7.こっちの時雨
「立てるか?」
そう訊かれて、ぼくは目を開けた。
応急補修をした眼帯をつけた時雨がぼくの顔を覗き込んでいた。
ほんの少しの間、気を失っていたらしかった。見回すと離れた地面の上に黒Tシャツが倒れている。時々呻き声が響いてくるから、死んではいないようだった。
「身体の方は大丈夫か?」
「大丈夫だよ。時雨が施してくれたものは完璧だと思う。それを時々忘れるくらい」
ぼくは訊ねる時雨にそう答える。だけど痛みとそれは別のところにある。ぼくは時雨を見上げて懇願した。
「立てるとは思うけど、できれば肩を貸してくれると助かる」
「そうか、それならこっちの方がいいな」
そう答えた時雨の姿は一瞬歪んで見えた。
でも次の瞬間、そこには身長百九十センチの大男が立っていた。
屈強ではあるけれど優雅さもある。整った青白い相貌に、腰までの長い髪に黒いスーツ、ネクタイもシャツも黒。色味以外はいつもの時雨とは全く異なる姿だけれども、左目を覆う眼帯は共通している。そしてその中身はどちらも変わらなかった。
大男の時雨はぼくの手を引いて立たせると肩を貸す。糸は切れていないけれどそうなる一歩手前の操り人形みたいにぼくはぎくしゃく動いて、二十センチの身長差がある男にふらふらしながら連れられていく。
路地から通りに出ると、この奥で繰り広げられていたことなど誰も知るはずのない変わらぬ夜の喧噪が広がっていた。
「ところでどうしてぼくがここにいることが分かったんだ?」
ゴス風味の大男と酷い怪我人。少し目立つ姿だけれども周囲の人達は皆自分達に夢中で、誰もぼく達のことなんか見ていなかった。ぼくはよろよろと歩きながら隣の時雨に訊いた。
「多分覚え書きのつもりだったのだろうが手書きのメモを残していただろう? 帰りが遅いし少し心配になったからな」
低く落ち着いた声で時雨はそう返す。心配していた、とこちらの姿の方で言われてもうれしさはなんだか減るのだけれども、無い訳じゃない。
ぼくは歩きながら時雨に今回のことを話した。時雨は黙って詳細を聞いていたけれど最後に呆れたような顔を見せて、そして「だがそうなら彼女はもうこの店には現れないかもしれないな」と付け足した。
確かにそうかもしれなかった。彼女はぼくの存在が嫌で、ぼくを追い払おうとして、黒Tシャツ達を送り込んだ。でもそれも失敗して、次に彼女がするべきはここからも姿を消すことだ。そうすればほんっとにムカつくと称するぼくにはもう会わなくて済む。
「タクシーを拾うから、大通りに出るぞ」
時雨はそう伝えて黙った。ぼくは見上げるほどの相手を再度見て、先程から疑問に思っていたことを口にした。
「あのさ、さっきみたいなこと、どうしてその姿の方でやらないんだ?」
日々の生活で常に合理性を好む時雨が先程のような場面に遭遇したなら、体格で勝るこちらの姿で臨む方が理に適うと思った。あの場に於いて少女の姿でいる方が非合理性が高い。その回答は淡々と戻った。
「思ってもいなかった相手に反撃され、徹底的に痛めつけられる。いつもの姿の方がよりその敗北感を与えられる。受け入れ難いことはそのまま怖れになる。その効果を得られるなら、やらないのは不合理だろう。相手がクズなら尚更にな」
返ったその答えはらしい、と形容するしかなく、ぼくの口元は自然に弛んだ。
「何だ? 何がおかしい?」
「別におかしい訳じゃないよ。本当にぼくとは対極な場所にいるんだなぁと思っただけ」
「……対極か? 私は同じ場所にいるように思える」
「え?」
「遠いと思っていたら背中合わせだった。そんな感じだ」
「えーっと、そんな感じ……?」
「深く考えるな。それほど意味もない」
「そっか……」
短い会話の後、また黙ってしまった時雨と暗い夜道を歩く。
一緒に歩くぼく達はどのように見えるのだろうか。
兄妹、友人、恋人同士……。
そこまで考えて、今隣にいるのが大男の方だと思い出して、ちょっと珍奇な笑顔になった。
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