第28話「じゃ、私たちも行きましょう」 「……うん」

 日焼けした男の子の視線が、ボクの心にクサビを打ち込んだ。ひび割れるほどの衝撃があった。

 ボクが、彼女を。

 好きなのか……。


「好き……だよ」


 舌の上で転がったその言葉の歯切れの悪さに、ボク自身が赤面した。


「好きさ。好きに決まってる。でなきゃ、こんな海まで彼女と来たりしないよ……」

「そういうことじゃなくてさー」


 少年の言葉が、ボクの胸のクサビをもう一段階深く、押し込んだ。


「兄ちゃんはさ、へっぴり腰にしか見えないんだよ」


 素直過ぎる、素直に過ぎる言葉がズン、ズンと重かった。


「好きなら好きでもっと姉ちゃんをつかまえてりゃいいのに、まどろっこしいんだよな。姉ちゃんも兄ちゃんのこと好きそうじゃん。あんなにすっげーかっこいいことされて、好きにならないわけないよ」

「かっこいいことって?」

「なになに?」


 たたんだポールを手にした男の子と女の子が寄ってくる。


「この兄ちゃんすげぇぜ。海の真ん中であの姉ちゃん守るために、サメと取っ組み合いしようとしたんだからさ」

「えっ? サメとー?」

「うそだろー。兄ちゃんのでまかせだよ」

「ウソじゃねぇよ。俺もいたんだから。ま、サメっていうのはあの浮き袋のサメだったんだけどさー」

「なーんだ」

「あのサメか」


 女の子とメガネの男の子はあきれた声を出した。


「でも、兄ちゃんが姉ちゃんを命をかけて守ろうとしたっていうのは、ホントだからな」

「お兄ちゃん、見た目のわりにすごいんだね」

「やっるー!」

「ははは…………」


 められてるのかバカにされているのか微妙なところだけど、まあ、前者寄りか。


「姉ちゃんのためにそんなことまでできる兄ちゃんが、どうして遠慮してるんだよ」

「それはね……」


 彼女が本当はこんな浜辺でねることすらできない、まともに歩けない重病の身だと言っても、あと一時間の命もないのだと言っても、信じてはくれないだろう。


 ボクが死後の世界から魂を回収しにやってきた『死神課』の者だと言っても、理解はしてくれないだろう。


 だから、当たりさわりのない例え話でやり過ごすしかなかった。


「もうすぐ、別れなきゃいけないんだ」

「なんでだよ」

「彼女は遠いところに行ってしまうからさ」

「引っ越しなの?」

「そんなところさ。もう会えなくなるんだ」

「ンなことないよ」


 日焼けの少年がきっぱりと言った。


「他の星に行ってしまうわけじゃないだろ? 会おうとしたら会えるよ。兄ちゃんは、あの姉ちゃんを追いかける気がないだけだよ」


 追いかける……。

 ボクの心が、半歩、後退した。

 追いかけられるのだろうか。ボクが、彼女を。


「兄ちゃんと姉ちゃん、お似合いだと思うからさ。俺みたいな生意気なガキにこんなこと言われて腹立つと思うけど、俺、兄ちゃんも姉ちゃんも好きなんだよ。あの姉ちゃん、やさしいしさ。ちょっとおっぱい小さいけど、いいカノジョになるじゃんか」

「まーた、そんなとこばっかり見て」

「すけべだなー」

「へへへ」


 白い歯を見せて、日焼けの少年が笑った。


「兄ちゃん、踏み込みが足りないんだよ。気合いだよ気合い。当たってぶつかって、ダメだったらいいじゃんか、それで。最初から何もしないよりマシだよ」

「あんたしょっちゅう当たってぶつかってダメなんじゃない」

「すけべだからなー」

「へへへへ。ま、それはいいとしてだなー」

「ちっともよくないでしょ」

「兄ちゃん、これから姉ちゃんとふたりで夕日を見ながら愛を語らったりするんだろ?」

「うわ、おとな」

「かっこいい」

「そんときにさ、姉ちゃんをがばっと抱きしめてちゅーすればいいんだよ。姉ちゃんが一生忘れないくらいに強烈なちゅーをさ。兄ちゃん、こういうとこで男見せなきゃ」

「女の子はサメとたたかってくれるのもあれだけど、ちゅーをしてほしいもんだものね」

「いいなぁ。僕もちゅーする相手ほしいなぁ」

「兄ちゃん聞いてるか?」

「聞いてるよ」


 僕は微笑んだ。


「ありがとう。気をつかってくれて……」

「俺にお礼なんかいいからさ、姉ちゃんを幸せにしてやんなよ。な?」

「おまたせー!」


 声に、僕は振り向いた。

 砂を跳ね上げながら彼女が走ってくる。その手に大きめのレジ袋が提げられていた。


「姉ちゃん、お帰りー」

「ごめんね、待った?」

「そんなに待ってないよ。兄ちゃんと話すことあったし」

「お話し?」

「男と男の話さ。な、兄ちゃん」

「うん。男と男の話さ」

「変なの。ま、いいか! さあみんな、喉渇のどかわいたでしょ! 飲んで飲んで!」


 レジ袋が広げられる。中には、パラソルの下に置いてあったクーラーボックスの中身である、缶ジュースが五本入っていた。


「え? おごってくれんのかよ?」

「ビーチバレーに混ぜてくれたお礼! すっごく楽しかった! ありがとうね!」

「あたしピーチがいい!」

「僕アップル!」

「んじゃ、俺はオレンジをもらおうかな」

「あはは。あと炭酸しかなくなっちゃった。私コーラにしよう! あ、それとも」


 しおりが視線を送ってくる。『死神』という名前を使わないようにしているというのは、その瞳の色で伝わってきた。


「コーラとサイダー、どっちがいい?」

「サイダーでいいよ、ボクは」


 ボクが白い缶を、彼女が赤い缶を持つ。


「じゃあみんな、記念に乾杯しよーぜ! 一気飲みだ!」

「なんの記念なのー?」

「ここでみんなでバレーした記念に決まってるでしょ、ばかちん」

「そうそう! 私たちで一緒にバレーした記念! ほら開けて開けて!」

「うん」


 五人が一斉に缶を開ける。ぷしゅ、と心地いい音が響く。


「かんぱーい!」


 五個の缶がかつん、と合わされた。


「ぷはー!」


 いちばん先に全部を飲み干した日焼けの少年が大きな息をく。ボクたちも十数秒それに遅れて自分の缶を空にした。


美味うまかったー! やっぱちびちび飲むより気持ちいいな! おごりって美味おいしいな!」

「もう、そんなことばっかりいってるんだからー」

「ね、帰るついでに空き缶、捨てておいてくれる?」

「この空き缶、記念に取っておくよ!」

「記念に? 空き缶を?」


 日焼けの少年がレジ袋に入れた空き缶を掲げるように見せた。


「誰がどれ飲んだか、わかるもんな。俺、これを棚に並べとく! そうすりゃ兄ちゃんと姉ちゃんのこといつでも思い出す! 俺を海で拾ってくれて、一緒に遊んだ兄ちゃんと姉ちゃんだ! いつでも思い出したいんだよ!」

「――――――――」


 ――いつでも思い出す、か……。

 もうすぐ、ボクたちは消える。

 彼女の命はき、ボクは実体をなくして死後の世界に戻る。


 ふたりとも、この世界に干渉しなくなる。できなくなる。

 それでも覚えておいてくれるのか。

 こんな、今日の半日を過ごしただけの、ボクと彼女を。


「キミは……」


 気がついたら、ボクは右手を差し出していた。少年の前に。


「キミは、いい男の子だね……」

「そうだろ? よく言われるんだ。へへへへ」


 むき出しになった白い歯がまた笑っていた。混じり気のない、透明で純粋な笑顔だった。


「よーし、みんな、まとめて握手だ! 手と手を合わせろー!」

「うん!」「よーし!」


 ボクたち五人が、手を重ね合う。全部が大きさの違う、色んな形の手だった。


「かけ声は、『また遊ぼうな』、だ!」


 ボクの瞳が揺れた。揺れるしかなかった。

 肩を触れるくらいに近くの彼女がほんの一瞬だけ、笑顔を忘れたのもわかった。


『また』。

『また』なんて、ないんだ。

 ボクにも彼女にも、ないんだ。ここで終わりなんだ。


「せー、の!」


 でも。

『また』があるのなら――。


「また、遊ぼうな――!」


 五人の声が、五人の合わさった手の上で、重なった。

 少しのブレもなかった。

 心がひとつになった、と思えるほどだった。


「じゃあな!」


 ビーチバレーの道具を抱え直した子どもたちが背を向け、また振り返って腕を伸ばした。


「兄ちゃん、がんばれよなー! 姉ちゃんもなー!」

「ばいばーい!」

「元気でねー!」

「またねー!」


 ほとんど後ろ歩きになる格好で、子どもたちが手を振りながら去って行く。


「またね――!!」


 その姿が防砂林ぼうさりんの向こうに消えるまで、ボクと彼女は腕を振って見送っていた。


「……またね」


 声がやむ。もう、応えてくれる声もなかった。

 空も、海も浜も、暗くなっていた。明るい昼間はあれほど色んな色で飾られていた浜辺も、暗い光と濃い影だけの世界になっている。


 西の空でゆっくりと落ちようとしている夕日の焦げた赤い光の中で、ボクと彼女は、ふたりぼっちだった。


「あ……」


 彼女がつぶやいた。


「私、あの子たちの名前、ひとりも聞いてない……」

「あ……ホントだ」


 言われてみれば、そうだ。


「楽しすぎて、名前を聞くひまなんか全然なかったや……」

「――でも、いっか」

「え?」


 寂しそうな笑みから影が消えて、栞は、いつもの微笑みを浮かべた。


「夏の海で一緒に遊んだ子たち、でいいじゃない。名前を知ってるか知らないか、関係ないわ。私たちが一緒に遊んだことは、確かだもの」

「…………そうだね」

「楽しかったね!」


 ――――――――。


「うん……」


 楽しかった


「うん、楽しかった」


 本当に、楽しかった――。


「あはは」


 彼方の赤い太陽、赤い空、赤い水平線を背景にして、栞がきびすを返す。風に薄い色がついて、それが流れるのが見えたような気がした。


「じゃ、私たちも行きましょう」

「…………うん」


 夕日への道をたどるように、彼女が海を左手に見て砂浜を歩き出す。ボクもその隣に着き肩を並べるようにして、ゆっくりと歩いた。


 肩と肩が触れ、指と指が触れ合う。それを無言のきっかけとするように、ボクたちは指を遠慮がちに絡め、互いの手を包むように弱く、優しく包み合った。


「行こう」


 ボクたちはふたりで、ボクたち以外に誰もいない世界を歩く。

 彼女が最期を迎える場所に向かって。

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