ココアが溢した、恋、一色

織田 弥

紙パック製造終了ってマジですか...?

 ……ガタン……ガタンゴトン……。開いた窓から春の匂いが、微風に乗ってやってくる。桜並木沿いを走る電車の中、恋斗はぼんやりと景色を眺めていた。入学式はもう一週間も前で、異様に煌めいていた希望と、一抹の不安は、散る花びらに少しずつ攫われていく。午前七時四十五分すぎ。青天井はとうに澄み渡っている。

 この春から、恋斗は高校へ進学した。電車を利用しての通学であるが、自宅からの距離はそう遠くない。そのため、同じ制服を着ている同級生に、知った顔も多かった。恋斗がこの高校へ進学を決めたのも、親友の叶に誘われたのが理由だった。

「おい、恋斗。起きてるか?」

「起きてるよ。こんな短時間で寝れねぇよ。夜も眠れねぇのに」

 背後からの声に、愛想なく恋斗は返した。振り返ることは無く、魂を吐き出すように、じっと外を見つめている。叶は何も言わず、恋斗の隣でそっと目を閉じた。(幼馴染の二人の間に、今の言葉は余計だったか……)と少しだけ落ち込むのである。それが事前に解らなかった訳では無かった。雫型の落ちる桃色が拭ってくれない香る憂いを、どうにかしてやりたかったのだ。

 それから高校の最寄駅に着くまで、二人が言葉を交わす事はなかった。叶の表情はやけに落ち着いていて、繁く視線を恋斗の方へやっては、その度に少し微笑むのである。恋斗の方も、素っ気のないようで、叶の隣がただ心地よかった。表情にこそ出ないが、黙っていられるその状態こそが、何よりもの証拠であった。

 駅に着いて、高校まで二人は歩いて行く。向かいから風が吹く。運ばれてくる春の匂いに、恋斗は少しむず痒くなってしまう。依然二人は黙ったまま。周囲からは、同校生徒の明るい声が聞こえてくる。彼、彼女らからは、微かな煌めきが見える。決して華美ではないが、確かに光っている。それは、木々から漏れてくる暖かな日差しのようで、夜空に佇むスピカのようである。恋斗も叶も、この光がどうしても眩しくて仕方がなかった。他人に見出すのみで、自らは出せぬその輝きに、夢を見せられるのである。学校までの道のりは、二人にとっては灯籠流しを見ている錯覚なのだ。

 夢を見たまま、高校へ辿り着く。門を越えても、輝きの数は減らずで、寧ろ増えるばかりである。二人が夢から覚めるのは、自分の席に辿り着いた時だった。

「じゃ、また帰りな。寂しくて泣くなよ」

「いきなりなんだよ。まぁ、俺には大志と雪が居るから大丈夫だよ」

 恋斗の軽い冗談に、じわりと笑みを浮かべて叶は返した。それから、軽く手を振って、隣のクラスへ入って行った。

「俺は少し、寂しいけどな」

 叶の背に、後ろ髪を引かぬように呟く。朝のショートタイムが始まるまであと五分。恋斗はトボトボと自席へ向かった。

 恋斗の出席番号は二番。その一色の名字の前に秋山和雅というのが居た。恋斗とは小学校、中学校と一緒で、剣道に日々励んでいる者であった。しかし、体育会系とは疎遠にあった恋斗は、この秋山とはこれまで話したことが無かったのである。秋山は根の真面目な人間であった。人当たりが良いもので、例外なく恋斗にも会話を持ちかけるのである。

「一週間見てたけど、ずっとそれ飲んでんな。美味しいのか?」

 秋山が指差したのは、紙パックのココアである。叶と通学の途中に買ったもので、恋斗が特段味の気に入っているものだった。

「……まぁ。一本飲む?」

 まだ教科書の入った、角ばったリュックサックの中から一本。取り出して渡してやると、秋山は嬉しそうに飲み始める。

「おぉ……うめぇな。けど……」

 ストローから口を離して、唸るように一言。パックは即座に空になり、林檎の芯のように凹んでいた。

「俺、他のココアとか飲んだ事ないから、比べられねぇわ……」

「……ふっ。なんだよそれ」

悲しい表情の秋山。その顔と発言のギャップに思わず、微風のように静かに笑った。ちょうどその時、始業のチャイムが鳴った。担任が教卓の前に立ち、室長が号令を掛ける。

「今日から、部活動の見学が可能になるので、各自自由に見に行ってください。三日後に仮登録、来週の月曜に本登録があるのでそれまでに決めるように。連絡は以上です」

 足早に担任は去っていく。友人同士で部活について話し合うクラスメイト。恋斗はと云うと、既に入りたい部活は決まっていた。

「一色、お前はどうすんだ?中学野球部だったよな?」

「あぁ。でも野球は……するつもりは無いかな。演劇に行きたいと思ってるよ」

 あっさりと返した言葉に、秋山は目を丸くしている。あまりにも意外な方向転換に思えたのだろう。

「お前は、剣道続けんのか?」

「まぁな、剣道好きだし」

 向けられた秋山のまっすぐな視線。その眼に、澄んだ青色を恋斗は見つけた。その日一日、それに似た空をぼんやりと眺め続けるのであった。

 空に錆色が見られ始めた刻、一日の授業が終わった。皆が、嬉々として教室を出ていく。

「ごめん!待ったか?」

「いや、全然。その人たちは?」

 叶が急ぎ目に入ってくる。後ろには見慣れない男女を引き連れていた。

「こいつらは友達だよ。一応中学一緒だったけど……あんまり接点なかったか?」

「……初めてみたかも。こんにちは」

 軽く会釈をしてみる恋斗。相手方の二人は、表情は柔らかく、既に親しみの視線を向けていた。

「この子が……叶の言ってたココアが好きな子?」

「確かに、並んでるな、ココア」

 四人の視線は、恋斗が飲み終えたココアのゴミに向いた。少し恥ずかしくなり、手早くカバンの中に放り込んだ。

「もしかして、知らぬ間にココア好きで話が通るようになってる……?」

「もしかしなくてもそうなってるぞ。まぁ、それは置いといて、こっちが大志、でこの子が雪」

名前を聞いて、合点が行った。叶との会話で名前こそ聞いたことはあったが、いざ会うと確かに叶が好きそうな奴らだと、恋斗は二人をじっと見つめた。

「この大志くんと雪さんも、演劇部に行こうと思ってる人たち?」

「呼び捨てでいいぞ。叶に誘われたんだよ。一緒にやらねぇか。てな」

「私も誘われたんだ〜。それに心配だし……」

 恋斗は少し誇らしくなった。親友と呼べる存在が、人から好かれているのだろうと思える場面に遭遇して、少し幸せな気持ちになった。それと同時に、察すべき事情を把握した。しかし叶の手前、口からこぼす事はしなかった。

「心配ってのは、叶が他の女に取られないかってことか?」

 大志が揶揄って笑う。怒った雪は、頬を少し赤ながら小突いた。幼子のように笑う叶には、この梅のような淡い赤色は見えていないのだろうと恋斗は少し残念に思う。

 四人が中を深めるのには、移動時間で十分だった。演劇部の活動場所は、体育館の前方、ステージ上になっていた。体育館へと続く道には多くの一年生が押しかけていた。そのせいで、どこがどの部活かすっかり解らなくなってしまったのである。

「あれ……。ステージってどこから入るのかなぁ……」

「見た感じ、どこもかしこも運動部!て感じだな」

 あたりには、運動着姿の上級生に、それを取り囲む一年生。演劇部らしい上級生の姿はどこにもなかった。一同は立ち止まり、困り果ててしまった。

「恋斗、またココア飲んでるな。それ何本目?」

「……四本目。飲むと落ち着くんだよ。これ」

「そんな精神安定剤みたいな……もはや中毒じゃねぇか」

 早くも少し呆れた様子で大志は笑う。叶も雪も、暖かい色を恋斗に向けている。まるで兄、姉のようだと恋斗はそれを夕陽に負けぬ元気な橙色で受け取った。

「もしかして、君たち演劇部見に来た?」

 声を掛けてきたのは、少し背の低い男。四人の中で一番背の低い雪よりも小さいその男は、柔和な声と表情をしていた。

「はい!けど、場所が分からなくって……」

 明るい返事の後、少し萎れて雪が返した。叶や恋斗、大志は一瞬、その先輩が鼻の下を伸ばしたように見えた。お互い視線を交わし、頷きあう。

「じゃあ、僕に着いておいで。僕、演劇部だから」

 着いていくその背には、英語でドラマクラブと書かれていた。

「あ、どうでもいいんだけどさ」

 先輩が立ち止まり振り返る。四人は首を傾げて先輩を見る。鴨の引越しのような光景である。

「君の飲んでるそのココア。紙パックでの製造、辞めるみたいだね」

「……はぁぁぁぁぁぁ!?」

 恋斗の声は、青空へ高々と舞い上がった。

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