天使のイタズラ

志葉九歳

第1話

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 原初の記憶。アルバムで見たわけでも、ホームビデオで観たわけでもない。幾度となく思い出しては、僕の脳にコーヒーのシミのように、あるいは古い傷跡のように、染み込んで刻み込まれた記憶。小説にすればつまらなく、絵にすればくだらない。それでも何度書いても同じものが出来上がるくらいには鮮明な記憶。その中で君は泣いていた。



1



 喉の乾きで、目が覚めた。目脂で開かない瞼の代わりに、次第に耳が音を拾い始める。バタバタと慌ただしい音を立てて骨董品とも言える年代物の扇風機。今年こそもうダメかもなと思いつつ、3年も生きながらえている。その事はつまり、今年こそエアコンを買おうと思い立ってから3年経ったことを意味する。

 3年も経っていながら、僕の財布はおろか銀行口座にすらエアコン1台を買えるか怪しい程の金額しか入っていなかった。ある時は弾きもしない楽器に。ある時は読みもしない本に。ある時は無駄に高い割には腹が膨れない飯に。ある時は居酒屋で一度酒を呑み交わしただけのやつに。僕は金を使った。つまるところ、僕は自らの空虚な人生の埋め方を『金を使う』以外に知り得なかったのだ。ただでさえ少ないパートの収入は、給料日前に4桁残っていたことは1度もなかった。




 薄汚れたアパートの天井が目に入る。入居してすぐに見つけた顔のようなシミは毎日表情を変えていたが、今日は僕を嗤っているように見えた。

 大の字になって倒れていたリクライニング式の座椅子から体を起こす。金具でも当たっていたのか尻がいたむ。じんわりと足先にかけて温かさが広がっていく感覚。血流が滞っていた証拠だ。痺れる脚を揉みながらテーブルの上を見ると、何本かの空き缶と見覚えの無いタバコ。さしずめ、昨日の僕が興味本位で買ったものだろう。幸い、ライターもあったので、試しに吸ってみることにした。

 もう治っているとはいえ、小児喘息を患っていた僕は、タバコを始め損ねていた。腐れ大学生を自負しているからには、避けては通れない道だろう。適当に火をつけて加え、口腔内に煙を入れる。苦味が舌の上に広がったが、それだけだった。肺に入れなきゃ意味が無いんだっけ、そう思い今度は呼吸をするように吸ってみる。脳に貼った膜が引っ張られるようにぐわんと頭が揺れて痛む。息苦しい感覚と、喉の奥、肺の手前辺りがムズムズと蠢き始める。久しぶりの、けれど忘れはしない感覚。暫く──恐らく数分間──ぜえぜえとしていたが、一度大きな咳払いをしてやると、少しはマシになった。腹が立って空き缶にタバコを投げ入れるとジュッと音がした。しまった。覗き込むと酒がまだ半分ほど残っていた。項垂れながら立ち上がる。足の痺れは無くなっていた。勿体ないことをしたが、仕方ない。僕はキッチンで水を飲んだ。

 壁にかかった時計を見ると5時。確か前に時計を見た時も5時だった気がする。と言っても前に見た時は時計を見上げる勢いのまま倒れて天井が見えていたが。ともかく、12時間も寝ていたことになる。せっかくの休日を無駄にしたという実感が背を這い上がってくる。窓の外はまだ明るい。僕は休日を取り戻すべく──僕自身によって失われたものではあるが──シャワールームに入った。



2



 外に出ると──分かってはいたことだが──、夕方だというのにまだ蒸し暑かった。息をする度に50%近い湿度の空気が肺の中に入ってくるのは、なんだか自分が半分くらい魚になってエラ呼吸をしているような気分だった。せっかく先人──と言ってももちろん人ではないのだが──が、偶然にも肺という器官を手に入れたというのに、少しもったいない。「肺は元々、食道の一部なんだっけか」なんて呟きながら古代に思いを馳せてぶらぶらと歩いていると、近所の公園に着いてしまった。

 と言っても、もはやそこは公園と言うより、機能としてはただの広場に近かった。遊具のほとんどは封鎖、撤去されており、公園らしいものと言えば理不尽に地面に埋め込まれ、原色に色をつけられたタイヤ、誰が座るでも無いベンチ、それと、かろうじて撤去を免れた滑り台だけだ。他は漫然と、かつて公園であったことに胡座をかいた、だだっ広い空間が広がっているだけである。

 別に僕だって好き好んでこんな公園に来たわけじゃない。物思いに耽りながら歩き、ふと気づいたら公園の前に立っていただけだ。足を一歩、動かしてさえしまえば、通り過ぎることは容易い。だけど僕は、それをしなかった。有り体に言うなら、何かこう、運命じみたものを感じてしまったのだ。

 いや、貴重な日曜を無にした焦りがそうさせただけなのかもしれないが。

 ともかく、「たまには童心に返るのもいいかもしれない」などと、もっともらしい後付けの建前──『後付け』なのに『建前』とはこれはいかに──と共に公園へ足を踏み入れた。




 僕が公園に入ると、不思議なことが────なんてことはなく、入ってみてもそこはただただ、公園だった。しかし、敷地に入った時の公園特有のやや砂っぽい、ザシザシとした感触に、ややノスタルジーを感じたことは確かだ。思えば今履いているこの靴も、買ってから歩いた場所はほとんどが、コンクリートやアスファルト、リノリウムの上だけだ。前代未聞の感覚に僕の靴も案外、喜んでいるのかもしれない。その感触だけで『童心に返る』という僕の建前は達成されてしまったようにも思うが、『公園に入り、砂の感触に喜んで帰った』ではまるで自分は阿呆のようだ。周りに人がいれば何をしているんだと思われるだろうし、下手すれば通報案件だ。生きづらい世の中になったぜ。

 辺りを見渡して、人がいないことを確認してから、僕は公園の奥に進んだ。2000平米程の敷地の中にぽつねんと滑り台だけがある。寄ってみると、塗装は所々剥がれ、時代を感じさせる。この滑り台は一体何人の子供を滑らせてきたのだろう。そんなことを考えながら登ってみる。大人ひとりではやや手狭な1番上に立つと、公園やらその周辺が一望できた。そういえば昔は、ジャングルジムの1番上が好きだった。ナントカと煙は高いところが好き、と言うが、昔の僕はきっとそのナントカだったんだろう。……思えば喘息こそあれど、風邪をひいた覚えはないな。ほんの少し、本っ当にほんの少しだけ憂鬱になりながら滑り台から滑り降りる。地面につくと不思議とすっきりしていた。その感覚もなんだか懐かしくて、二、三回繰り返したが、飽きたのでやめた。

 近くのベンチにかかった砂を手で落としてから腰掛けて、空を見ていると、人影がこちらに向かってきている。何やら口元を手で押えているようだ。

「ぷっ。ふふふっ。何してるんですか? 先輩」

 薄暗くなり始めた夕方。何をするでもなく、例年通り何も無く過ごすはずだった僕の夏が、ようやくエンジンをかけ始める音が聞こえ始めた気がした。

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