本編

月下の井戸端会議

「あ、あのー。ね、ねぇ、聞こえてる?」

「あ、ごめん。ど、どうしたの?」

 こちらが目をやった途端、顔を下げ黙ってしまった。見るからに僕と同じ類いの人だ。どうして無理に関わる必要もない僕に?

「ゆ、ゆっくりでいいから、話してごらん」

 言ってすぐ間違いだったかと思ったが、女の子はコクりとうなずいて口を開いた。

「い、い、いつも、月、描いてる、よね?」

「うん」

「こ、今度の文化祭で、つ、月、必要。描いて、くれない?」

 そういうことか。僕は、二週間ほど前、月を見ていたら無性に描きたくなり、それから上手く描けないのが悔しくて今日まで書き続けてた。

「どれくらいのサイズ?」

 彼女は静かに左手を伸ばした。

「あの、時計の、倍くらい」

 倍! 倍って何に…。そうだった。うちは演劇だったか。月がいるとすると…狼男とかなのか。それはどうでも良い。どうせ何もしないわけにはいかないし、絵で仕事をやった感を出せるなら悪い話じゃない。けど、そのサイズは…



「月にはウサギ、ロバ、カエルに、ライオンに、ワニ。実に多くの動物が住んでいる。正確には地球上の色んな角度や時間で月の海という平原によってできた黒い影の見え方が変わって、それぞれに動物が見立てられたんだ」

 彼は月の写真を並べて高々と僕に話し始めた。

「僕はそれらすべての月を写真に収めたいんだ。でも、天体の撮影ってそう簡単にはできない。だから、僕は宇宙飛行士になって自分の目に焼き付けてきたい」

 突如として、彼の口から飛び出た夢に僕は呆気をとられた。その夢の壮大さに実感が沸かなかったからだと思う。

「僕、気づいたんだ。カメラや写真は足を運べない他人と視界を共有するためにつくられたもの。僕の父さんは雑誌やSNSを通して人に見せる写真を撮って仕事をしてる。でも、僕は父さんたちみたく写真を友達や知り合い、ましてや後世の誰かに届けたいわけじゃない。自分の記憶を保存したいだけなんだ。いつでも綺麗に取り出せる、頭の外の引き出しに。写真の技術を磨くのは、少しでもその思い出を鮮明に保存するため。だから、月が撮りたいんじゃなくて、見たいんだ。自分の記憶のほとんどはカメラに託して保存してる。だから、天体を綺麗に保存するのが難しいなら、月の姿だけはカメラに頼らず、容量の少ない頭とそして心に、自分の目を通して保存したい。誰の目も借りず自分の目で普通じゃ見れない世界を見れるなら、見てきたいと思うでしょ?」



 僕は絵を書くことがどうやら上手らしい。美術の時間ではコンクールに出すとなるといつも選ばれていた。それでも、自身で才能めいたものを感じることはなかった。自分の力に気づいたのは僕ではなく美術の先生だった。当時の僕は聞いていてもピンと来るわけがなかったが、構図や影などの技術的なところを熱心にほめてくださった。悪い気はしなかったし、実際話を聞いていればやってみたい気もして、軽いのりで部の勧誘も受けた。おかげでそれからは充実した中学校生活を送れたと思う。高校に入っても、部員とは未だに連絡を取ったりしているのだ。高校で友達も作れずに一人寂しく過ごしている今の姿を俯瞰ふかんしていると、交友関係の点でも先生は僕の人生を彩ってくれた恩人なのかもなと、ふと考えることがある。以来なんとなく暇になれば絵を描いている。絵が自分にとって大事なお守りのようなもので、描くことはそのおまじないのように思えるからだ。

 それが今、おまじないとしてではなく、人から依頼されて仕事として絵を描くのだ。依頼主のあの子は僕がいつも月を描いているのを知っていた。とすれば、絵のうまさを評価をしての依頼なのかもしれない。本当に先生が言うように絵の才があるんだとすれば、やはり後天的なものだろう。先生によく褒められた絵の構図やバランスは写真と通ずるものがある。それでも、月を描くのは何度やっても無理だった。彼が困難だと言っていたのは、カメラの技術の話をしているんだと、当時の僕は思い込んでいた。でも、違ったんだ。どの図鑑に載っている月にも美を感じないのだ。仮に目を引かれる月に出会っても、紙を変え、自分の筆で写し直すと、魅力が落ち、納得のいく月にどうしてもならない。僕は十八年生きていても月の顔を一度も直接拝めていないんだ。彼は正解を見に行きたかったんだ。誰も綺麗に撮れず描けずの月を直接見て、どの写真、どの絵が最も月なのかの正解を。地球から、それもこんな濡れ縁から月を描こうとしてきたことが急に馬鹿馬鹿しく思えて、筆を置き、餅を端に寄せ横たわった。

「ニャー」

 あ、黒猫。また来たのかい。これで三度目だ。いつもは近場の鉄道を周遊していた僕が、高校受験の合格祝いと称し両親に夢にまで見たあの丸尾鉄道に連れていってもらったときのこと。当時の僕はそれこそまだ二三日分月が欠けていても満月だと思ていた。



 早起きをし、朝早くから三時間の道程を共にする新幹線に飛び乗った。ずっと車窓にかじりついていたせいか、少し眠気を伴いながら丸尾鉄道の始発駅まで歩いたのを覚えている。鉄道が好きだった。鉄道の車両や線路、ましてや運転手にも興味があるわけではなかったが、車窓を移り行く景色を見るのが大好きだった。今考えるとなかなか独特な趣味だったと思う。きっと彼に影響されたに違いない。

 ある日、僕の小学校にお父さんと各地を転々としている男の子が転校生としてやってきた。彼は教室ではずっと写真を見つめていた。ちらっと覗くとそこには誰一人として人のいないだだっ広い空間が広がっていた。僕の視線に気づいたのか、写真を見せてくれた。野原や海に森、単一色の自然が広がるような写真が机を埋め尽くした。ところどころ建物や動物などの写真があるのを知ると僕は安心した。彼のお父さんは有名な写真家で、見よう見まねで写真を撮っていた間に好きになったらしい。たまたま彼の旅についていく機会があった。実際には修学旅行の班別行動のときのことだ。僕ら班員は彼が組んだ計画に任せ、タクシーを東へ西へと飛ばした。でも、どこについても待っていたのは美しい景色だった。僕は自身の眼下に広がる壮大な景色に圧倒されたが、それよりも彼のフレームの中に収まった切り取られた景色の方がよほど美しく見えたことに、深くおかしさを覚えた。彼の写真の虜になって間もなく、彼はお父さんとともにまたへと飛び立った。



 丸尾鉄道を満喫し、宿につくと一日中僕に振り回されたせいか、両親はすぐに眠りについた。それを確認し、僕は部屋を出てホテル内を探索し始めた。大浴場。卓球場。お土産屋さん。そしてすごく静かな部屋についた。そこには誰もおらず、けど障子と障子の間から美しい月が顔を出していた。その月の姿は一生忘れない。慣れないカメラを構え、パシャリと音を鳴らした。そして姿がぼやけにぼやけた月を見つめていると、きれいな瞳をした黒猫がやってきた。その瞳はぼやけた月より断然僕の心を惹きつけた。縁側に腰を掛けその黒猫の動向をうかがっていると、こちらに警戒もなく近づいてきて、横に置いていた袋を触ってこちらを見た。直前に買っていた団子が気になるのかと思い、串から抜いて出してやった。すると黒猫は僕の手をなめ、ぱくりとそれを口にした。団子を食べると今度は僕の膝の上でうずくまった。僕は背を撫でてやりながらも、そのとき視線はすでに月に戻っていた。

 あれから月を見ていると、今日のようにたまに黒猫が来るようになった。もうわかっているんだ。これは彼なんだと。あの旅館からの距離を猫が旅できるはずがない。それでも、僕はあえてこの黒猫に別に名前を付けて呼んでいる。ムーンと。

ムーン、僕月の絵を描かないと。今日が文化祭本番までの最後の満月。来月の十五夜じゃ間に合わない。でも、何も見えないんだ」

 いつもよりひどくムーンの毛を強く撫でながら満月を眺めていると、今まで一度も見ることが叶わなかった動物の姿を月に見た。一瞬だけだけど、確実にそこに『餅をつくうさぎ』がいた。そのうさぎはやっと来てくれたと喋ったような気がした。その顔をもう一度探すこともできないほど網膜が焦げた。その痛さに手元に目を落とすと、既にの姿はなかった。

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