそこにはないけれど、僅かな寂しさがあることを感じ取る。でもぼくにできるのはこの数日間ここにいることだけで、それ以上のことはきっとできない気がした。

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