星詠みと仔竜

つばリン

第1話 無垢なる仔竜

 とある、深い、深い森の奥。そこには、大きな洞窟が口を開けているのだという話は、近隣の村や街では定番の噂話だ。

 曰く、そこには数多の財宝が眠るのだという。曰く、そこはいくら使っても尽きぬ程の魔力が満ち満ちているのだという。

 ――曰く、そこには、竜が住まうのだという。

 が、所詮は人々の間で広まる噂話。随分と昔から、時に浪漫を胸に、また時には冗談の種にと口伝てに幾度となく語られたその話には多くの尾ひれがついていたが、果たしてその洞窟は、確かに森の奥底に存在していた。


 ぽつ、ぽつ。静かな洞窟の中に、水の滴る音が響く。豊かな森を支える降雨を水源とするこの湧き水は、洞窟の奥へと進むごとに増え、集まり、ついには小さな川となって洞窟の中を流れている。小川の周りの壁や天井からは淡く光る謎めいた鉱石が顔を覗かせてあたりを照らし、澄んだ川も相まって幻想的な光景を作り出していた。

 そんな洞窟の中、小川に沿って奥からやってくる、一つの影があった。足音を鳴らしながら歩くその二本の脚には、如何にも凶悪な爪。細身なその身体は金属のような光沢を放つ黒い鱗と甲殻に覆われ、その側面にはまるでコウモリのような大きな翼が畳まれている。長い首の先にあるその頭部には、枝分かれした大きな角と……やや幼さも感じられる、大きな青い目。一匹の仔竜――ワイバーンの幼体であった。


「クルルル……」


 小さく喉を鳴らすように鳴いた仔竜は、すぐ横を流れる小川へとそのくりくりとした目を向ける。ゆっくりと首を動かしてしげしげと観察した後、再び歩みを進め、しばらくしてから再び小川へと目を向けた。何度かそれを繰り返す中、ちゃぽり、と音を立てて水面で何かが跳ねる。ぴたりと歩みを止め、じっと水面を見つめる仔竜。ゆっくり、ゆっくりと開けられたその口は、しばしの沈黙の後、勢いよく水中へと突き込まれた。


「キュー!」


 水面から引き揚げられた口に咥えられていたのは、一匹の大きな魚。予期せぬ捕食者の襲来に大きく暴れて抵抗する魚だったが、仔竜は慣れた様子でひょいと投げて器用に咥えなおし、心なしかさっきより軽快な足取りで洞窟の奥へと戻っていった。

 小川の下流、洞窟の奥へと進むごとに、壁や天井から飛び出ている結晶の数はだんだんと増えていく。ところどころでサイズの大きいものもちらほらと見かけるようになり、中には仔竜の身体よりも大きいものすらも見かけるようになってきた。

 そうして仔竜がしばらく歩を進めると、突如その視界が大きく開ける。元よりそれなりに広い洞窟ではあったが、辿り着いたこの場所は比べ物にならない程に広い、まさに地下の大空洞とでも呼ぶべき空間であった。辿ってきた小川が流れ込むのは、大空洞の奥に広がる地底湖。その地底湖に被さるように洞窟奥の壁から大きく張り出しているのは、あまりにも巨大な結晶の塊。その大結晶はぼんやりと光りながら、湖や大空洞の内部を充分に照らしていた。

 自然が織りなす、奇跡のような美しい景色。もしこの場所に人が訪れる事があったならば、決して忘れる事はないだろう。……が、当の仔竜はというと、その視線と意識は口に咥えた御馳走に注がれていた。

 大空洞に入ってすぐ横の壁沿いにある、小高くなっている岩場。その目の前まで歩みを進めた仔竜は翼をばさりと広げると、大きく羽ばたいて上へと飛び乗った。


「クルルッ」


 機嫌良さげに鳴いた仔竜は、岩場の頂にある窪み――自らの巣に腰を下ろす。大空洞を一望できるこの場所は、彼のお気に入りの場所であった。

 腰を落ち着けた仔竜は、ぐったりとして暴れる事もなくなった魚を咥えなおし、頭からつるりと飲み込む。人にとっては抱える程のこの魚は、仔竜にとっても久々の大物。細い首を膨らませて胃袋へと落とし込むと、けふっと小さく息を漏らした。

 満足げに欠伸をした仔竜は、乾燥させた苔が敷かれた寝床に伏せ、大空洞の高い天井を見上げる。大空洞内で絶大な存在感を放つ大結晶に目を惹かれがちではあるが、その天井にも数多の結晶が顔を出し、瞬いている。それはまるで星空のように美しい光景であったがしかし、それを眺める仔竜は本物の星空というものを見た事はなかった。

 かつて、仔竜が卵の殻を破り最初に見たのは親の顔ではなく、今もあそこで光っている大結晶だった。以来見た事のある自分以外の生き物といえば、専ら獲物にしている洞穴性のあの魚と、結晶の光で細々と育つ植物やキノコ、あとはそれに付く小さな虫ぐらいのものである。

 が、実際のところ外界との間に明確な障害があるわけではない。彼にその気があれば、この洞窟から出て森へ繰り出す事も可能だっただろう。実際、好奇心から何度か洞窟の入口付近まで足を運んでいる。しかしそれにも関わらず、彼は一度も外へと出た事はない。何故かと問われれば――。


「チチッ」


 ぼんやりと天井を眺めていた仔竜のすぐ真横で、小さな鳴き声が響く。少しうとうとしていたのもあって不意をつかれた仔竜はビクッと跳ね驚き、恐る恐るといった様子で視線を横へ向けた。


「キチチチ?」


 そこにいたのは、一匹の白い、小さな獣。なんのことはない、すぐ外の森においてはありふれた小動物が一匹、小首をかしげながら目の前の圧倒的上位捕食者たる彼を見つめていた。……しかし。


「キュァー!?」


 直後に素っ頓狂な悲鳴を上げたのは、その仔竜であった。強靭な脚でその場から飛びのき、眼前の小動物の数百倍は体積があるであろう巨体を近場にあった岩の影へと隠す。小さく震えながら岩陰から覗いた目には、明らかな怯えの色が伺えた。


 ――そう、彼は、極度の臆病であったのだ。いつでも出られるはずの洞窟から出ずにここでひっそりと暮らしていたのも、この性分に由来するもの。例え自身よりも遥かに小さな生き物であったとしても見知らぬものを極端に恐れるこの性格が、彼をこの洞窟へ留めていたのである。

 尤も、生態系上位に君臨するワイバーンとはいえ、生まれて間もない幼体が外に出ていれば弱肉強食の世界で生き抜く事ができたかは怪しい。彼が今こうして生きているのは、この異様なまでに都合のいい洞窟に引きこもっていたからだと言えるだろう。


「チチッ」


 そんな大きな臆病者を不思議そうに眺めていた獣は、彼の悲鳴に驚いてか、すばしっこい動きで大空洞の出口へと逃げて行った。大きく息を吐き、安堵する仔竜。だが同時に、疑問が彼の頭の中を駆け巡る。

 そも、この洞窟内に外から生き物が侵入してきたところを彼は見た事がない。それが何故なのかは分からないながらも、小さな獣であるとはいえあのようにここまで生き物が入ってくるというのがイレギュラーな事態である事を、人間と同等以上とも言われるワイバーンの高い知能は判断していた。


「……クルル」


 仔竜はゆっくりと、あの獣が消えていった大空洞の外へ向けて歩み始める。もし何か異常事態があったのなら、確かめねばならない。そのように自身に言い聞かせながら歩を進める彼は相変わらず怯えてはいたものの、この時ばかりはその年相応の好奇心が勝っていた。

 果たして先程の白い獣は、大空洞の入口から出てすぐのところで彼を待つように佇んでいた。仔竜は恐怖から一瞬後ずさるが、さらに外へ向けて走り去っていった獣を見て、覚悟を決めたようにさらに後を追う。


「キチチッ」


 獣は走りつつも時折立ち止まり、振り返っては仔竜がある程度追いつくのを待つ。まるで自分をどこかへ連れていこうとしているかのような動きに、仔竜は謎の期待感のようなものを募らせていく。洞窟での暮らしは、確かに安全なものであった。しかし、子供らしい好奇心旺盛さも持ち合わせる彼が代り映えのしない洞窟での生活に退屈していなかったと言えば、それは嘘になるだろう。

 小川に沿って歩き、先程魚を獲った場所を通り過ぎる。近寄ってきた捕食者に気付いた一匹の魚が逃げて行ったが、仔竜はそれに目もくれず、ただただ目の前の白い獣を追っていった。

 やがて仔竜は、洞窟の出口が目視できる場所にまで到達する。彼が嘗て、外から響く鳥の鳴き声に怯えて引き返しつつも、小さく見える空の青色に心をときめかせた場所だ。


「……キュゥ?」


 しかし、あの時見えたものと異なる景色に、仔竜は首を傾げる。洞窟の外、あの青空が広がっていた開口部に今見えているのは、今歩んでいる洞窟の壁のような黒と、大空洞の天井で瞬く結晶のような光の粒だった。


「チチッ」


 何かの間違いで、大空洞に戻ってしまったのか? そんな事を考える仔竜だったが、一方でさっきまで付かず離れずの距離を保っていた白い獣が何かに気付いたように、一気に先へと走っていってしまう。見失わないよう急いで跡を追おうとする仔竜だったが――獣が向かう先、洞窟に入ってすぐのところに白い何かが倒れているのに気が付き、一瞬足を止める。


「キュ……」


 息を呑み、再び歩みを進める。ゆっくりと、しかし前のめりなその歩みは、先程までのおっかなびっくりなそれではなくなっていた。それは、仔竜が今まで見たこともない生き物。世に、人間と呼ばれるものであった。


「すぅ……」


 外から差し込む月光の下に輝くのは美しく長い、青みがかった白い髪。同じく白を基調としたローブのようなものに身を包んだ小柄な身体は、強靭さなど微塵も感じさせない華奢さだ。瞑目したその整った顔立ちはあどけなさを感じさせる子供らしいもので、小さな寝息を立てている。

 仔竜の歩みは、その長い首を延ばせば眼前の生物――白い少女に触れられる程の距離で止まる。これは一体何なのか。何故ここに倒れているのか。様々な疑問が彼の思考を過るが、少女の姿を見つめるうちに、それらを押しのけるように別の何かが思考を占領してゆく。仔竜は今確かに、眼前の白い少女にある種、魅了されていた。

 月夜に照らされ眠る白い少女と、目を見開き輝かせ、それを見つめる黒鉄色の仔竜。一人と一匹を見守るように、美しい星空が洞窟の外から覗いていた。




○タツノモリイタチ


 森に生息する俊敏な小動物。極めて警戒心が強く基本的に人に慣れる事がないため愛玩動物としては流通していないが、手触りのよい毛並みは富裕層で人気が高く、高品質な毛皮は高値で取引される。

 ごく稀に純白の毛並みを持つタツノモリイタチの目撃が報告される事があり、ある富豪によって凄まじい額の懸賞金をかけられているが、未だに捕獲された例はない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る