第十一話 犬神使い桐山沙穂の事件簿
犬神使い桐山沙穂の事件簿(壱)
桐山沙穂が朝起きると、となりで大狼ジンライが人間形態で潜り込んで眠っていた。
それはもう幸せそうに。
犬の耳と尻尾を出し、ふさふさの尻尾はぱたぱたと揺れている。沙穂の下半身に絡みつくように足を引っ掛けて眠っているのに重さを感じないのは、人間形態時のジンライが非常に小柄な少年だからだ。
天使のような寝顔は、見るものの心を奪うだろう。その右手が沙穂の胸元でわきわきと動き『う~ん、ぺったんこ~』とうめかなければ、あるいはロマンスのひとつも生まれたかもしれない。ベッドからジンライを蹴落としながら、沙穂は残念そうにそう思った。
そういえば両親は昨日から出かけていた。
姉は、既に会社に出かけている。
低血圧である妹への情けとばかり、テーブルの上には安物のシリアルがスープ皿に盛られてスプーンが差してある。隣の小鉢にはサラダ代わりの胡瓜とゆで卵ふたつ。家庭菜園で育てたと思しき胡瓜はヘチマのように雄雄しくいきりたち、その両脇に小振りの卵がある。
「……」
『個性的な朝食でござるな』
何事も無かったようについてきたジンライの頭をスリッパで叩き、冷蔵庫の牛乳を取り出そうとする。姉の悪趣味な悪戯には慣れていたが、今朝のはタイミングが悪すぎた。
『廃都ボンベイをはじめ、世界各地に共通して伝わるものの中に男根崇拝というのがあ』
「黙ってなさい」
冷蔵庫を開けたまま振り返りもせず、ドスの聞いた低い声がジンライの身体を貫く。
並大抵ではない殺意を含んだそれにジンライは直立し、そのままの姿勢で硬直した。彼女を主と認定した以上、その言葉は絶対に近い。
「グルメじゃないけど、食事は楽しみたい方ね。下品な話題はマナー違反だと思うの」
『では上品な話題と提案を』
ジンライは笑顔で即答し、籐製のバスケットをテーブルに置く。どこから取り出したのかもわからないそれだが、中身を見て沙穂は息を呑んだ。自家製のクロワッサンにたっぷりの生ハムと香草をはさんだ上等のサンドイッチ、形を崩さず甘く煮た木苺を添えた自家製ヨーグルト、金属製の水筒からガラスの器に注がれるのは生ハーブを水で抽出したアイスティーだ。
味気ないシリアルなど、話にならない。
「……素敵な朝食ね」
『あ、これは我のでして』
伸びてきた沙穂の手をべしっと叩く、笑顔のジンライ。羨ましそうな恨めしそうな沙穂の視線を涼しく受け流し、冷えた薬茶の香を楽しみバスケットを閉じる。
『他人の食事に手を出すのはマナー違反と学びました』
「うう」
『とはいうものの、この朝食こそ沙穂殿への提案に深く関わるものでして』
シリアル用のスプーンをがじがじとかじっていた沙穂は、ジンライの提案を拒めないことを自覚し、子犬のように唸るしかなかった。
『まあ大した提案ではないんですよ』
すっかり空となったバスケットを感心しながら虚空へと消し、ジンライは日差しの強い犬上の市街地を歩いていた。杉原ミチルとして学校に潜り込んでいる少年の姿であり、しっかりと学生服まで着込んでいる。
『沙穂殿は今や犬神使いですから、それなりの仕事をしていただこうと思いまして』
「――仕事、ねえ」
涼感を呼ぶハーブティーの余韻に浸っていた沙穂は、仕事という二文字に不吉なものを感じつつジンライの後を追う。寝坊気味とはいえ部活の自主練までは一時間あまりの余裕がある。今までなら少し遠回りして村上文彦の家近くまで足を伸ばしていたりしたのだが、ジンライが一緒では無理な話だ。
「でもジンライくんって、基本的に私の護衛なのよね」
『御意』
沙穂殿の誘魔体質はかなり深刻ですので、影法師様の片腕とまで称された自分が派遣されたのです。えへんとジンライは自慢そうに胸を張る。
『とはいえ護られっぱなしというのは面白くないでしょうから、ひとつバイオレンスでエロチックな事件に飛び込んではいかがですか』
「地味でいいから村上くんと恋仲になれるような事件がいいわ」
『じゃあ、やっぱりエロスな事件の方がいいですね』
よしよしと一人納得したジンライは振り返ると沙穂の手を握り、共に虚空へと姿を消した。
◇◇◇
そこは物に溢れた部屋だった。
二十畳ほどの、板張りの部屋だ。窓も扉も見当たらず、エアコンの規則的な音だけが耳に届く。温度と湿度の管理には気を遣っているのだろうが、部屋の主は随分の間ここを訪れていないらしい――靴下に引っかかる埃の玉に桐山沙穂は顔をしかめた。
「喘息のコには案内できない場所ね」
調度品に触れようもせず、呟く。埃が積もっていたし、迂闊に触れて良いのか判断に困る品ばかりだからだ。
大小さまざまの刀、槍、金属棒。忠臣蔵を敵味方の分を揃えてまだおつりの出る、凶悪なる道具の数々。ゴルフクラブやスキーの板のように、一見無造作ながら用途と種類に応じて整理された武具は滑稽でさえある。モデルガンと認識するにはあまりにも精巧で、しかし現代日本に存在するはずのない銃火器も沢山揃っている。
和洋中華の武具という武具が集められているのかもしれない。
(何のために?)
沙穂はこの部屋に至って二つの疑問を抱いた。
一つは、この部屋を用意して凶器を持ち込んだ人間の正気を。もう一つは、この正気を疑いたくなるような部屋に自分を案内した大狼ジンライの目的をだ。とはいえ沙穂も無意味に質問を繰り返すほどおろかな娘ではない、沙穂なりに自分の立場から状況を推測しようとした。
「ここは、影法師って人の武器庫?」
率直な感想に見せかけた推測を口にする。返事はない。
ジンライ少年は、部屋の片隅に積み重ねられていた幾つもの箱を注意深く動かしながら何かを探している。尻尾が規則的に揺れていることから、彼が乗り気で作業しているのは間違いないのだが。
「……」
せめて間違っているのなら、そうだと言ってほしいものだ。
「ジンライくーん?」
やはり返事が来ない。
埃を払って適当に用意された椅子に腰を下ろし、珍しくも憮然とした顔になる。
「私に術師としての仕事をさせるんじゃなかったのかしら」
『もちろんです沙穂殿』
ひょいと顔を上げたジンライが、ようやく沙穂に向き直った。手にはそれほど大きくはない、桧の白木を組み合わせた薄平たい箱がある。ちょっと高価な陶器の皿を収めているようなそれは、迂闊に蓋が開かないように厚めの和紙帯で幾重にも封が施され、その上に短冊の如き呪符が貼り付けられている。
どう好意的に解釈しても、これは菓子折りではない。
『これ、片付けましょう』
ジンライがにこやかな笑みで差し出す桧箱、蓋に貼った呪符にはあまり見たくない文字が記入されていた。
「封……印?」
『はい』笑顔を絶やさぬジンライ『影法師様が忙しくて処理しきれない、魔物の封印です』
ここに保管されているのは危険度の低いやつばかりなんで、沙穂殿でも大丈夫ですよ。
ジンライの説明は一方的かつ呑気だ。素質を高く評価しているのかもしれないが、自覚がない以上はプレッシャーにしかならない。
何が大丈夫なのだろう。
ふるふると首を振って拒絶の意思を即座に示す。
「私、バケモノの倒し方知らない」
『犬神使いなら本能的に理解しているから大丈夫でござる』
まずは実践あるのみ。
やはりジンライは沙穂の言葉に耳を貸そうとはしない。呑気な台詞と共に、ジンライ少年は桧箱の封を解いた。べりべりと横二つに裂いた呪符は薄暗がりの中で漆黒の塵と化し、和紙の帯もまた消える。
現象はそれだけだった。
箱は吹き飛ばなかったし、怪しげな光や音が聞こえてくることもない。
(あんまり怖くないのかも)
そもそも封じられた魔物というのは相当弱っているのだろう。必要以上に警戒して怯えていたことが馬鹿馬鹿しくなり、沙穂は立ち上がる。影法師とやらが後回しにしていたということは、所詮その程度ということではないか。
「なによ、拍子抜けじゃない」
すっかり安心した沙穂は何も考えずに蓋を開き、
『あ』
その隙を逃さず、蓋の裏側に貼りつき待ち構えていた異形に憑依されてしまった。
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