第五章

復讐の螺旋

 襲われて間もないその場所は、一目でその惨劇の凄まじさがわかるほどだった。

 引き裂かれ、踏みにじられ、ボロボロになった幕屋の一部が一帯に散らばっている。岩には爪痕がいくつも刻みこまれ、べったりと血痕が残っていた。

「ひどい……」

 ノアは立ちすくんで思わず顔を背けた。タテガミは鋭い臭気に耐えきれず、その場に屈みこみうげっと吐いた。

 食い散らされた肉片や骨が散乱したままの状態で、一体それが体のどの部分だったのか、推測するのも難しいありさまだった。

 ネジ式がノアとタテガミの視界を遮る。

 モヒはただ一人、唇をきつくかみしめてゆっくり前へと進んでいき、幕屋跡中央に片膝をついた。地面に捨て置かれていた布地の一部を手に取って額に近づける。

「必ず――」モヒは、誰ともなしに誓いの言葉を囁いた。「仇はとるからね……」

 モヒの声が、幕屋跡を停滞する生ぬるい風のように吹いた。その声を聞いてノアは堪らなく苦しくなった。その意味とは裏腹にとても優しく届いたからだ。

 一体どうして……。ノアは倒れてしまいそうになる気持ちに逆らって、二本の足で大地を踏みしめた。

 モヒはぼんやりと定まらない視点で宙を見ている。目の奥に深い悲しみの色が浮かんでいる。モヒはその悲しみを塗り潰そうとでもするように、目前に広がる光景を目に焼きつけていた。

「このままにはしておけません。亡骸を埋めましょう」

 タテガミが辺りの亡骸を拾い集める。モヒは長いこと地に膝をついたまま動かなかったが、ノア達が残骸を丁寧に集めるのを見て自らも立ちあがり、一つ一つ大切に拾い始めた。

 亡骸を一か所に集めると、大岩の傍らに埋めた。

 新しい村の礎となるはずだったその岩が、今は墓石となり標を刻んでいる。カニバルの爪痕が残るその広い岩肌は、傾く夕日に赤く染まっていた。

 モヒはいつまでも墓石の前から動かなかった。その姿が、墓標と共に焼かれて赤く交じり合うかのように見える。でもここは、数日前にはカニバルに襲われた場所――タテガミは不安になった。

「なあ、大丈夫かな? カニバルのやつら、また戻ってきたりしないよな?」

「留まっていては危険です」

 ネジ式の言葉が、ノアとタテガミの不安を煽る。

「そうよね……でも……」

 モヒをあのままにはしておけない。今夜はここに留まるしかない。

「仕方ありませんね。少しでも目立たないように岩の上へ登りましょう。私はここで見張っておきます」

 ネジ式が下で見張りをする。モヒは立ちつくしたままだ。ノアとタテガミは岩の上によじ登り、星を眺めて寝転んだ。無数に輝く星が手を伸ばせば届きそうだ。

「なぁ、モヒはやっぱりカニバルを許さないのかな?」タテガミが呟いた。

「当たり前じゃない。だって家族を殺されて食べられたのよ」

 なぜそんなわかりきったことを聞くんだろう。ノアはもし自分がモヒの立場だったら、と常に考えていた。自分だったら家族を殺したカニバルを絶対に許せない。

「なら、昼間殺して食べたグースーの親は、いつかおいら達を殺しにくるのかな……」

 タテガミは眠りに落ちた。その言葉に、ノアはいつまでも捉われてしまった。今まで命を繋ぐために食べてきたグースーに、そんな感情を持ったことなんて一度もなかったからだ。もし自分がグースーの立場だったら?

 家畜としてグースーを育て、誰かがグースーを処理し、村人に行き渡るように分配されていた。そしてそれを当然のように食べた。村の大人の誰かが殺したグースーの肉で命を繋ぐ子供の自分。

 もし自分がカニバルの子供だったら? どんなに考えても答えは出ない。タテガミの言葉が心に纏わりついてひどくモヤモヤとする。結局その夜は殆ど眠れなかった。


 岩場の上に眩しい朝日が差してノアは目を覚ました。

 下へおりると、ネジ式が朝食の用意をしていた。木の実に果実、そして昨日狩ったグースーの肉だ。タテガミは既に起きていてネジ式が焼いた肉をもりもりとおいしそうに食べていたが、ノアは食べる気になれなかった。

「ノアさん、どうかしましたか? グースーの肉はお口に合わなかったですか?」

「ねぇ、モヒはやっぱりカニバルを許せずに、親や仲間の仇をとるつもりかしら?」

「許せないにしても、許せるにしても、私は彼に復讐に生きてほしくありません」

『復讐に生きてほしくない』ネジ式がそう言うのを聞いて、ノアは心を決めた。

「モヒを今、一人にしないほうがいいと思う」

「私も同じ考えです。なんとしても我々と行動を共にしてもらいましょう」

「じゃあ早速モヒを旅に誘わなきゃな!」

 モヒは一睡もしていなかった。ノアは、岩場の前で一人佇むモヒの元へ、朝食の残りを持って近づいていく。

「モヒ、一緒に〝ノア〟へ行きましょ」

 モヒは岩をまっすぐ見つめたまま、ふり返ることもなく答えた。

「俺にはやらなくちゃいけないことがある、悪いがおまえ達とは行けない」

「気持ちはわかるよ。でも今、一人で立ち向かっても、相手は群れで行動してるんだ。きっと勝ち目なんてないよ」

「勝ち目? 死んだって構うもんか! 俺は仇をうつって決めたんだ!」

 今にも泣き出しそうなモヒの声が辺りに響いた。

 その時だった――どこからか奇妙な雄叫びが聞こえ始めた。それはまるで、相手に自分の居場所を知らせる合図にも思える。

 その声を聞いた瞬間、モヒが怯え出した。

「あいつらだ!」

 その場に緊張が走る。

「声の大きさからして、距離はまだあるようです。今のうちに逃げましょう!」

 残りの朝食を墓石の前に供えると、すばやく身支度を整えて草原を進もうとしたが、ふり返るとそこにモヒの姿がない。

「モヒは⁉」

「まさかカニバルに向かっていったんじゃ」

「大変です! 急いで追いかけましょう!」

 不気味な叫び声が行く手にこだましている。進んでいくと、草原の草はやがて自分達の背ほどの高さになっていた。地面はぬかるみ、走りづらい。

「モヒー!」

 タテガミの声に呼応するように、カニバルの叫び声がぴたっと鳴り止んだ。

「だめよ! 大声を出したらこっちの居場所を教えるようなものだわ!」

 ノアに言われて、ようやく気づいたタテガミはばつの悪そうな顔をした。

 カニバルの叫び声は鳴り止んでしまったが、まっすぐ声がしていた方向を目指し進んでいくと、いつの間にか林のような場所に入りこんでいた。その途端に異臭が鼻につく。不愉快な臭いが体にまとわりついてくる。

「なんだ? この臭いは」

「ひょっとして殺された人達の腐敗臭なんじゃ」

「わかりませんが地面がぬかるんでいます。ガスを含んでいるようですが……とにかくモヒさんを探しましょう」

 辺りの土が黒くどろどろとしていた。木や草もあちこち枯れている。

 ネジ式は土のサンプルを採って、お腹の蓋を開け中へ放りこんだ。探している間に解析するつもりで。

 林中、モヒを探していると、突然近くからカニバルの悲鳴があがった。声を頼りに追いかける。モヒが復讐を誓っているなら、悲鳴はモヒによるものだと思ったからだ。

「あっちだ!」

 茂みをかき分けて進むと小高い丘が現れた。丘の上では、カニバルの背面をとったモヒが今まさに腕をふりおろす所だった。

「モヒ! やめて!」

 ノアの呼びにも動じることなく、モヒはふりかざした武器を激しく相手に打ちつける。カニバルはもがき、けたたましい声をその場に響かせてのたうち回った。

 モヒは肩で大きく呼吸をしながら、小刻みに震えていた。

「よくも、父さんを! 母さんを! 仲間を!」

 声を震わせモヒが叫ぶ。怒りに満ちて震えているというよりも怯えきっているようだった。木刀をさらにきつく握り、両腕を大きく上へふりかぶる。

 ノアはモヒを止めに入ろうとかけ出すがとても間に合わない。タテガミが一瞬早く飛び出すと、モヒの体を後ろから抑えた。

「放せ! 何するんだ! 俺は両親の仇をとるんだ!」

 モヒは叫びながらタテガミの腕にかみついた。鋭い牙がタテガミの肉につきささる。鮮血が流れ出した。

「おいら絶対に離さないからな! 復讐なんかさせないって、さっき皆で誓ったんだ!」

 痛みに顔を歪ませながらも、タテガミはモヒを離そうとしなかった。

 すぐそこには、のたうち回るカニバルが倒れている。

「放せ! おまえに何がわかるんだ! 何も失ってないおまえに!」

 ふりほどこうとモヒが暴れる。ノアとネジ式もかけ寄りモヒを抑えた。モヒの背中の毛が威嚇し、拒絶するように逆立っていた。

「おいらにはわからないよ! でもこうして嚙まれたら痛いのはわかるし、きっとおまえの父ちゃんも母ちゃんも復讐してほしくておまえを生かしたんじゃない!」

 タテガミの切り裂かれた腕から真っ赤な血が流れている。ふいに全力で抵抗していたモヒの力がぬけ、木刀を落とした。

 モヒは抵抗するのを止めていた。タテガミの言葉でモヒは止まったのだ。

 次の瞬間、地面で悶えていたカニバルが、甲高い声で笑い始めた。

「ど、どうして笑ってるんだ⁉」

 あまりの異様な光景に、皆じりじりと後ずさった。笑い声が収まったかと思うと、また苦痛の叫び声をあげ始める。

「な、何なんだ? 狂ってる⁉」

 カニバルの奇っ怪な行動に、皆は動けなくなった。カニバルの視点は定まらず、ブツブツと何かを呟いては、突然甲高い声で笑い始めたり、苦痛の叫び声をあげたりをくり返す。一向に襲いかかる気配を見せない。とにかくぞっとするほど気味が悪い。

「い、今のうちにここから立ち去ろう」

「いや! だめだ!」

 一旦抵抗をやめていたモヒが再び暴れ始めた。落とした木刀を拾いあげ、カニバルに向かってふりかざす。タテガミがその右腕に抱き着くようにしてその動きをとめ、暴れるモヒを引っ張った。ノアもモヒの体にしがみつく。皆は暴れるモヒを引っ張り、丘を転がりおりるようにその場から離れた。

 丘の上のカニバルは叫び続けたままだ。追ってくる気配はない。ぐずるモヒを引きずりながら林の中を走っていくと、ネジ式が突然その足を止めた。

 彼らの目の前に群れのボスがいた。ひときわ大きなカニバルが、別のカニバルの頭をつかんで引きずりながら歩いていたのだ。

 鷲掴みにされたカニバルは、ひきつるような高い笑い声をあげている。先ほどのカニバルと同じだ。涎を垂らし、視点は定まっていない。

 群れのボスであるカニバルは、ノア達に気づくと牙をむき出した。真っ赤な瞳の瞳孔は大きく開かれ、低い唸り声が空気を震わせる。背筋が凍るほどの緊張がその場に走った。身構える暇もない。

 カニバルは仲間を呼ぶような雄叫びをあげた。その声に呼応するかのようにあちこちで雄叫びがあがる。

 群れのボスが、鷲掴みにしていた別のカニバルをこちらに向かって投げつけるのを間一髪でかわしたが、皆は体勢を崩し倒れこんだ。その圧倒的な力に身動き一つとれない。

 このままでは殺される! 極度の緊張と恐怖が支配した。状況に絶望を感じた矢先、群れのボスがいよいよ飛びかかってきた。その真っ赤な獣の目はまっすぐに負傷して弱っているタテガミに向けられていた。

 次の瞬間、ネジ式が大音量で警告音を鳴らし、頭を回転させながら目を赤く点滅させた。それに驚いた群れのボスは身の危険を感じたのか、タテガミを襲いかけた体を強引に止めると、ノア達から距離をとって構える。

 一瞬の出来事で何が起こったのかわからなかった。

「さあ! 今のうちに!」

 ネジ式の声で我に返る。心臓の音だけがばくばくと鳴っている。全速力で林の中をかけぬけていく。ふり返る余裕もない。どこに誰がいるのか、バラバラにはぐれてしまっているのかもわからない。自分からもれる激しい呼吸しか聞こえない……。

「立ち止まらず逃げるんだ!」

 タテガミの声がした。ノア達の後ろからは群れのボスの咆哮が迫っている。

 ノアは木の根に足を取られ、目の前にある下り坂を転げ落ちた。ノアの目に、地面と空がめまぐるしく映り込む。痛みを感じる余裕なんてなかった。『殺される』『死にたくない』その感情だけが交互に浮かぶ。

 長い下り坂を転げ落ち、そのままものすごい衝撃で木にたたきつけられる。

「うっ!」

 転げ落ちた先は異臭で満ちていた。体の痛みよりも、その激しい臭いで息も吸いこむことができないほどに苦しい。手に黒い泥がぬめっとついている。ひりひりと焼けるように痛い。目前には沼が広がっている。沼底からはボコボコとガスが浮かび、水面で水泡を弾けさせている。

「ノアー!」

 呼ぶ声に後ろをふり返ると、タテガミが下り坂を滑りこんできた。ネジ式とモヒも後から続いてくる。ノアは皆の顔を見て心底ほっとした。たった数分だったが、逃げるのに必死になり、皆がどの方角に逃げたのかも見失っていた。こうして再び集まれたことが涙が出るほど嬉しかった。

「大丈夫か? ノア!」

「それにしてもひどい臭いだ」

 沼の周辺では、石が白く腐食して煙を立てている。

「かなり腐食性の高い毒の沼のようです。絶対に足を踏み入れないでください。この濃度ではおそらく溶けてしまいます」

 ネジ式が採取したサンプルには腐食性の高い酸が検出されていた。ここが発生元のようだ。走る途中で、ネジ式はその酸度に気づいて急いでサンプルを捨てた。長い時間解析していては筐体まで腐食してしまう。

 ネジ式が、急いで辺りから葉を千切るとノアの手をぬぐった。

「あとで洗いましょう」

 どちらに行けばいいのだろう。転がり落ちた坂道を登るのは危険だ。カニバルの叫び声が沼に向かって近づいてくる。とりあえずその場から距離をとると沼沿いに走り、林の中へと続く道の大きな木の後ろへと身を潜めた。

 白い悪魔の真っ黒な咆哮が近づいてくる。一体何人いるのか? 叫び声があちこちで反響している。いつの間にか群れに包囲されてしまった気持ちになる。

 林中を共鳴する音が、見えない敵の数を無数にも感じさせていた。

 やっとの思いで群れのボスから逃げたと思ったのに、進んで袋小路の中に飛びこんだ気分だ。白い悪魔が迫っている。

「囲まれたのか⁉」

 タテガミは腕から血を流したまま、青ざめていた。モヒも震えている。依然として辺りを警戒していたが、極度の緊張からかびくびくとしている。

 ネジ式が辺りの蔓植物をタテガミの腕に巻きつけ、止血を施した。

「声がこだましているんです。近くに感じるでしょうがまだ少し距離はあると思います」

 ノアはガタガタと震え、涙を流していた。

「落ち着いてください。とにかく今はここから出なくては……」

 ネジ式の言葉にノアがびくっと反応する。『落ち着け、ノア』何度も聞かされた言葉だ。父や祖父がノアに語った〝教え〟。

『ノア、我らのような非力で爪も牙も持たない種族が、なぜ今まで生き残ってこれたか考えたことはあるかの?』

 村では当たり前のように、姿形の違う者が自分を助けてくれた。非力な自分は助けられる側の種族だと思っていた。ノアはそれを適材適所だと思い込んでいた。

『我らはのぅ非力だが、ピンチの時でも落ち着いて考えることのできる種族じゃ。知恵を使って、皆を助けることが我らの定めなのじゃ。ピンチに陥ったとき、わしはいつも自分に語りかける。落ち着け、と。わしらの役目、定めを貫くんじゃ』

 初めて、〝教え〟の意味を知った気がしたノアの涙は止まっていた。

「ネジ式、さっき、溶けるって言ったよね?」

 ノアが何かを思いつく。それがなにかネジ式にはすぐわかった。

「あそこに誘いこめないかしら?」

「わかりませんが、カニバルが沼のことを既に知っていたら難しいかもしれません」

「そっか。じゃあ棒の先に皮布を巻きつけて、そこに沼の水を浸したらどう?」

 ノアは腰に下げた袋から、グースーの皮を取り出した。

「なるほど! ではこういうのはどうでしょう」

 ネジ式が考えをつけ足す。皆はその作戦を実行するため素早く材料を集めた。

「ノア、ネジ式、頼むぞ。時間稼いでくれ」

 タテガミとモヒが集めた材料を持って沼の方へ戻っていく。

「まかせて。音を使って躍らせてやる!」

 さあ来い! ノアは呼吸を整えると、手に骨笛を握りしめグルグルと回し、ボォォォンと波打つ音を立てた。

 カニバルの叫び声がほど近い場所で響く。木の裏に隠れカニバルを待ち受ける。

 骨笛の音に反応し、すぐにひときわ大きなカニバルが茂みの中から現れた。仲間を呼ぶように高く吠えた後、ノアの隠れる木へと茂みをかき分けながらやってくる。

 ノアの隠れる木まであと少し……今度はネジ式の警告音が別の場所から鳴り響いた。

 二人がそれぞれに鳴らす音で、敵を翻弄する作戦だった。

 カニバルの数が少しずつ増えていく。――ネジ式の警告音に向かって、三人のカニバルが獲物を探し始めた。その隙にノアは場所を変えてまた隠れた。

 ネジ式が警告音を止める。それを合図にノアが再び骨笛を鳴らす。

 追いかけて行った先で音が消え、再び違う場所から鳴り始める音に、カニバルはひどくいらだって、音に向かって何度も威嚇の叫び声をあげた。

 ノアとネジ式がそれをくり返した。音に敏感なカニバルは、新しく鳴る音にまっすぐ向かう。少しずつ誘いこまなければならない。タテガミとモヒが待ち受ける沼の方へと。

 ネジ式は林の中を走りながら警告音を発していた。そうすることにより、音が色々な角度で反響し、居場所がわかりづらくなるからだ。しかし、普段縄張りとしているこの林の中で、徐々にカニバルは、二人の位置を正確に捉え始めた。沼はもうすぐそこだ。

 走ってくるノアとネジ式を見て「いつでもいいぞ!」とタテガミが上から合図を出す。ノアが二人が潜む木の位置を確認する。その下を、警告音を鳴らすネジ式が走りぬけた。

 タテガミとモヒは、木の上で手に罠を持って待っていた。罠は滴るほどたっぷりと沼の水を染みこませたグースーの大きな皮を、細く裂いた皮で編んだ縄に括りつけたものだ。皮からはボタボタと沼の水が垂れている。皮も既に溶け始め悪臭を放っていた。この罠もそう長くはもたない。

 音に翻弄され完全に頭にきていたカニバル達は、一塊になって体に枝葉が当たることなど気にせず、ただネジ式をまっすぐに追いかけた。

「今よ!」

 ノアの合図で罠を落とす。二人の手から放された罠が、カニバルの上に覆い被さった。

 大地が震えるほどの悲鳴と、言葉では表現しがたい異臭が辺りに漂った。

 カニバルの白い毛に、びちゃびちゃと沼の水がつき煙をあげていく。皮のおおいを慌てて取り去ってもまだ、カニバル達はその場で転げ回っていた。さらに辺りに沼の水が飛び散り、目に入ったカニバル達は視界を失った。

「やった! 今のうちに逃げよう!」

 全速力で林をかけぬけ、なんとか追っ手をふり切り、休むことなく平原を進む。耳を澄ませば、今もまだカニバルが追ってくる声が聞こえる気がして、おびえた気持ちになる。あの白い悪魔の声が耳にこびりついて離れなかった。

 平原を流れる川を渡った所でようやく一息ついた。

「タテガミ、今のうちに傷の手当てをしよう」

 ノアがタテガミの止血を外す。血は止まっているようだったが、傷口は深そうだった。モヒは責任を感じて、ノアとタテガミの周りをウロウロとしていた。そんなモヒの様子を見ていたネジ式は、モヒに近寄って耳元で呟く。

「ほら、ボーっとしていないで川の水をくんできて、何か手伝えることはないか、聞いてはどうですか? 最後にタテガミさんに謝るのを忘れずに」

 タテガミの傷口を洗い流すために、ノアが川へ水をくみに行こうとすると、モヒが食事用の小さな木の器を握りしめて、ノアとタテガミの前に棒のように立っていた。

「水、くんできた」

 ぼそっと呟くモヒを見て、ノアとタテガミは呆気に取られた。

「あ、ありがとう。でも、これじゃ足りないわ。この革袋に水をくんで来てくれる?」

「ワハハ! ありがとな、モヒ! でもそれっぽっちの水で傷口を洗えるほど、おまえの口は小さくないからな!」

「ち、違うんだ! ネジ式が水をくんでこいって言うから俺は!」

 モヒは顔を染め、はずかしそうに革の袋を担ぐと、水をくみに川へ戻っていった。

 タテガミはお腹を抱えて暫く笑い続けた。ノアやネジ式もつられて笑う。カニバルの追跡をふり切って緊張の糸が解れた三人はようやく大声で笑った。

 ノアは薬草をすり潰し、タテガミの傷に当てるとオリーブ油を塗った葉で傷口を覆った。

「油がもうすぐなくなるわ」

「こんなに傷だらけになるなんて思ってなかったもんな!」

 タテガミは明るく笑い、鬣を揺らした。モヒはそんなタテガミを見ながら、居心地悪そうにしていた。辺りはいつの間にか真っ暗になっていた。


 念のため今夜も火は起こさずに、その場で夜が過ぎ去るのを待った。

 暗闇の中で食事をしていると、暫く黙りこんでいたモヒが言った。

「悪かったな、タテガミ。皆もありがとう。俺のせいで遠回りさせてしまったから、ノアまでは付き合うよ……。その後俺一人で仇をうちにいく」

「おまえ、あんなにひどい目にあったのに、まだそんなこと言ってるのか?」

「おまえ達にはわからないさ! 目の前で両親や仲間を殺された無念は!」

 ノアは何も言えず黙っていた。モヒの傷痕が体中に痛々しく残っている。

「復讐は、さらなる復讐しか生みません。その復讐の輪は次第に広がっていき、やがて生き物全てを滅ぼしかねないのです」

 全てを滅ぼす? まるで実際に経験したことがあるような口ぶりに、ノアもタテガミも背筋が凍ったが、モヒは耳を貸さなかった。

「生き物全ての話なんて関係ない! 俺は両親や仲間の仇をうちたいだけだ!」

「もし、あなたがカニバルを殺せたとして、そのカニバルの子供が親を殺された復讐に来たら、あなたはどうするつもりですか?」

 それは、あの日岩の上でタテガミがノアに呟いた問いと同じものだった。

『グースーの親は、いつかおいら達を殺しにくるのかな……』

 ノアには答えが出せなかった。果たしてモヒは、どう答えるのだろう……。

「そんなの関係ない! 先に仕かけてきたのは向こうだ!」

 あまりにも寂しい答えだった。もし、それが唯一の選択なのだとしたら殺し合いは終わらない。ネジ式の言う通り、復讐の輪はやがて広がっていき、そしてこの星の生き物全てを飲みこんでしまう――ノアもタテガミもそう思った。

 モヒは、少し離れて一人で食事をした。その背中はとても寂しそうだった。味方なんて誰一人いない――モヒの背中はそんな孤独を感じさせた。愛する両親と仲間を奪われたモヒが、激しくカニバルを憎む気持ちは、もちろん皆にも理解できた。

 しかし殺されたから殺すというのでは、ネジ式が言う〝復讐の輪〟そのものだ。モヒが果たそうとする復讐は、またさらなる復讐を産んでしまう。その螺旋の軌道は終わることなく、グルグルと弧を描き続ける。

 しかし、たとえモヒが考えを改めて復讐を捨てたとしても、ノア達がグースーの命を奪い、その命で自分達の今日の命を繋ぐのと同じように、カニバルもまたノア達と同じように、何らかの命をとってその命を繋いでいくのだ。

 結局出口は見えないまま、心にモヤを残して、その日の夜は通り過ぎていった。

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