第13話 月の綺麗な晩
月の綺麗な晩だった。
空気は澄み渡り、間もなく里にも六花舞う季節がやってこようとしていた。
トン、トン――――
草木も眠る夜の静寂に、小気味よい音が響き渡る。
美月姫の心臓の鼓動は、勝手に跳ねあがる。
「美月姫?」
変わることのない優しい声音・・・・・・。
美月姫は、思わず戸を開けてしまいそうになり、引っ込めた手でそっと戸に触れた。
今宵も逢瀬を重ねる二人。
「蒼空、もうここには来てはいけないと、そう言ったはず」
凛とした鈴の音のような美しい声音に、耳を澄ませる蒼空。
今の蒼空には、木戸越しに美月姫に会うことしか叶わない。それでも傍に居たかった。
引き戸一枚挟んで、内戸から頬をつけ寄り添う美月姫と、外戸に背を預け月を見上げる蒼空。
「出てこないか?今宵は月夜の美しい晩だよ・・・・・・」
どこまでも優しい声音は、美月姫を月の下に誘う。
木戸の隙間から、青白い月明りが差し込んでいる。
美月姫は、蒼空と二人いつか見た月を思い出していた。
「覚えているか?今宵のように美しい月夜を・・・・・・」
蒼空もまた、懐かしいあの頃に思いを馳せながら月を眺めていた。
「忘れたことなどありません」
二人は、今となっては戻ることのできないあの日を懐古する。
齢十四を迎えた二人は、夜中にこっそり家を抜け出し、丘の上から夜空を見上げた。
蒼空は、月を背にくるりと振り返った美月姫を見て目を瞠り、「月の女神・・・・・・?」なんて真剣に呟くから、何だかくすぐったい気分になったのを覚えている。
月光に照らされた、蒼空の黒曜石の瞳があまりにも綺麗でつい見入っていると、真剣な眼差しで見つめ返され視線を逸らすことができなかった。
『このままずっと一緒にいられたらいいね』
ずっと蒼空のことが大好きだった。蒼空はもう忘れてしまったであろう、幼き頃の約束。美月姫は心のままを言葉にした。
『約束しただろ?僕のお嫁さんになってくれるって』
蒼空が覚えていてくれたことに驚いた。破顔するほど嬉しかった。
そんな顔を見られるのが恥ずかしくて、俯いたままコクリと頷くと、突如蒼空に抱きしめられた。
『大好きだよ、美月姫』
蒼空の告白に顔をあげると、至近距離で目が合った。
『蒼空・・・・・・』
突如、蒼空が美月姫の唇に触れたため酷く動揺したのを思い出す。
それを見て意地悪な笑みを浮かべた蒼空は、今度は唇に沿ってゆっくりと指を滑らせた。
いつになく大胆な蒼空に、狼狽した美月姫の心臓の鼓動は激しさを増すばかり。
蒼空の熱っぽい視線にとらわれ、微動だにできずにいた。
気づけば、蒼空の顔が互いの鼻が触れるほど迫り思わずぎゅっと目を瞑る。
望月の照らす夜――――
想いを寄せ合う二人は、初めての口づけを交わした。
焦がれて止まない溢れる想いは、叶わぬ恋となった今、切なさが増すばかり。
今となっては戻ることのできぬあの日々に、想いを馳せることしか許されないのだから。
「そう言えばこんなこともあったな・・・・・・」
それは、追いかけるばかりで一緒になれないと嘆いたあの日の空と月のよう。
『ねえ、美月姫が夜に輝く月ならば、僕は真昼の蒼い空。僕たちは空を追いかけっこしているみたいだね』
『そうだね・・・・・・月と蒼い空は一緒になれないね・・・・・・』
しょんぼりと嘆く美月姫。
『そんなことないよ。ほら、よく見て。蒼い空にひっそりと浮かぶ白い月が見えるだろ』
『ああ、ほんとだ!月だ!蒼い空にうっすらと白く輝く月が見える!』
幼き美月姫は、蒼い空を写しとったような美しい瞳を輝かせた。
『よかったな』
『うん。これで蒼空と私は一緒にいられるね!』
『そうだな』
月を見つめる蒼空は、フフッと笑みを零した。
『あの月、いつも僕の後ろにくっついて回る美月姫のようだ』
『え?それを言うなら、私について回る蒼空でしょ』
『そうだな』
あまりにも素直に肯定するものだから拍子抜けしてしまった美月姫だが、お日さまみたいにあたたかな眼差しの蒼空に微笑み返した。
「ああ、懐かしい・・・・・・」
「今の僕は、このまま君をどこかに連れ去りたい気分だよ・・・・・・」
「蒼空・・・・・・?」
「僕たちはもう・・・・・・あの頃に戻ることはできないだろうか・・・・・・」
そう呟く蒼空の憂いを帯びた声に、美月姫の胸が締め付けられた。
「・・・・・・もしも、あの頃に戻ることができたなら、蒼空はどうしたい?」
つい質問を投げかけてしまった。
「・・・・・・父さんが亡くなる前に、君をお嫁さんに・・・・・・」
「蒼空・・・・・・」美月姫は蒼空の言葉を遮った。それ以上話させてはいけない、そう思ったから。
過ぎ去りし時は戻すことはできないのだ。思いは募っていくばかりで、大切な思い出までもが悲しいものになってしまわないように、美月姫は続けた。
「蒼空、もう戻った方が・・・・・・」
「美月姫、君ならばどうしたい?」
まさかの返しに心臓がドキリと音を立てた。
蒼空の家族は寄る辺ない美月姫をあたたかく迎い入れてくれた。そのおかげで、これまで何不自由なく暮らしてこられた。本来ならば、幼き娘が一人で生きることなどできない。今頃は、どこかで乞食のように暮らしているか、女郎屋に売られ男たちの慰み者になっていたであろう。そんな自分は、思いなど申せる立場ではないのだ。
「私は・・・・・・私はただ・・・・・・運命を受け入れることしか・・・・・・」
その返答に強く反応した蒼空は、木戸に向き直ると両の拳を握りしめ声を荒げた。
「ならば、都に行こうというのか!」
いつも冷静沈着な蒼空が、珍しく声を荒げた。
「どうして?どうして、そのことを知っているの・・・・・・?」
蒼空には知られたくはなかった。きっと、悲しませてしまうと思ったから話せなかったのだ。
だが、蒼空はそのすべてを知っていた。美月姫は「ああ」と思った。
「なぜそんな大切なことを話してくれないんだ!美月姫からしたら僕はその程度の人間だったというのか!」
今日の蒼空はいつもと違う。このように取り乱し、感情を露わにするような人ではなかった。
蒼空はいつだって冷静で・・・・・・。そうさせているのも、自分の他ならない。
「それは・・・・・・」
話さないのではなく話せなかった。それは縁談を結んだ時の蒼空とて同じであったに違いない。
今になり、あの時の蒼空の気持ちが痛いほど分かる。それにもう自分だけの蒼空ではないのだから。
この胸の内を明かすことができるのならば。その胸に飛び込むことができるのであれば。どんなに楽だろうか。今となっては、胸の内を話すことすら許されないのだ。
残酷な現実を・・・・・・、抗えない運命を・・・・・・、ただ受け入れ流されて生きていくしかない。
自分はそういう運命なのだと。抗ったところでどうにもならなかったのだから。
寄る辺ない美月姫を引き取り、これまで我が子のように大切に育ててくれた綾乃。その綾乃が困っている今、何も持っていない美月姫ができる唯一の恩返しは、蒼空と別れることだった。
美月姫が蒼空との幸せを望んだとき、蒼空と家族から幸せを奪うことになった。
幼き頃から蒼空を一途に思い続けた小雪は、蒼空と家族に幸せを与えた。
与える側の小雪と奪う側の美月姫。同じ人を愛した対照的な二人の運命はこうして幕を閉じた。
それでも、蒼空と家族には幸せになって欲しい・・・・・・。美月姫の心からの願いだった。
けれども、蒼空との別れはあまりにも唐突で。未だ気持ちの整理がつかずにいた。
悪夢を見ているだけだと、諦めの悪い自分がそこにいた。
これまで、蒼空のいない人生なんて想像したこともなかった。
寂しさに胸が押し潰されてしまいそうで。苦しくて、悲しくて、やりきれないこの気持ちは・・・・・・。
行き場のないこの思いは・・・・・・。
確かなことは、美月姫は蒼空の傍にいてはいけないということ。己の存在は人を不幸にしてしまう。
「私は蒼空と家族の幸せを心から願っています。蒼空のことは兄妹として慕っているから」
「は?兄妹って・・・・・・急に何を言いだすんだ!君は心を偽っている!」
「私は自分の運命に従います。だからどうか、私のことは忘れて・・・・・・」
「忘れられる訳ないだろ!僕が好きなのは美月姫だけだ・・・・・・!」
ああ、蒼空。あなたはいつだって欲しい言葉をくれる。だから、それだけで十分・・・・・・。
「小雪は蒼空のことが本当に好きなの。あなたの家族を救ってくれたのは小雪なのよ。だから幸せにしてあげて。それにあなたはいつか父親になるのよ。そんなに頼りなくてどうするの。しっかりして」
「そんな言葉、美月姫の口から聞きたくない!」
「それから・・・・・・私は自分で決めた人生を歩みます。私の幸せを願うならここには二度と来ないで!」
心を鬼にして言い放つ美月姫の瞳から、涙が止めどなく溢れ出す。
「君の口から、そんな事を言わせるなんて・・・・・・僕は最低な男だな・・・・・・」
蒼空は、己の不甲斐なさに嫌気がさした。美月姫からしたら、自分を捨て他の女性と婚姻を結んだ男が、毎晩のようにやってこられたら迷惑でしかないだろう。
嗚咽を堪え、咽び泣く美月姫。
蒼空と家族の幸せのために、美月姫にできること・・・・・・。
美月姫にはもう、失うものは何一つない。両親も、育ててくれた祖父母だっていないから。
天涯孤独――――
それは、彼女に揺るぎない決断を与えた。
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