失われた名前(一)

 地獄の夜は六時間ほどで明ける。現世と比べるとずいぶんと短い。


「どうして起こさなかった?」


 私の後に見張りをするはずだったシキが目覚めた時は既に夜明けだった。

 トキ、私、シキの順で夕べは二時間ずつ番をしようと決めていた。それなのに、トキの次の私が最後まで番を務めたのでシキは不思議がったのだ。


「忍びのおまえが体感時間を間違えるとは思えないが」


 私達は「待ち伏せ」の任務が多い。だから時計が無くても時間通りに行動できるように訓練されるし、途中で居眠りすることも無い。


「……あなた達は昨日地獄に来たばっかりでバタバタしていたでしょう? 休んだ方がいいと思ったの」

「そんな気を遣うな。おまえにだって休息は必要だ」


 うん、やっぱりシキはずいぶんと丸くなった。もしかしたら私が気づかなかっただけで昔からイイ奴だったのかもしれないが、二年前はこんな優しい言い方をしなかった。


「おはよー、分隊長にキサラっち」


 欠伸をしながらトキが近付いた。私に変な愛称が勝手につけられている。


「なぁんかさ、起きたら小隊長がしくしく泣いてんだけど喧嘩でもしたん?」

「は?」


 エナミが寝ていた方を見やると、崖の方向を見ながら三角座りしている弟の姿が見えた。昨日はシャキッと伸びていた背中が丸まって哀愁を漂わせている。


(泣いている? エナミが? どうして?)


 私が考えた一瞬の間にシキがしゅたたとエナミの方へ駆けた。くそ、弟命の私が出遅れるとは。シキに遅れながら私もエナミの元へ走った。


「ご主人……?」


 トキの報告通りエナミの横顔は涙で濡れていた。


「どうしたの、怖い夢でも見たの?」


 十九の男に対する態度じゃないなと、言ってから反省した。でも私の中のエナミの印象は二歳の頃で止まっていたりする。「ねーね」と呼ばれたあの頃だ。

 エナミは腕でぐいっと涙をぬぐった。


「ごめん二人とも、何でもないよ」

「何か有ったから泣いたんだろう?」


 シキに冷静に突っ込まれてエナミは決まりの悪い顔をした。こうして見るとまだ幼さが残る。やっぱり小隊長でいる時は精いっぱい背伸びをしているんだね。


「……思い出せないんだ」


 エナミは小さく呟いた。


「思い出せないって、何を」

「あいつの名前…………」


 下を向いた彼はまた涙ぐんだ。あいつって誰だろう? 急かさずにエナミが話してくれるのを待った。


「夢を……、夕べ久し振りにあいつの夢を見たんだ……。でも俺、あいつの名前をどうしても呼べなくて……思い出せなくて……」

「ああ、夢の中は理不尽なモンだ。気にすんなよ」


 シキが慰めたがエナミはかぶりを振った。


「夢の中だけじゃないんだ! 起きてからも思い出せない、あいつの名前が出てこない!!」


 エナミのこの荒れよう、あいつとは相当に親しい相手のようだな。呼び方からして父さんや母さんじゃないだろう。親友……、もしかして恋人とか?


「きっと一時的なもんだよ小隊長。俺だって時々大切なことをド忘れすること有るもん」


 背後からトキが声を掛けてくれた。今は彼の呑気さがありがたい。

 が、エナミははらはらと涙を落とすだけだった。そしてシキが妙に神妙な顔つきとなっている。


「あなたまでどうしたの? シキ隊長」

「………………」


 彼は私に答えずエナミへ質問した。


「ご主人、あんたがそこまで動揺する相手って、しか居ないよな……?」


 エナミが頷いた。シキはエナミの想い人を知っているんだな。弟との距離が私よりも近い気がしてちょっと悔しい。

 しかしそんな小さな嫉妬を一蹴するくらいに、衝撃的な発言をシキは放ったのだった。


「俺もあいつの名前…………思い出せねぇ」


 私、トキ、泣いていたエナミが一斉にシキに注目した。


「へ? どゆこと?」


 トキが尋ね、シキが繰り返した。


「判らねぇ。どういうことだ……?」

「ええと、二人してド忘れしちゃったってこと?」

「忘れる訳がないんだ!!」


 エナミに大声で否定されてトキが走る姿勢になりかけた。なるほど、逃げ足は相当に速そうだ。

 シキもエナミに同調した。


「そうだな、あいつは自分の命を犠牲にして俺達を助けてくれたんだ。忘れる訳がねぇ」

「それに……」


 エナミが切ない告白をした。


「俺が男として愛した唯一の人なんだ……!」


 ああ、恋人だったのか。しかもシキの話だともう亡くなっているっぽい。それは忘れられない人だよね。


「えええ、そんな大事な相手の名前が出てこないのか? そりゃ変だな。まるでみたいじゃないか」


 トキの率直な感想を受けて、エナミとシキが目を見開いた。


「まさか……」


 二人は驚愕を張り付けた顔を見合わせた。


「な、何だよ二人して……」


 エナミは茫然としている。戸惑うトキと私にシキが説明した。


「ここ地獄の第一階層ではな、名前を持たない者が稀に存在するんだ……」

「それは?」


 シキが渋い口調で答えた。


「地獄を統べる者、つまり地獄の王と主従関係にある死者達だ。彼らは自分の名前を捧げることによって統治者に忠誠を誓う。鳥の姿をした案内人がその一例だ」

「え、じゃあ管理人とかも?」

「いや、管理人も地獄の為に働いているが、仮面によって意思を封じられての強制奉公なので、統治者と主従関係にはないそうだ」

「えっ、意思を封じられてる? そうだったの!?」

「ああ。命令を出しているのは仮面の疑似人格だ。統治者が作った神器らしいがな」


 私を執拗に狙っていたのは管理人の男ではなく、仮面の疑似人格だったんだ。怖い仮面だな。

 それにしてもシキとエナミは地獄経験者だけあって、いろいろなことを知っていて頼もしい。昨日は怒ったけど彼らの加入で私とトキの生存率がグンと上がったよね。


「今の問題はあいつの名前を思い出せない点だ。名前を捧げた者は、統治者以外の者に名前を忘れられてしまうんだ」

「あ……え……?」


 正にエナミとシキが陥っている状態じゃないか。

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