9.終わりと始まり

 川島から連絡があったのは、二日後の振替休日の月曜の朝だった。

 待ち合わせに指定されたのは、市の外れにある住宅や単身者用のアパートが多い地域にあるコンビニ前で、ぼくは約束の十時に間に合うよう九時に家を出た。バスを乗り継いで伝えられていたコンビニに到着すると、灰茶色の髪と瞳をした姿のいい女性が待っていた。


「ど、どうも……中野さん……」

「時間どおりだね。行こうか」


 ぼくは彼女が来るとは思っていなくて動揺しながら声をかけたけれど、彼女は前と同じく何を気にするでもなく、その場から歩き始めた。無言で前を行く彼女とはあっという間に距離を離されてしまって、ぼくは急いで後を追った。


「彼女の自宅はここからすぐのアパート。家賃は月六万二千円。かなり安い方だね。三浦カオルは偽名かと思ってたけど本名だった。現在在宅中。会うなら今だね」

 ハスキーだけれど聞き取りやすい発音でゆっくりと説明した中野さんは、次第に視界に入り始めた前方の白いアパートを指す。


「彼女の部屋は二○一号室。相手の顔を見るまで、私はあなたに付き添う」

 そのように言い伝える相手の顔に、ぼくはつい見惚れてしまう。整いすぎて時折作り物のようにも見えるけれど、そこにあまり感情の在処が見えなくても彼女の持つ穏やかな気配は確かに存在している。相手に有無を言わせないところは少し時雨に似ているなとふと思う。先導する彼女を追ってぼくはアパートの階段を上がると、二○一号室の前に立った。


 確認したけれど古い建物のせいかインターフォンがなく、扉をノックするとしばらくして僅かドアが開いた。

 その隙間から見覚えある顔が覗いた。けれど彼女、三浦カオルはその先にいるのがぼくだと気づくと慌てて扉を閉めようとした。

「ひっ……ちょ、ちょっと……」

 けれど扉は閉まらなかった。その前に中野さんの靴先が隙間に入り込み、閉まるのを阻止していた。中野さんはそのまま扉を強引にこじ開けると、ぼくに「どうぞ」と中に入るよう促した。


「私は外で待ってる」

「ちょ……なに勝手に……」

 三浦カオルの抗議を無視してぼくが部屋の中に入ると、中野さんは外から扉を閉めた。ぼくはまだ怯えを残す相手と狭い玄関で向き合った。

「入っても?」

「入ってもって言うけど、もう入ってるじゃない! 勝手にすれば!」


 三浦カオルは残った怯えを無理に掻き消すと、怒鳴りながら部屋の中に戻っていった。ぼくはサンダルやら、ハイヒールやらが散らばった猫の額ほどの玄関でスニーカーを脱ぐと、彼女の後をついていった。

 アパートの部屋は縦長の1Kだった。手前にある小さなキッチンには、使用済みの皿やらコンビニ弁当の残骸やらが積まれていて、お世辞にも片づいているとは言い難い。部屋は決してリッチ感溢れるものではなかった。凛太朗から色々もらっていたのだからもっといいい物件にいてもいい気がしたけど、そうならなかった理由は到着した部屋を見回して、合点がいった。


「ねぇ訊いてもいい? こんなにたくさんの服、全部一人で着るの?」

「はぁ? いちいちうるさいなぁ、あんたに関係ないでしょ!」

 周囲には様々な店のロゴ入りの紙袋や袋が並んでいる、というか乱雑に積み重ねられている。一度も着られないまま吊り下げられているだけの服も多く散見され、なんだか全体の印象としてはゴミ部屋とまでは言わないけれど、それに近い。凛太朗に色々と要求した金の遣い所はこれなんだなと思った。


「それで私に何の用? あんたのことは本田から聞いてるけど、あいつが言ってた夢みたいな馬鹿話、私は全然信じてないからね!」

 他人の暗部を目の当たりにして少しぼんやりしていたぼくに、彼女は再度怒鳴る。一体何のことかと一瞬考えたけれど、本田というのはあの黒Tシャツのことで、夢みたいな馬鹿話は時雨のことだろうと思った。確かに信じられるような話でもないし、ぼくとしても特に信じてくれとも思っていない。むしろそのまま信じない方が精神衛生上いいと思った。


「用件は前と同じだよ。凛太朗の指輪を返してほしい」

 そのように答えるとゴミ部屋の真ん中にいた三浦カオルは、ほんの少し表情を緩めてぼくを見上げた。

「ねぇ……ちょっと訊くけど、どうしてあんたはあの指輪にそんなに固執するの?」

「固執?」

 ぼくはそう繰り返して彼女の顔を見返す。そこにはファミレスで初めて会った時のような表情が垣間見えた気がして、少し惑う。でも彼女はそれを素早く察したのか、ぼくのその弛んだ部分に追い込みをかけるように続けた。


「そうよ、固執。あんたは凛太朗のために指輪を取り返そうとしている。頼まれもしないのに熱い友情に突き動かされたみたいにね。だからその情熱と同等に、私のことも可哀想だと思ってくれないの?」

「え?」

「私がこんなに金に固執するのは、育った家が貧乏だったからよ。子供の頃に母親は男と逃げて、私はろくでなしの父親とどうしようもない幼少時代を過ごした。そんな生い立ちだからロクに勉強もできなかったし結局高校も中退することになったし、そのせいで未だロクな仕事にも就けてない。だから凛太朗みたいな恵まれたお金持ちの子に少しぐらい恵んでもらったって、罪はないでしょ?」


 彼女はそう言って上目遣いでぼくを見る。でもぼくはただ困惑する。

 彼女の身の上話を聞いたところでしょうがない。

 何かに対する理由。彼女が言うように確かにそれは存在するのかもしれない。けれどそれを理由にして、自らが引き起こした結果から逃れることはできない。それらを言い訳にして逃れようとする行為は狡い。だけど人間だから少しでも苦痛から逃れたいと願う気持ちが生まれるのも仕方がない、理解だってできる。と、一応彼女の主張に耳を傾けはしたので、ぼくは再度要求を述べることにした。


「うん、君の言いたいことは分かったよ。それで指輪はどこにあるの?」

「ねぇ! 私の今の話、ちゃんと聞いてた?」

「もしかして、もう売っぱらったとか……」

「まだ売ってないわよ! これはちょっと……もらって悪かったかなって思ってたから……」

「じゃあ返してくれたら、助かるんだけど」

「でもこれ……もらった中でも一番の値打ち物なんだよ。換金したら相当のお金になるんだから! 凛太朗、イケメンだったけどちょっと私に真面目すぎて退屈だったから、それを我慢してやっと手に入れたものだから……ねぇ、分かるでしょ? さっき分かったって言ったよね? 私にはこれをもらっていい、正当な理由があるんだよ」


 ぼくの言葉のチョイスのせいで堂々巡りになりそうで、今度は困る。あまり脅す的な行為はしたくなかったけれど、少しそれ的なものを入れ込んでみることにした。

「君の主張はよく分かったよ。でも悪かったって思ってるなら、やっぱり返して。ぼく、結構気は長い方だから君がその気になるまで、ここに居座ることも全然苦じゃないんだけど」

「……え? それってもしかして指輪を返すまで帰らないってこと?」

「そうだね。その言葉のとおりだね」

「そ、それだけはやめてよ……あんたといるの、もう既にうんざりし始めてるんだから……わ、分かったわよ……返せばいいんでしょ!」


 何よりも居座られるのが心底嫌だったらしく、彼女は意外にもあっさり折れた。部屋の隅で埋もれているドレッサーから指輪の入った小さなケースを取り出すと、差し出した。ぼくはそれを受け取って中身を見たけど、どんな指輪なのか知らないから確認しようがない。だけどもし違うものだったらまたここに来ればいい、と思いながら彼女を見遣ると「それ、ちゃんと本物だから!」とうんざり感が混じり合った怒気溢れる声が返った。


「じゃ、おじゃましました」

 用は終えたので、指輪をパーカーのポケットにしまうとぼくは玄関に向かった。スニーカーを履いていると、後ろをついてきた彼女の声が届いた。

「ねぇ、最後にこれだけは聞いて……私だって本当は悪かったって思ってるよ……お金目当てで付き合ってて、嘘もついてた。でもその目的を超えるほど、彼のことを好きになれなかったのは私のせいじゃない。だから今だって、もらったお金は正当な代償だって思ってるよ」


 スニーカーを履き終えて、ぼくは背後の彼女を振り返る。

 彼女の顔には初めて会った時のような表情が垣間見えるような、そうでないような、でもやはりどうなのかよく分からなかった。だけどちょっと胸の奥に湧き上がるものがあった。


「あのさ、カオルさん。どうしてぼくにそんなことを言うの? ぼくにそんなことを言われても困る。ぼくに言っても君の言葉は凛太朗には伝わらないし、だからそれは無駄なことだよ。でもそれでも君がぼくに言うのは、そんな言い分、凛太朗本人には言えないからだろ? 分かってるなら言うなよ」

 ぼくは言ってしまってから後悔する。ぼくは人のことをどうこう言える立場にはない。それを分かっているはずなのに、できなかった自分にとても腹が立つ。自らに向けた苛立ちを腹に据え置いたまま、ぼくは振り返らずに外に出て扉を閉める。扉の外では黒い服を着た女性が待っているはずだった。


「……要」

「え? 凛太朗?」


 でもそこにいたのはなぜか凛太朗で、ぼくはとても動揺する。

 安アパートの壁は薄い。今到着したようには見えない彼に玄関での会話が聞こえていたのは間違いなく、色々と考えが巡って、言葉を失う。

 ぼくはゆるゆるとポケットに手を突っ込んで、取り出した古い指輪の容れ物を渡す。凛太朗は無言でそれを受け取った。


「ありがとう」

 その声が聞こえてきて、ぼくは背を向けて歩き始めた凛太朗の後ろを歩いた。

 その日別れるまでの間、凛太朗は他に何も言わなかった。

 次の日彼はいつもどおりだった。通学中に突然背後に現れてぼくを驚かして、ぽつりぽつりと会話をする。時折何かを思い出しているような表情をするけれど、それはすぐに消えていった。





 この件の数日後、三浦カオルはぼく達の与り知らぬところで行方不明になる。そのニュースはテレビでもやっていたけれど一度見過ごしてしまえば、それっきりになってしまうようなものだった。でももし、ぼくがそのニュースを目にしていても、よくある訳ではないけれど珍しくもないその事件のことは、じきに記憶から薄れていくのかもしれなかった。けれど数年前からこの街では忽然と姿を消す女の人が定期的にいて、その今もどこかで続いているかもしれない出来事のことは、心の奥のどこかにうっすらと引っかかって、残っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る