CDを見つけたときの話
「お、は、よ、う。おはよう。おはよー?」
ボクはテレビ画面に向かってぶつぶつ挨拶してる変なやつになった。
でも『お』と『は』と『よ』と『う』がわかったのはすごい進歩だった。ほかに覚えられたのは『ただいま』とか『帰る』とかそういう単語くらいだけどね。
ボクは近所に小学生の――たぶん女の子のつかってる部屋があるのを思いだした。ボクの予想が正しかったらまだ小さい子だね。埃っぽくなったピンクのベッドに大きなうさぎのぬいぐるみが置いてあったから。垂れ耳のうさぎだよ。連れて帰りたくなるくらい可愛かった。
次の日になって、ボクはすぐにその家に行った。
借りようと思っていたのは辞書だ。子ども用の辞書。漢字とひらがなとカタカナ、それに第二言語の英語まで取り入れてる国だからね。絶対に子ども用の辞書が必要だ。
本当に、どう謝ったらいいのか、なんてお礼をいったらいいのかわからなかった。
女の子の部屋の机と本棚を探すと、目当ての品はすぐに見つかった。
薄い紙で作られてて、文字がみっちり詰まってて、イラストの説明もついてる。それから表紙にリラックスした白熊の絵。おなじような絵の漢字辞典もあった。完璧だ。
それにボクは魔法の表を手に入れた。
なにかのキャラクターなのか、垂れ耳うさぎのテープで壁に貼ってあったんだ。
五十音表だよ。ひらがなにくわえてカタカナとローマ字の表記がついてた。当時はまだローマ字なんてものを知らないけど、音韻の変化についてはだいぶ理解できてたからね。
ボクは表が破れないように壁から剥がして、覚えたばかりの日本語をいった。
「ありがとう」
もっと拙い発音だったと思う。
ボクは――現実逃避してたのかもしれないね。つらい現実から逃れたくて、いま目の前にある現実に集中することを、そういうんだ。
……ちょっと、ため息が出そうになってくるね。
いまでもはっきり思い出せるんだよ。
ボクは一生懸命だった。それだけはまちがいないし、いま思い出してみてもすごいスピードで言語を学習していた。それまであんまり勉強してこなかったからだといわれたら否定できなくらいにね。
ボクはおなじ家で埃をかぶったCDの塔を見つけた。パパやママのコレクションなのかな? 物置部屋みたいなところで、うっすら埃をかぶってたよ。
なんでボクがそんなところを探してたのかっていうと、ボクのパパやママとおなじように、もっと子どものころの思い出を残しているんじゃないかって思ったからなんだ。
その子は愛されていたんだと思う。ボクとおなじようにね。
すくなくとも、ボクが見てきた家のなかでは一番、色濃く愛情が残っていた。なんていうんだっけ。残滓? 残響? 独特の気配があるんだ。愛されていた証みたいなものがね。
家中に飾られている写真に、信じられないくらい多いアルバム。ボクのパパとママだって負けちゃいないけど、データのままってことはよくあった。
でも、その家はちがった。
愛を受け取っていた子どもも、ボクなんかよりしっかりしてる。机のひきだしのなかにパパやママからの手紙とか、友だちからの手紙とか、綺麗に整理されているんだ。教科書に書かれてる数字からすると二年生だと思う。見ているだけで涙腺がヒリヒリしてくるから、はやく切りあげてしまおうと思って、CDの塔だけを調べたんだ。
まちがいなく思い出の品だけど、ちょっと趣がちがった。塔みたいな棚に詰め込まれていたCDはどれも古い印象を受けた。ジャケットだったり、ケースの劣化だったり、判断基準はいろいろあるよ。
ともかくボクは、そのなかでひらがなのCDを一枚見つけた。ジャケットを見て、童話か童謡だろうと推測できた。真ん中に不思議なタッチの子どもの絵があって、まわりに本当に小さな子むけの玩具の絵があったからね。
童謡ならひらがなをいっぱい摂取できるはずだ。なかを開くとひらがな多めの歌詞カードも入ってる。ボクはそれを持ち帰って、この数日間ボクより一生懸命に働いてきたラジカセに流してもらったんだ。
ボクは歌詞カードをみながら五十音の発音を確認して、次に単語ごとに辞書を引いた。読めるけど読めるだけで意味が取れないんだよね。
でもめげてる場合じゃない。
せっかく借りてきたんだから、少しでもボクの血肉に変えなきゃいけない。ボクは携帯電話をつかって、リスニング教材を真似た自作の発音表を作ろうとしていた。
でも、本当に小さな子ども用の曲ばっかりだったから、ボクは疲れていった。たたでさえ慣れない勉強で疲れていたのに、できるだけ考えないようにしていた現実にも触れた。そのころになると、自分が変な状態になろうとしているのが知覚できた。なんか来る、って感じだ。
そんなとき、ボクはキンケイブランドに触れた。銀座カリーパンだよ。ただのパンひとつがそこまでの効果を持つもつもんかと思うかもしれない。
でも、あるんだよ。
本当に。
ボクにとってはお守りで、相棒だったから。ほかに頼れるものも人もいないんだから。
そして実際に、そのパンはまたもボクを助けてくれた。
新しくかかったアップテンポの曲だ。すぐになんの曲なのかわかった。知ってる曲だったんじゃないよ。知ってる音が入ってたんだ。
鶏の鳴き声だよ。
歌詞の一部にコが連続しているところがあって、それで鶏だってわかった。すごく細かく韻を踏んでて妙に耳に残るのも理由のひとつかもしれない。
ボクの漢字ひらがなカタカナの解読はここからはじまったんだ。
――ああ、これは余談だけど、あとになって歌詞の意味を解読できたとき、ボクは一日中ボーっとソファーで膝を抱えて過ごしたんだ。
だってさ、すごく簡単にいうと、一羽の雌鳥が屋根のうえの風見鶏に恋をしたっていう歌なんだよ? 意味がわかるまで何十回も何百回も口ずさんでたから、もう――。
解読できたときの衝撃といったら、子どもにこんなシリアスな歌を?
まぁ、気に入りすぎて何度も口ずさんで、いまでも空で歌えるくらいなんだけどさ。
でも酷いよ。石を飲んでも鉄にはなれなくて――とか、切なすぎて意味なんかわからなきゃよかったと思った。
でもそう――こっちが本命の話。もうわかるだろうけど、そうなんだ。ボクを助けてくれたのは、また鶏だったわけ。
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