~エピソード3~ ① 三上恭介が寮長になるまで

 午後9時頃。


 俺は詰まってる仕事を何とか終わらせて家に戻って遅い夕食をとる。

 陽葵と葵は既に夕食も終えて風呂も入り終わっていた。


 風呂上がりの陽葵から男心をくすぐられる甘い匂いがする。

 葵がいなかったら後ろからソッと抱きしめていたかも知れない。


 最近は相当に忙しすぎて陽葵成分が足りていないのだ。


 謎成分?

 気にしないでくれ。


 俺にとって陽葵成分は常に摂取しないと死んでしまうぐらい重要なのだ。


「あなた、おかえりなさい。ご飯は出来てるから。それと…恭治の塾、今日は10時半で終わりだから忘れずに。その間に葵を寝かしつけておくから」


「陽葵、分かった。なんとか踏ん張ってみるよ。」


 俺は抱きしめたい気持ちを抑えて押し殺すように返事をした。その『踏ん張ってみるよ』の言葉の中に抱きしめたい気持ちを堪えていることが含まれているなんて、陽葵には分からないだろう。


 恭治の塾は車で20分かかるので飯を食べて食器を片付けて10時過ぎには出発しなければいけない。俺はご飯を早く食べ終えて食器を洗うことにした。


 俺が食洗機を回した後に葵を寝かしつけた陽葵がやってきた。


 そうすると気を遣って俺に暖かいココアを出した。まだ、恭治を迎えに行く時間まで30分はある。少し早くご飯を食べ過ぎてしまったか…。


 『ココアか…。』


 俺はマグカップの中のココアを見て、学生時代の辛かった事を思い出していた。


「あなた、何を考え込んでいるの?」


 陽葵の声に吃驚してしまった。

「あっ…、ごめん。ココアを飲んでいたら、大学生の時の寮の事を思い出してしまってね。思い出にふけっていたんだよ。しかも俺が寮長になったときの事を思い出してさ…」


 その言葉に陽葵がクスッと笑う。

「ふふっ。あの時のあなたは頑張っていたわ。あんな生活を送りながらも楽しめるって本当に心が強い人だわ。でも、あなたは、あの時のことをね、あなたの口から今まで話してくれないから少し謎のままだわ。」


「あれ、そうだっけ?。もう昔のことだから、陽葵に話した記憶も曖昧だよ。俺が言う前に、先輩達が陽葵に情報をくれてしまうから俺が話す余地がなかったよなぁ…。それに、色々なことがあったから混ざっちゃっててね…。」


 俺は陽葵に寮長になった経緯を語り始めた。


 ***********************


 19年前。

 三上恭介は公立大学の工学部に所属する大学2年生であった。


 将来は町工場をやってる親父の跡を継ぐので地元の工業高校に入った。進学校とは違って底辺校の部類である。


 だから、恭介は将来を考えて勉学は手を抜かなかった。成績もクラスで2~3番目だから優秀。


 担任からも大学進学を強く勧められていた。しかし、その時期は世界的な経済恐慌が襲って父の町工場の経営が相当に綱渡りだった。


 親には迷惑をかけられない。


 恭介は底辺の工業高校から、必死に受験勉強をして公立大学に入った。親は入学金や年間の授業料などは祖父母に相談して工面してくれた。


 大学は隣県の都市部であるが、恭介の地元は山と田圃たんぼしかない田舎である。

 本数が少なすぎる電車とバスを乗り継いで大学まで3時間はかかる。到底、大学までは通いきれず、学生寮で生活する道を選んだ。


 少し恵まれたとは言え、苦学生の部類であろう。しかし、親からの仕送りも不景気で綱渡りの家計から止まる事もある。


 そんな時は恭介は寮を取り仕切る寮監に頼んで寮の清掃や浴場掃除のバイトをする。寮内のバイトは苦学生の為の救済措置的な部分も含んでいた。それを恭介は十分に活用しているのだ。


 そのバイト代も昼の学食や休日の食事や本業である参考書や図面などを書く道具に消えた。


 寮内でバイトをしてるのは、俺にとって時間の調整もできて一石二鳥だった。コンビニや飲食店で本気のバイトをしてしまうと今度は課題やレポートが追いつかない。


 理工系は選択科目によって提出するレポートも多くサボると恐い講義も多い。不真面目な同期は1~2年でふるいにかけられて、既に退学してるか留年してる奴が幾人かいる。


 少し不安な単位もあるが勉学も何とかこなしていた。


 ---


 そんなある日、俺は講義を終えて寮に戻ると、玄関で寮監りょうかんに声をかけられた。

「三上君、少しお願い事があって…。」


 寮監室に通されると、寮監の松尾さんが椅子に座って困った顔をして腕を組んだ。


「松尾さん、どうしましたか?」


 俺が心配そうに声をかけると、松尾さんの眉間に皺が寄った。

「三上君。寮長の新島君が突然、結核で倒れてしまってね…。」


「えっ??? 新島先輩が???。松尾さん、今どき結核って…。」

 松尾さんの言葉を聞いて、俺はとても動揺を隠せなかった。


「希にあるらしいのだよ、新島君は病院で隔離されているから面会謝絶だそうだ。」


 その状況では、お見舞いにも行けない。

 俺は副寮長だから寮長の新島先輩とは深い親交がある。


 副寮長は寮の受付室で出入りを管理したり、寮長と一緒に寮内の見回りをする。

 他には、自主休校で引きこもる寮生を見つけて声を掛ける、汚い寮生の部屋の片付けなど…。寮内の細かい申請書類を書いたり、寮内の掲示物など作成が仕事になっていた。

 

 あとは、男女合同の寮長会議が不定期で開催されるが、色々な理由があって先輩達に任せっきりだったから、今からその件については頭が痛い。


 『まずい。これは俺が寮長をやる流れだ…』


 とっさに新島先輩がやっていた寮長の仕事を思い浮かべていた。

 先輩は俺と正反対で不真面目だが、大きな仕事は手を抜かずやるし、俺が不得意な部分を助けてくれた。


 うちの寮の寮長は3年でやることになっている。

 4年になると卒論や就職活動で忙しいので3年が寮を取り仕切るのだ。

 ただ、キャパオーバーになると前寮長が寮長補佐として色々と助けてくれたりアドバイスも貰える。


 俺が苦手なのは、問題寮生への上手い声かけだ。

 たとえば、寮内は様々な問題を避ける意味で家族・関係者以外は女子禁制だ。


 たまに禁制を破って彼女を連れてくる寮生をみかけると、新島先輩は寮生を上手く丸めこんで最悪のケースを回避させていた。

 しがないオタクで彼女なんていない俺に、彼女持ちの寮生を上手く説得させるのは到底無理だ。


 そういうコミュニケーションの方面で新島先輩には全く及ばない。


 それに、寮生同士のトラブルや喧嘩の仲裁などの面倒ごとが回ってくる。

 俺は背が小さいから、喧嘩の仲裁などはとても不利だ。

 

 そして寮長会議は、今までボーッとしていたから真面目にやらないとマズい。

 そういう仕事を頭の中に思い浮かべながら、松尾さんに恐る恐る質問をした。


「…松尾さん…お話はそれで…すか…?」


 高校時代は底辺校だったが、成績が優秀だったために俺は生徒会に入っていた。

 生徒会は書記だったが、ヒラでもやる仕事は多い。


 放課後になると、毎日、生徒会室に籠もるような日も続くこともある。

 その時代からの経験から言えば、面倒なことを頼まれるのが間違いない雰囲気だ。


 少し息をのんで、松尾さんの言葉を待った。


「新島君は治療に半年以上、費やすので休学になった。当然、復学するまで学生寮にいない。」


 俺はそれを聞いて天を仰いだ。

 さらに松尾さんは言葉を続ける。


「三上君の内申書だが、学生課の荒巻さんを通じて改めて拝見させてもらった。高校の時にリーダーシップも発揮しているし副寮長として寮生からの信頼も厚い。」


 松尾さんが発するべき最後の言葉が俺には分かってしまっていた。


「そこで…だ…。新島君の代わりに寮長として任命したい。私からのお願いだ。」


 俺は、どこか逃げ道がないか探っていた。

 そして、10秒ぐらい考えた後、いろいろな事が頭の中を巡って、どのように考えても袋の中の鼠だったので降参して快諾することに決めた。


「分かりました。微力を尽くさせて下さい。」


 松尾さんは俺の言葉を聞いてホッとした表情をしていた。

「よかったよ、三上君。これは、前寮長の棚倉君の強い推薦もあってね…。」


 棚倉先輩と新島先輩は同郷だし、高校時代から相当に仲が良かった。

 新島先輩は同じ教育学部で棚倉先輩を勉学の面からも頼っていた。


 棚倉先輩は相当に頭が良い。

 来年は院生を目指しているから、色々と忙しい日々が続いている筈だ。


 棚倉先輩は俺が1年の時から寮内のバイトで一緒に浴場掃除をする仲であった。

 バイト中に互いに雑談をしたり、先輩の仲間同士とゲームを一緒にして遊んだりもした。


 さらには理工系でありながら数学全般が苦手な俺の教師でもあった。

 分からない所があると棚倉先輩の部屋を叩いて教えを請うことが頻繁にあった。


「おまえ、そんなのが分からずに、よくこの大学に入れたな?。」

 テキストでポカンと頭を叩かれる事もしばしば。


 俺は松尾さんのお願いを断ったところで、世話になっている棚倉先輩に説得されてイエスとしか許されない状況だった。


 『…参ったなぁ、面倒な仕事は来年だと思っていたのに、こんなに早く回ってくるとは…』


 これが陽葵と関わっていく切っ掛けになろうとは思いもしなかった恭介であった。

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