はいった家で見たものの話
とりあえずボクは一番ちかい部屋に入った。リビングかな。形だけはそのままで、埃をかぶったようなソファーがあって、その前にテレビが置いてあった。画面は割れてたと思う。まだ面白いと思えるくらいの元気はなかったけど、ちょっと安心したのを覚えてる。
よかった、ソファーに座ってテレビを見るんだって。
ふふ。本当、笑える。不安だったんだ。
ずっと自分がまったく知らないところにいるって感じてたから、ほんの少しだけ、頭の片隅のちょっぴりだけ、もしかしたら宇宙人に拐われて――なんて考えてたからね。おなじ、なんていうのかな、文化? とにかく、おなじことをするってわかったから安心したんだと思う。
きっと住んでいる人はちがうけど、話せばわかる。わかるかもしれない。
ボクは部屋を見回した。不思議だったよ。カウンター越しにキッチンがあった。アイランドキッチンだっけ。ちょっとちがうのかな? あんまり詳しくないんだ。コンロがあったよ。その奥の、壁のほうに冷蔵庫もあった。なんかいろいろペタペタ貼ってあった。
また安心した。
みんな冷蔵庫に貼るんだって。
まぁ文字はまったく読めなかったんだけどね。ああ、もちろん、いまなら読めるよ。日本語っていうんだ。キミは話せる? 日本語。ボクはいまなら、たぶん話せる。読んだり書くのはもうできる。ただ、あのころはできなかったから、なんだろうこれ、って一枚剥がした。
黄色と青のマグネットシートで、レンチを持った作業着のおじさんが描いてあった。並んでる数字はたぶん電話番号だ。水滴のマークがあったから、たぶん水。
「水道屋さん?」
変なの、って。笑っちゃったよ。だってよく似た図柄の、電話番号がちがうのがいくつも貼りつけてあったからさ。そんなにいる? みたいなね。でも一つだけ鍵屋さんのがあったな。
なんでそんなに詳しく覚えてるのかって?
必死だったから。
とにかく落ち着こうと思って、人を探そうと思って、必死になってたからだよ。
ボクは冷蔵庫を開けてみた。保存してあるものを見ればおなじ人間だと思えるからじゃないかな。えっと、つまり、ボクにもよくわからないんだよ。なんで開けたんだろうね。
でも、開けてよかったと思う。
電気が通ってないのがすぐにわかった。ライトがつかないから。それに、すごい臭いがしたんだ。入ってたものが腐って溶けてぐちゃぐちゃの液体になってた。なんの臭いなのかなんてわからないよ。生ゴミをもっとひどくしたやつ。腐臭っていうんだろうけど。
鼻の奥を棒でつつかれたみたいで、一瞬で、本当に一瞬で、ぎゅう、とお腹を絞りあげられたみたいな感覚になった。
ボクは咄嗟に振り向いてシンクに吐いた。吐いたことにビックリして、つづけてもう一回吐いたよ。泣いてたと思う。まぁ泣いてたっていうより涙が滲んだんだろうけど。
とにかく臭いがすごくてさ。シンクからも臭うんだ。こっちは腐った生ゴミだね。
ボクは口の中に残ったのを唾と一緒に吐きだしながら、シンクについてた水栓を開けた。レバー式のやつをあげたんだ。
コン。
だって。なにも出なかったよ。コックが開いた音はしたんだ。でも水は出なかった。ボクは何度か上げ下げして、水がきてないんだと気づいた。
急に寒くなったような気がしたよ。
ボクは汚れた口を拭って、もう一回だけ唾を吐いて、部屋を出た。
「誰かー……誰かいませんかー?」
もう泣いてた。怖くて。いないのがわかるのが嫌で、二階にあがりたくなかったくらい。でも、とにかく早く、誰か人間を見つけないとと思ってあがっていった。
でもこれは、これだけは、バカだって思わないでほしいな。
パニックだったんだ。いろんなことを考えられる余裕がなかった。
だから、冷蔵庫の食べ物が腐ってるのに人がいるわけないなんて考えもしなかった。
二階は子ども部屋と、あと二部屋くらいあったと思う。調べてはいないんだけどね。実際に入ったのは子ども部屋だけだよ。
なんで子ども部屋だってわかったのか? 入ればわかるよ。ボクも子どもだから。
――まぁ、それは冗談だけどね。
でも薄いピンク色の絨毯のうえに革でできた面白い形のリュックがあってさ。それがどうみても大人が背負うような大きさじゃなかった。それに壁のポスター。そう。ここでもポスターなんだけど、掛け算の表が貼ってあったんだよね。
へーって思った。
普通は掛け算の答えがズラッと並んでると思うんだけど、その表は一×一=一みたいに式と答えがあって、九×九で終わってたんだ。どうやって覚えるのかはわからないけど、ボクはちょっと、そこで暮らしてたはずの小学生に同情しちゃった。
ボクも十九×十九まで覚えて嫌になっちゃったし、七が絡んでるのはどうも覚えにくくってさ。なんか不規則な感じがしちゃうんだよね。七ずつ増えてくってわかってるのに。それにこんなの覚えてなにになるの? って。
この子は覚えられたのかな。
大丈夫だったかな? ってさ。
そう思ったら目眩がしてきた。机に手をつくと砂埃がサラサラ指にくっついて。ぎゅって目を瞑った。また吐き気がした。今度は臭いじゃなくて嫌な予感さ。もう、だいぶわかってきてた。頭の中でいろんなことがグルグルして、躰が受け入れないみたいな感じ。
息を吸って、ゆっくり吐いて、また吸って――。
埃っぽいような、土っぽいような、変な匂いがした。鼻血が出そうだったのかも。
ボクはその家を出て、隣の家に入ってみた。
やったことはほとんどおなじだよ。冷蔵庫を開けるときは手で鼻を覆ったけどね。でも今度は空っぽだった。それで戸棚も開けてみたんだ。なにかないかなって。昔だったらそんなことはしないよ? 失礼だしさ。でも、空っぽだった。砂糖とか塩とかもない。缶詰もない。あんまりにもないから誰か持っていったのかなって思った。
また少し寒くなった気がした。
ボクは上着のうえから腕を擦った。拠り所がないっていうのかな。躰が揺れるんだよ。力が入らなくなってきてて。嫌だ嫌だ嫌だって。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ」
何度もいった。顔を手で覆って。躰は揺れるけど、転ばないように踏ん張ってさ。何度も嫌だって繰り返した。そんなことしてもなにも変わらないし嫌な気分になるだけだから、おすすめはしないよ。キミはやらないようにね。
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