第1節

ジリリリリリリッ——————


 寸刻前からけたたましく鳴り響いているアラームを叩いて止め、朦朧とした視界の端で時間をチラッと確認して再び目を閉じた。

 しばらくはそうして寝起き特有の甘美な微睡みを味わっていたが、やがて階段の軋む音が聞こえてくると自然と目が開いた。


「早く起きないと寝坊するわよー」


 まるで自室に入るかのように、ノックもなしにドアを開けた姉の声が、寝起きの不機嫌な頭にこだました。

 不満げに眠い目をこすりながら起き上がり、ひとつ大きな伸びをしてから学校の制服に着替え始める。

 薄紅色のシャツを雑に羽織り、寝間着から漆黒のズボンに穿き替え、ベルトとネクタイ、そしてカバンを手に取って部屋を出る。


 階下に降りてすぐ眼の前にある玄関口の取次に、さきほど手に取ったベルトなどを雑に投げ置き、階段の裏に位置する洗面所で手早く洗顔と歯磨きを済ましリビングへと向かう。

 そうしてリビングに入ると、父親は既に朝食を終える頃合いだったようで、律儀に食べ終えた皿を流し台に持って行こうと立ち上がっていた。


 寝起きのぶっきらぼうな声音で父と母、祖母、それから姉におはようと呟き、自分の席に着く。

 今朝の献立は、昨晩の余り物であろうスープにホカホカの白米、祖母特製の漬物、旬のアジの煮物と………。


「……えっ、なにっ、これ。なんかの儀式の最中だった?」


 焦げた食べ物にすら見えないスッカスカの炭のような四角い物体が、真っ白な丸皿とコントラストを描きつつ食卓に紛れ込んでいた。

 その感想が余りにも辛辣過ぎたためか、姉はバツが悪そうにおずおずと口を開いて事情を説明した。


「……いや、これ、………卵焼き、作ったんだけど」


「どんな焼け野原に卵突っ込んだんだよ。炭焼き窯なんてうちにあったっけ?」


 口をついて出た追い打ちに、姉はいっそう気後れした態度で、黙々と自分の朝食に手を付ける。

「………あんた、あの子に似て年々口が悪くなってる気がするわ」

 そう苦し紛れに呟く姉へ。反論しようとすると……。


「まあまあ、その辺にして。とりあえず食べて、早くしないと遅刻するわよ」

 テーブルを挟んだ斜め前の席に座る、おっとりとした口調の母にそう促されたため、俺は箸を手に朝食に取り掛かった。


 おりしも、左隣の席に着く祖母が「お茶が無いわね」と呟いて立ち上がり、食器棚から俺専用のマグカップを取り出してテーブルにそっと置き、台所にある細口瓶を持ってきてお茶を注いでくれた。

 そんな祖母のさりげない気づかいに、小さく「ありがと」と謝意を伝え、黙々と白米を頬張る。


 ———こんな朝の風景だけを切り抜けば、うちは何の変哲もない家庭だ。

 魔法武具師を生業とする寡黙な職人気質の父。家族みんなの衣食住を支える穏やかな母。畑仕事を老後の趣味としており、色々な面で俺達孫を可愛がってくれる優しい祖母。専業主婦になるんだと抜かしながら家事全般がてんでダメダメで、もうじき20歳になるのに全く男っ気のない無職の姉。

 そして、もうすぐ14歳になる学生の俺。


 なんでも打ち明けられるほどというわけでもないし、全く喧嘩することが無いというわけでもないが、それでも滅多に波風立たない、暖かく仲の良い普通の五人家族………のはずだった。


「……ねえ、。ちょっとこれ食べてみて、感想を聞かせてよ」


 ————そう、ここは紅魔の里。

 かつて、この世界を脅かしていた魔王軍ですら、そのあまりの異常さに忌避していた紅魔族の住む小さな集落。

 真紅の瞳と漆黒の髪、生まれつき高い知力と魔力を持つ血統であり、里の出身者は過去一人の例外もなく、《アークウィザード》と呼ばれる魔法使いの上級職に就いてきたエリート一族。


 ……とまあ、外側だけ見れば確かに立派な里と一族だと言えないこともないのだが。

 その実、戦闘時はその高い能力で一方的な蹂躙を好み、そのくせして村人のほぼ全員が煽り耐性を有していないため喧嘩っ早く、また、特殊な名乗りをわざわざ練習したり、外の人には理解しがたい独特な感性を各々有していたりと…………はっきり言ってかなり痛い変人の巣窟なのである。

 そんな変窟において、普通の家庭なるものが成立する筈もない。

 そして極めつけが、ネーミングセンスの異常さである。


。弟をあなたの悪魔召喚の贄にしちゃ、かわいそうよ」

「だっ、誰の卵焼きが黒魔術よ!」


 そんな何気ない会話ですら、その独特なネーミングのせいで異常に聞こえてくる。

 何を隠そう、俺の姉の名はふにふらである。

 さらにこれは、別に姉にだけ限った話ではなくて……。

 父は、母は

 優しい祖母はという始末である。

 そして俺は…………てってれえ。

 それでも、幼い頃はそれが普通なのだと思っていた。

 しかし外から来た人々の一風変わった名前を、それをお互いに呼び合っているのを何度か見ているうちに気が付いたのだ。


 外じゃなくて、

 

「そんなゲテモノを食べて、もしまた体調でも崩したらいけないわ……。ただでさえ、この子は元々体が強くないんだから」

「うっ、……そっ、それもそうね………」


 そんなに毒見をさせたかったのか……。姉は目に見えて肩を落とし、しょんぼりとした顔でちびちびとご飯をつついていた。


 自分では「そうだったかもなあ」という程度にしか覚えていないのだが、どうやら俺は8歳ぐらいまでかなりの虚弱体質で頻繁に熱を出しては寝込んでいたらしい。

 原因が分からず家族も困り果てていた時、偶然里に来ていた腕利きのプリーストに診てもらってからは体調が安定し始めたが、その頃の影響で他の同世代の者より知能と魔力のステータスの向上が遅く、また安定してからもしばらくは言葉もたどたどしかったと聞いいている。


 しかしここ数年はそんな体質も鳴りを潜め、俺は年相応の元気な体にすくすくと育ちつつあった。そのため自分が大して覚えてもいない弱かった頃のことを引き合いに出し、あれやこれやと過保護気味に動き回る母や姉………特に姉に関しては、正直なところ最近めんどうくさかったりもする。


「………別に、食べようと思えばこれくらい、食べられるだろ」

 そう強がって、一口食べた後になってから後悔した。

 ……これは炭ですらない。

 いや、炭を食べたことはないのだがそれでも分かる…………炭よりもなお酷い。


 思わずむせ返りそうなほど猛烈な吐き気を覚えたが、なんとか喉元まででそれを抑え、祖母が先程入れてくれたお茶を口に含んで無理やり飲み下した。


「……ど、どうだった?」


「……ねーちゃんは二度と料理すんな」


「えっ」


 更なる追い打ちを受け、姉は今にも泣きだしそうな顔になる。

 心の中で、将来姉と付き合うことになるかもしれない未だ見ぬ恋人にそっと合掌を捧げ、残りの朝食を掻き込んで立ち上がる。


「ちょっと、お皿洗って行きなさいな」


 少し怒気を込めてそう言う母を尻目に、俺は壁の掛け鉤にかかっている紅魔族特製の黒いローブと台所の弁当袋を手に取り、駆け足で玄関へと向かう。


「あっ、いいよ、あたしが洗っておくから! 気を付けてね」

「ありがとねーちゃん。かーさんご馳走様、行ってきまーす」


 卵焼きの罪悪感からか洗い物を引き受けた姉に甘え、学校指定のローファーをテキトーに履き、ズボンにベルトを、シャツにネクタイを巻き付け、先刻置いておいたカバンに弁当袋と下駄箱のダガーをしまい込み、俺は勢いよく玄関を出た。

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