第30話 祭りの朝
十字架祭りの朝、マナカは部屋の窓から差し込む強い日差しで目を覚ました。外に出ると、どこまでも青い空が頭上に広がっている。
村の家々の前には祭りを祝う花飾りやガーランドが飾られ、通りいっぱいに食べ物のいい匂いが漂っていた。そこかしこに屋台が並び、住人の家でも、ホットスナックやお菓子を作って家族で楽しんでいる様子が見てとれた。
「俺、見晴台の方行ってきます」
「うん。カルラの発表はお昼だよね」
「そうです。中央広場です」
「ありがとう」
マルティン家の玄関前でジュンと別れて、マナカは通りを山側へ上った。今日は一段と観光客が多い。浮き足だった村の人々が声をかけてくれるので、挨拶を返したり、時には写真を撮らせてもらったりしながら歩みを進める。
途中、どうしてもお腹が空いて、屋台でチュロスを買った。甘い油が滲み出る生地にかぶりつきながら見晴台を上り、村を一望すると、カラフルに色づいた街並みと人々の洋服がマナカの視界を華やかに染め上げた。
「わ、」
思わず声が漏れる。ソルブランコの街並みは、初めてここを訪れてから二週間が経っても、今なおマナカの心を奪い続けた。カメラを構えて数枚シャッターを切っている途中、背後から足音が聞こえて振り返ると、上着のポケットに手を突っ込んだセブが所在なさげに立ちつくしていた。
「Hola! セブ」
軽く手を上げたマナカにセブはゆっくりと近づいてきた。だぼっとしたパーカーの首元からはステージで着るワイシャツの襟が覗いている。
「今日、頑張って」と声をかけると、小さな声で「ありがとう」と呟き、眩しそうに目を細めながらソルブランコの街並みに視線を這わせた。
「カルラ、引き抜きに合っていたらしい」
強い風の中、今にもかき消されてしまいそうな声でセブが言った。マナカは彼の隣でソルブランコの街並みを眺めながら、なんでもない風を装って相づちを打った。
「引き抜き?」
「マドリードに位置する本店からオファーがあって、そこに行けば今よりも給料がよくなるしショーに出る機会も増える。でもこの村にそう簡単には帰ってこれなくなるからって、迷ってたって言うんだ。だからせめて俺だけでも一緒に来てくれないかって……馬鹿だよね。とっくに道が分かれていることに、いつまでも気づかないんだから」
セブの伏せられた瞳には寂しそうな色が浮かんでいた。そこには、カルラへの何かしらの感情というよりは、もはやフラメンコを純粋な芸術のみで捉えることができなくなった彼自身への、自嘲のようなものが滲んでいた。
一生共にあると思っていたものも、知らぬ間に姿を変えていて手放さざるを得なくなることがある。セブはきっとずいぶん前からカルラとの断絶に気づいていたのだ――カルラだって、心の奥底では気づいていたに違いない。ただ見て見ぬふりをしただけで。
「俺は二人のパフォーマンスが好きだよ。上手いも下手も素人だからわからないけど、カルラとセブが本気でフラメンコを楽しんでるって伝わってくるから。今日のステージでもそんな舞台が見たい」
マナカは昨日の練習を思い浮かべながら言った。地下ステージ上での二人のパフォーマンスは完璧だったが、ジュンはカメラを構えなかった。その気持ちがマナカにもわかるような気がした。
見る人の心を魅了する引力が、圧倒的に足りなかったのだ。
「……うん」
セブは小さくうなずくと、それきり黙って雲の流れをぼんやりと眺めていた。マナカはしばらく考えてからカメラを構え、彼の横顔に向けてパシャリと一枚シャッターを切った。
「なに、」
セブが黒目がちな瞳をまん丸く見開いた。
「普段の君の写真を一枚も撮ってなかったと思って」
「必要ないだろ。カルラの記録なんだから」
「必要だよ。だって君はカルラの『大切な人』だ」
例え別の道に進むとしても、これまで共に過ごした時間や愛したものが消えるわけではない。
そう伝えるとセブはしばらく黙っていたが、やがて鼻の頭を少し赤くして、目の縁にじんわりと涙を溜めた。
「そうだよな。なくなるわけじゃない」
震える声に安堵の吐息が混ざる。マナカはカメラのモニターで写真の出来を確認してから、そっとその場を立ち去った。
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