冷夏

@saotomecyou

一日目 袂

 炬燵に入っていた。何を考えるでもなくひたすらにぼうっとしていた。おもむろに足を延ばすと、ふくよかなものが親指の先に感じたあと、脛に何かしらの刺激を感じた。その刺激はすぐに体をむしばむように脳へと伝わり、ぶ厚い痛みとなった。文治に引っかかれてしまったようだ。しかし彼は猫だ。怒ったとて、何が変わるでもないのだ。袂は自分の脛をさすりながら自然とそう思った。何の疑いもなくそう思った。脛はさするたびに段々と痛みが和らいだが、血が出てしまったので痛みが引くのには暫くかかりそうだ。もう一度文治の眠りの邪魔をしてはかわいそうなので、炬燵から足を出し、半纏に着替え、日めくりカレンダーを見る。今は2102年6月15日。袂は14日前に96歳を迎えた。といっても誕生日なんて適当にこのあたりかとうろ覚えの中二十年前ぐらいに勝手に決めてしまったものなのだが。本当の生まれた日なんて五十年ほど前に死んだ親だって忘れていただろう。真実は戸籍を見ないとわからない。

重い腰を机を支えにしながら上げ、さび付いた歯車を動かすように体を動かし、カーテンを開けた。外は窓越しでもわかるほど冷えていた。六月にこの寒さなんて茨城県が幾ら北関東とはいえ異常だ。窓を開けると、新鮮な空気とともに季節はずれすぎる寒さが足元からするりと忍び込んできた。忽ち袂の吐息は白銀の煙へと姿を変え、世界へ散らばった。太陽が上にいた。後ろの時計を見ると午後一時を回っていた。半纏を脱ぎ、洋服に着替え、季節外れのジャンパーを着て自分の意思に反してゆっくりと玄関から外に出た。引き戸を引くと同時に息はまた白んで体は震えた。袂は住宅街を歩き出した。右に小学校が見える。自分が通った小学校でもないのに昔見た前の古い校舎に思いをはせる。するといつも高揚感と懐かしさと少しの寂しさをマーブルの様に混ぜた感情になる。廃墟などを見た時にもなるこの気持ちは何なのだろうか。

「新校舎はきれいだ」

袂はそんな気持ちになりながらもそう思った。昔の校舎の方が味があって良かったなどは微塵も思わなかった。彼の父ならば思っただろうか。袂の父は、その小学校――水木小学校に幼少のころ通っていたと話していた。正しい通学路ではなく、ちょっとした崖の上にあったので崖沿いの無縁仏らしき墓場の横を通り抜けて裏門から入ったものだと袂に哀愁漂う顔で話した。その話の後、実際に行ってみたが墓などなく、崖は崩れないようにコンクリートで無機質に補修されていた。通学路には空き地と木造の廃墟が目立っていた。これも仕方のないことなのだろうと素直に受け止めた。思い出は父の頭の中にあっただろう。しばらく歩くと魚屋の角を曲がったところにバス停が見えた。大通りの横を走るバス専用道のバスだ。渋滞がなく、早いのでいつも使っている。ここにはかつて電車が走っていたが半世紀以上前の話だ。理由は需要がなくなったと判断された、ただそれだけの事なんだろう。自分も幼少期乗っていたが、廃線となっても特に変化はなく、日々の生活を少し変えるだけだった。廃線の日、使っていた水木駅は多くの人でごった返し、改札は切符を買う人であふれ、ホームにはこれまでにないほどの人が不規則に蠢いていた。袂も鉄道好きの友に連れていかれたが、いち交通手段がなくなることに何を悲しんでいるのだろうと思ったものだ。代わりの交通手段など幾らでもあるだろうにと。しかし彼は鉄道好きの友を奇異の目で見ることはなかったし、彼と分かり合えることはなかったが仲は良かった。

バスが来た。日立電鉄交通サービスと書かれた回数券を取り、席に座った。おさかなセンターにでも行って昼飯を食おうと思った。散歩のついでに月曜日はいつもそこで昼食を食べていた。たまにそこに行くせいで出費が重なることもあったが、別にほかに使い道もないからいいのだ。袂はバスの心地よい振動の中、夢と現実の狭間からするりと眠りへ入った。

夢うつつの中バス停についた。ゆっくりと体が動き足先から目が覚めて行く感じがした。運賃を払い、バスを出ると広い駐車場へと出た。田舎ゆえの広い駐車場は開放感があって袂は好きだった。どんぶり売り場へと向かうと、生臭いにおいとともに冷凍庫で作られた人工的な冷気が自分の周りの空気と入れ替わった。歩みを進め、マグロのパックを手に取り右手のお盆に乗せた。今日は赤身中心にしよう。と思いながらも、好きなイクラは一パック手に取る。会計へと進み、目の前の簡素な席に座った。席にもう少しお金を使ったらいいのにと思うが、直売所も兼ねているので贅沢なことは言えないのだろうと思った。そんなことを考えながら、イクラを米とともに口へと輸送する。相変わらず旨い。濃厚な魚卵の味が舌の上をラップをかけるように包み、そして染みた。マグロも同様にうまい。サーモンだってうまい、ホタテは繊維がしっかりしていて他の物とは比べ物にならないはずだ。これを袂は毎週食べていた。毎週同じようにバスに乗り、同じようなことを考え、おさかなセンターへ行き、ドンブリを食べ、この様なことを考える。袂は仕事を引退してからずっとこの様な何の変化もない無味無臭の生活を繰り返していた。だが袂はこの生活を変えたいと思っても変えることはなかった。日常を突然変えることを袂は意識して避けてしまっていた。幼少の時、よく使っていた電車が廃線になる時に袂は友達が寂しがっていても彼は特に何の感慨も浮かばなかった。しかし今、父の小学校を見ると特殊な気持ちに襲われるのだ。袂は食べ終えて箸を止めて塩気の多い汁物を啜った。今日は一段と感度が高い。やたらと色々なことを考えてしまう。割りばし入れに目をやると、チラシが貼ってあるようだ。こんなところにも張るのかと思いつつも目を通す。そこには「乗り物に乗って遠くいってみませんか?時を忘れて旅を楽しみましょう。※諸事情により色々な場所の市内のバス停に発着します。詳しいことは市内停車場の時刻表欄に貼っています!」ポップな見た目のそのチラシにはそう書かれていた。管理会社の名前なども書かれておらず、停車場に一々張ってあるというのも気になったが、そんなどうでも良いチラシのことなど、直ぐに考えるのをよしてしまった。バスの時間にはまだ余裕があるが、袂は箸を置いて生臭い冷気の中立ち上がった。皿を処理し、店を出た。バス停まで歩き、ゆっくりとさび付いた股関節を動かし、椅子に腰かけた。二分後にバスが来る。時刻表は大体頭に入っていた。日立電鉄交通サービスと書かれた回数券を行きと同じように取り、スカスカの座席に腰かけた。座席はふわふわしていたが暫く人が座っていなかったのか、少しひんやりとしている。袂は体を座席ごと重力に預けた。大きなため息を静かに吐くとちょうどバスは出発した。バスは心地よいリズムで揺れ始め、袂を夢の世界へと誘う調べとなった。トンネルに入って暗くなると、袂の瞼は落ち、暗い世界で外の音だけが聞こえる意識の狭間で彼の意識はぷつりと切れ、眠りの世界へと袂は入った。意識が落ちる直前「たまには終点まで行ってみよう。」と、突拍子もなくそう思った。袂は何の前触れもなく少し日常を変えてしまった。


      ***********************


直ぐ近くで空気が出る音が響く。そのあと線路のきしむ音とともに踏切の鐘の音が寝ぼけた耳をこじ開けて徐々に入ってくる。袂は目を驚いて開けた。彼は踏切の前に立っていた。列車はすぐに過ぎ、踏切棒が珍しく元気に上がった。

「何処だここ。」

袂がそう言うのには無理はなかった。彼は先ほどまでバスに乗っていた筈なのだから。何が起こったかわからない。見渡すと線路があり、屋根に1と2と書かれた四角い看板のある島式ホームがある。どうやら駅のようだ。とりあえず踏切を渡った。目の前に見覚えのある建物があった。踏切の真ん中で右左を見たが、見覚えがあるだけで駅ということ以外全く何処かわからない。脳みそに何かが詰まっているような感覚がしている。思い出せないときに感じる感覚だ。踏切を渡り切り、駐輪場らしきところへ出る。ふと、右を見ると昔の銀行の窓口のようなものがあった。袂が生まれた時代にはATMというものがあり実物の窓口など見たことはなかったが、写真で見たことはあった。だがしかし、この窓口だけは確かに見たことがあった。鉄格子と言うか鉄製の骨組みと言うのかは知らないが、それがガラスとともに張られており、下のところに四角い穴が開いている。線路とホームがあることからも駅の窓口であることは今更ながら理解したが、何処だか分かりそうで分からなかった。窓口の前で曲がり、駐輪場の横を過ぎた。屋根が途切れて西日が直接目に差し、袂は顔に有る皴をさらに増やして目を窄めた。駅を出て、左に曲がるとまた見覚えのある道へ出た。

この道、バス停の前の通りに似ている――

袂は年に合わない速度で右を見た。そこには「電鉄プラザ」と書かれた小さなスーパーがある。袂は一人で目を見開き、彼の脳の詰め物はしゅわりと溶けてなくなった。後ろに戻り、駅の入り口をしっかりとみる。そこには白地に黒いブロック体で「水木駅」と書かれていた。そこで気付きが確信へと変貌した。その気付きは彼が望んでいたことでもあり、避けていたことでもあった。家に帰るはずが、彼は時代を間違えてしまったようだ。とりあえず、終点にも行けず家にも帰れなさそうな状況に袂は途方に暮れ、壁に寄り掛かった。薄い頭の頭頂部が日光で温まったコンクリートの壁に触れ、心の不安さとは違い不思議と体は火照っていた。

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