第三章 狩る者狩らる
魔女の誕生と生態について話をしよう。
今からおよそ数千年前、神は人間の安寧と発展を求め、この星に特別な能力を持った女を創造した。神はそれらを魔女と呼んだ。
魔女には、人間と大きく異なる能力が二つある。一つは、魔法という神秘的な術を扱う力。もう一つは、当時神のみが有していた知恵じゃ。
わしが天文学に勤しんでいたのも、生まれたときに神から月食の知恵を授かったからこそ。ほかの魔女たちも、規模の大小はあれど異なる知恵を授かったようじゃ。
神の思惑どおり、人々は魔女を通じて新たな知恵を得て、さらなる文明や文化の発展に応用した。ここまでは良かったんじゃが、紀元後十二世紀頃になると、人々が突如として魔女を恐れるようになってしまう。それから紀元後十八世紀にかけて魔女狩りが行われ、多くの者が人々の手によって殺されてしまったのじゃ。
ここまで聞けば、魔女は迫害を受けたかわいそうな連中なのかと思うかもしれん。その認識は間違っておらん。じゃが、すべてがすべて良い魔女であったというわけでもない。悪に染まる人間がおるならば、悪に染まる魔女も少なからずおるというわけじゃ。
そういう悪い魔女は、神命を無視し、自分はどの生物よりも優れた存在であると驕り始めた。そして、神から授かった力を私欲のために使い始めた。それにあたって邪魔な存在となったのが、ほかでもない同胞たちじゃ。
魔女狩りをする人間たちに扮し、強欲な魔女たちは弱き魔女を次々に殺していった。魔女の心臓を喰らうことで魔力を強奪できるという、恐ろしい事実が判明したのもこの頃のことじゃ。
血にまみれた日々が続き、数世紀ほど経ったころには、魔女はもう千にも満たぬ数しか残らなくなる。魔女狩りが衰退し、気軽に魔女を狙えなくなったことを悟ると、強欲な魔女たちもまた素性を隠して生きるようになった。
わしは魔女を狙おうなどと微塵も考えたことがないが、神命に反しているという意味では、わしも悪い魔女たちと大差ないのかもしれん。最初こそ神の言いつけどおり、生真面目に魔法を使い続けていたが、魔女狩りを受けてからはこっそりとしか使わなくなったからのう。
唯一やつらと違うところがあるとすれば、わしなりに義侠心と信念を持って魔法を使っておるところじゃろうか。まあ、わしの信念なんぞ、魔法を使わずともなしうる場合がほとんどじゃから、何の自慢にもなりはせんがのう。今、なこのためにおもちゃを買いに行っているのも、まさにその一例じゃ。
「にけ! 人、いっぱい!」
そばにいるなこのはしゃぎ声で、わしは我に返る。わしらは今、おもちゃ屋へ向かうために、葛西駅行きの電車で移動しているところじゃ。
つり革を握ったまま振り向くと、なこは窓から見える市街の景色に興味津々の様子。座席の上で膝立ちしながら窓にぴたりとくっつき、道行く人々を眺めていた。わしも外を見てみたが、週末の昼間で快晴なのもあり、老若男女問わず多くの人々が街中を出歩いておるようじゃ。
やがて、到着のアナウンスが電車内に響き渡る。電車が停止して扉が開いたところで、わしはなこの手を握って引き連れながら、降車して駅の外へ出た。スクランブル交差点にあふれ返った人々を目にし、なこは興奮が収まらずに飛び跳ね、それを見たわしはやれやれと鼻でため息をついた。
わしもなこも、普段はおしゃれをまったくせんのじゃが、今回は市街に買い物をしに来たからそうも言ってられん。わしは今回、爽やかなコーディネートに仕上げた。白と青緑のストライプ柄のチュニックブラウス、デニムのタックワイドパンツ、そして銀のフラットシューズを合わせている。
なこはそもそもファッションを知らんので、わしが代わりになこの服を選んだ。黒のキャップ帽を被り、デニムのホットパンツに黒の靴下とサンダルを合わせたが、お気に入りの「概念」Tシャツだけは頑なに脱ごうとせんかった。初めて日本に来た土産に買っただけなのじゃが、なぜこんなださい服をファッションに組みこむんじゃ、なこよ……。
なこが手を引っ張って急かしてきたので、わしは言われるがままにさっさと目的地へ行くことにした。逸れんように手をつないで街頭を十五分ほど歩き、わしらは映画館と隣接している大型デパートへとやって来た。
ここは、映画館のほうは最新設備が整っておるし、デパートのほうもお店やレストランが幅広く備わっておる。買うにも遊ぶにももってこいの場所と言えよう。わしはふらふらとどこかへ行きそうななこの手をぐいと引っ張りながら、さらに歩を進めた。
目的のおもちゃ屋に着いたところで、わしはなこの手を放して自由にする。なこは陳列棚に並べられたさまざまなおもちゃに目を奪われ、何組かの親子連れに交じって眺めに行った。付いていってみると、なこは棚に埋め尽くされたぬいぐるみのうち一つに手を伸ばしておった。
「見て! なこと同じ!」
なこがそうはしゃぎながら手に取ったのは、最近上映されているアニメーション映画「猫の倍返し」に出てくる猫のぬいぐるみ。恨めしく睨む、喜劇なのか復讐劇なのかよくわからん映画のキャラクターじゃ。
はしゃぐのは構わんが、なこが猫又じゃと勘繰られるような言動はまずい。わしはなこの口を片手で押さえながらたしなめた。するとなこがしょげてしまったので、わしは「このぬいぐるみも買ってやるから」と慰めて機嫌を取った。
ほかにもおもちゃをいくつか買い物かごに入れ、またなこの手を握って会計に進む。レジには一人の男が先に並んでおった。かなり大きなジグソーパズルを買っておるから、きっと手先が器用なやつなんじゃろう。
「あ! ここにも猫さんだ!」
突然、なこが声を上げてジグソーパズルを指差し始めた。偶然にも、ジグソーパズルに描かれたキャラクターがぬいぐるみの猫と同じじゃったから、なこもつい気になってしまったのじゃろう。
「すみません、お騒がせして」
急いでなこの口を手で塞ぎながら、会計をしていた男にお詫びする。男は寛容に言葉を返した。
「大丈夫ですよ。子供の元気な様子は見ていて癒されますし」
優しい人間でよかったと、わしは胸を撫で下ろした。
「僕も猫が好きなんです。かわいいですよね、この子――」
そう言いながら振り返り、わしと男は顔を合わせる。その瞬間、男の表情は固まり、わしも意外なあまり買い物かごを取り落としてしまった。
白無地のTシャツと黒のテーラードジャケット、オリーブ色のチノパンツに白いスニーカーという、シンプルながら清潔感ある服装。こやつのビジネススーツでない格好を見たのは今回が初めてじゃった。
まさか、このような偶然が起こるとは思わなんだ。その男はほかでもない、わしの部下である稔だったのじゃ。
稔と一緒におもちゃ屋を出ると、わしらは別れることなくフードコートへ足を運んだ。せっかく会ったからと、稔に誘われる形でしばし雑談でもすることにしたのじゃ。
先にアイス屋へ向かい、アイスを三つ購入。アイスを片手に混雑したフードコートを歩き回り、二人分のソファが対になって並んでいる空席をやっとの思いで見つけだす。わしとなこが一緒に座り、稔は向かいの席に座った。
そして、他愛のない雑談が始まる。なこと稔が話に花を咲かせる一方で、わしはどんどん血の気が失せていくのを感じた。
理由はほかでもない、なこの正体を稔に知られてはならんからじゃ。もしなこが猫又じゃとばれたら、わしが魔女であると知るのもあっという間じゃろう。その最悪な事態は避けねばならん。
どうにかして別れようと考えに耽っていたところ、稔が恐る恐るなこに質問し始めた。
「ところでなんだけど……なこちゃんって、よく猫のコスプレをしているんだね。写真を見せてもらったんだけど、猫のことが好きなの?」
なこは訳わかんないと言わんばかりに首を傾げた。
「こすぷれってなあに? なこは元から猫だったんだよ?」
なこの返答を聞き、稔の表情がまたも凍りつく。わしは慌ててなこの首に腕を回して引き寄せ、もう一方の手で口を塞ぎながら耳打ちした。
「なこが猫又じゃというのは、絶対に知られてはならんと言ったじゃろう! 今からでも遅くないからすぐに訂正せい!」
なこがうなずくのを見てから、わしは手を放す。なこは目をきょろきょろさせながらすぐ言い直した。
「なこは生まれたときから人間だったよ!」
わしはもう駄目かもしれんと思い、訝しげに見つめてくる稔から目を逸らし続けた。
先にアイスを平らげたなこが、わしのアイスを物欲しそうにじっと見つめる。唇をぎゅっと噛んで苦しそうに堪えておったから、仕方なく半分ほど残ったそれを譲ってやった。なこはぱあっと晴れやかな顔になり、手にしているスプーンではむはむと口にしていった。
わしはこれまでいろんな食べ物を口にしてきたが、なこにとってはアイスも初めての代物じゃ。一口食べるたびになこはどんどんふやけた顔になり、そのうち顔が溶けてなくなってしまうのではないかと思えた。
ころころ変わるなこの表情を眺めながら、わしはなこが食べ終わるのを待ち続ける。そういえば稔が全然喋らんと思い、稔のほうをちらと見てみると、今度はなこのほうをじっと見つめていた。先ほどの訝しげな顔と違い、稔は驚いた様子で口をあんぐりと開けておった。
何があったと思い、わしもなこに注目してみる。そして、とんでもない物を見て目を剥いた。なこの腰の辺りから、人間ならばありえん細長いものがにゅっと伸びでておったのじゃ。
なこは嘘がつけない。うれしいときは二本の尻尾が大きく揺れ、ばつが悪いときは小さくうねる。驚くようなことがあればぼわっと膨らみ、悲しいことがあれば力なく垂れ下がる。つまり、感情が尻尾の動きに表れやすいのじゃ。
初めてアイスを食べて、なこもおいしさのあまり気が抜けてしまったのじゃろう。稔がすぐ近くで見ておるにもかかわらず、なこの後ろで尻尾がこれ見よがしにうねっておった。こっそり尻尾の付け根を握って気づかせると、なこははっと我に返って尻尾を引っこめ、また腰に巻きつけた。
恐る恐る稔の様子を窺う。稔はどういうことですかと言わんばかりに、またもわしをじっと睨んでおった。なこも事の重大さを理解したようで、わしと同じく蛇に睨まれた蛙のように縮こまっていた。
もう言い逃れはできん。誰かに知られてしまった以上、平穏は諦めるしかあるまい。わしはとうとう観念し、正直に打ち明けることにした。
「なこは確かに、元々野良猫だったんじゃ。公園で会って以来、ずっとわしに引っついてきたから飼うことにした。そして、人間の子供たちと同じように遊ぶのを夢見ておったから、人間に近しい姿に変身させたんじゃ。今のなこは猫又なんじゃよ」
稔は驚きを隠せずにいたが、それでも不機嫌な態度を変えることなく言った。
「嘘みたいな話ですけど、目の前で尻尾を見た今となっては信じますよ。そうなると、仁希さんも普通とは違う人ということになりますよね?」
わしは気圧されながらしぶしぶ答える。
「そうなるのう。わしは魔女なんじゃ。素性を隠し人間として生きながら、人々のささやかな幸せのために魔法を使っておる。なこを猫又の姿に変えたのも、魔法によるものというわけじゃ」
稔は納得した様子で言った。
「なるほど。前に仁希さんがドリンクをくれたときも、本当は特別な薬を作って飲ませてくれたわけですね?」
「いかにもじゃ」
察しが良い稔に感心しながら、わしはうなずいた。
一通り話が終わったところで、稔は鼻でため息をつき、わしとなこの顔を交互に見る。わしとなこは冷や汗をかくばかりじゃ。これでもし稔が何か良からぬことをしでかしたら、ただでさえまずいのにさらに危険な状況になりかねん。
内心で見逃してほしいと願いつつ、わしは稔の言葉を待ち続ける。すると、稔の口から予想外の言葉が出てきた。
「何で教えてくれなかったんですか! 水くさいじゃないですか!」
わしは目を丸くし、なこはぽかんと口を開けた。稔がお構いなしに続ける。
「もし仁希さんやなこちゃんが特別な存在と知ったら、僕が誰彼構わず言いふらしたりするとでも思ったんですか? 僕は仁希さんにたくさんお世話になっているんですから、仁希さんたちを困らせるような真似をするはずがないです! もし黙っていてほしいならそのとおりにしますよ!」
「そ、それは……すまんかった」
確かに、稔のことを人並みの存在じゃと軽視してしまっていたから、わしは素直に頭を下げた。稔は「わかってくれればいいんですよ」と、すぐにわしの謝罪を止めてくれた。
「じゃが稔よ。今となっては言い訳がましいが、何よりも打ち明けられん理由があったんじゃ」
「どういうことです?」
わしの釈明に対し、稔が身を乗りだして尋ねる。なこも気になってこちらを見つめていたので、わしは咳払いを挟んでから話し始めた。
「魔女というのは強大かつ危険な存在だからじゃ。今となっては千に満たぬ数しか生き残っておらんが、わしとは別に、私欲のために残忍な行動に出る魔女も少なくない。中には、ほかの魔女を殺めるために、罪のない人間を巻きこむ外道もおるほどじゃ。魔女と関わるということは、そういう危険が常に付きまとうということなんじゃよ」
なこが真っ青になりながらわしに尋ねる。
「つまり、なこも、すごい危ないってこと?」
わしは不安を和らげようと、なこの頭を撫でながら答えた。
「安心せい、なこ。わしのそばにいる限り、おぬしは悪い連中に指一本触れさせん。じゃが――」
稔に視線を移しながら、わしは深刻な面持ちで言葉を続ける。
「稔、おぬしはわしらとともに暮らしておるわけではない。おぬしがわしと関わった以上、それを知った悪い魔女に牙を剥かれる可能性は否めん。おぬしを巻きこみたくなかったからこそ、わしは正体を打ち明けようとせんかったのじゃ」
稔は不安の色を浮かべたが、それでも腹を括ったような顔をして言った。
「魔女に狙われるのは怖いですけど、それは仁希さんを殺すための行動というわけですよね? なら、いくらでも立ち向かってみせます。これまで仁希さんにたくさん助けてもらった恩返しをさせてください」
わしは躊躇したが、稔の決心を無下にするわけにもいかんと思い直した。こわばっておる稔の顔を見て微笑みながら、わしは言う。
「ならば、背中を預けるとするかのう。おぬしのような優しい人間に巡り合えてよかったわい」
わしの褒め言葉を聞き、稔はよっぽどうれしかったのか、すっかりふやけた顔になってしまった。
「なこも! なこもにけ、助ける!」
自分も褒められたいと思ったのか、なこが向きになってわしに言う。わしは「ありがとうのう」と礼を言いながら、またなこの頭を撫でてやった。
純真な者たちに恵まれたことにありがたみを覚えつつ、わしはなこを連れて席を立つ。今度こそ別れる前に、何か手助けできることはないかと稔に尋ねたところ、わしらが疲れているのもあるだろうからひとまずは大丈夫と稔は答えた。
お辞儀する稔に二人で手を振り、手をつないで帰路に就こうとしたとき。わしは久しい感覚を覚え、ぴたりと立ち止まった。魔女として生きる以上、何よりも気をつけねばならん感覚じゃった。
心配して声をかけてくるなこを無視しながら、わしは視線を動かすこともせず、黙って立ち続ける。今この場に存在する不自然を、わしだけが正確に感じ取った。そして、そのことを不自然の正体に悟られてはならん。
わしは振り返ることなく、先手を打って背後に人差し指を向け、魔法を放った。不自然の正体をこちらに引き寄せ、自然な形で接近することにした。
すぐ近くまで気配が近づいてきたところで、わしはようやく後ろを振り向く。すると、足をつまづかせた女が、体勢を崩してわしのほうへ倒れこんでくるのが見えた。
わしはなこを遠くへ突き放し、今にもぶつかりそうな女の体を抱き留めた。そして、柔和に笑って問いかける。
「無事かのう?」
抱き留めたのは、見るからに今どきの若者らしい格好をした女じゃった。茶色いミディアムのネオウルフカット。肩が開いたピンクのフリルブラウスとデニムのストレートパンツ、そして白のスニーカーを合わせた春らしい服装。爪にはピンクのマニキュアを塗り、耳には花のイヤリングをつけておる。
そんな女から一切目を逸らすことなく、首元に向けた人差し指を一切離すことなく、わしは女の返事を待った。
「あ、ありがとうございます、大丈夫です」
女が顔を引きつらせながら、恐る恐るわしの手から離れていく。無論、その後もわしは女に人差し指を向けたままじゃ。稔が心配して駆け寄ろうとしてきたので、わしはもう一方の人差し指ですぐさま魔法をかけ、無理やり席に座らせた。
「足を挫いておるのではないか? 何ならわしが手を貸してやろう」
気遣いの言葉をかけてやるも、女は当然ながらぶんぶんとかぶりを振る。そして、女は何も言わず逃げるように去っていった。
稔にかけていた魔法を解き、突き放していたなこを手招きして呼ぶ。なこは何が何やらわからない様子でいたが、一方の稔は一連の出来事を目の当たりにし、真相を理解したようじゃ。
「もしかして、たった今現れたんですか? 仁希さんの命を狙う魔女が」
「うむ」
こくりとうなずき、わしは真横にある座席の下側を指差す。稔となこは一緒に注目し、そして恐るべき光景に息を呑んだ。
視線の先には、大きく焼け焦げた跡がかすかな煙の臭いとともに残っていた。無論、先ほどの魔女が放った魔法によるものじゃ。わしが魔法であの魔女を転ばせていなければ、座席でなくわしの後頭部に穴が空いていたことじゃろう。
もう一度、魔女が逃げていったほうを見てみるが、すでに魔女の姿は見当たらない。いったん退却したようじゃが、あの魔女はわしの心臓を喰らうのを諦めておらんじゃろうな。逃げ去る直前、恨めしそうにわしのことを睨んでおったから、おそらくはまた何らかの形で現れるに違いない。本当はすぐにでも報復すべきじゃったが、人前で女が倒れようものなら面倒なことになりかねん。
あの魔女は、わしに真正面からの力比べで勝てんと察したはずじゃ。となると、次に狙われるのはなこか稔のどちらかじゃろう。なこはわしにずっとくっついて暮らしておるから、そうなると稔が狙われると見て間違いない。
こういうことが起こりうるから、本当は稔にわしらの正体を明かしたくなかったんじゃ。しかし、稔はわしに恩返しをさせてほしいと言ってくれた。今となってはわしも稔を頼ろうと思うし、稔を何としてでも守り抜こうと思う。
わしはなこと稔に耳打ちし、あの魔女が再び現れたときの作戦を立てることにした。頃合いを見て稔と別れると、わしはなこと二人で葛西町を散策しながら、魔女が仕かけてくる瞬間を待ち続けた。
夕暮れが近づいてきたころに、わしのスマートフォンに着信が届く。わしが電話に出ると、稔とは違う者がスマートフォンを通して喋り始めた。
「仁希さんで間違いないか?」
その声は、昼に不意打ちを仕かけてきた魔女のもので間違いなかった。あの時のか弱い声と違い、欲望を剥きだしにした何とも下品な声じゃったがのう。
黙っているわしに対し、魔女は話を続ける。
「あんたの知り合いを預かってるぜ。死なせたくねえなら、あたしの指示する場所に来るんだな。もし従わなかったり少しでも変な真似をしたりすりゃあ、すぐにでもこの男の首を掻っ切ってやる」
自分たちのいる場所まで伝えた後、魔女は一方的に電話を切った。場所は、葛西町の商店街アーケードにある衣料品店の路地裏。わしとなこは駆け足でその店へ向かい、空き缶などが放り捨てられた狭い路地裏を進んでいった。
稔と魔女は、路地裏のかなり奥のほうにいた。魔女が醜くせせら笑いながら稔を羽交い絞めにし、鋭利なナイフを首元に突きつけておる。わしがさらに歩み寄ろうとすると、魔女は「近づくな!」と叫び、稔の首にナイフの先端を当てた。
なこは恐怖のあまり竦み上がり、わしは立ち尽くしながら固唾を呑むばかりじゃ。ナイフに伝った血の一滴を舌でべろりと舐めながら、魔女は喋り始める。
「アグラオニケ――月をも操れるほどの魔力を持つと言われた大魔女が、人間ごときのために手も足も出ずにいるとは、落ちぶれたもんだよなあ。あたしの要求はとっくにご存じのはずだ。大人しくあたしに心臓を差しだせば、この男の命は保証してやるよ」
わしは眉をひそめ、歯を食いしばりながら睨みつけた。魔女が稔にナイフを向けている限り、わしには指を立てることも詠唱することも叶わん。
何もできずにいるわしが滑稽と言わんばかりに、魔女は高笑いして言う。
「あんたが恐ろしく強いのは認めてやるよ。だが、今でも律儀に人間を尊んでいるところが、あんたの致命的な弱さだ。すぐあの世に送ってやるよ――あたしの名はメーデイア、あんたの首を討つ真の大魔女だ!」
途端、地面から何本ものつるが突き抜けて伸び、無抵抗なわしの体と口をがんじがらめに縛り上げた。口と手を封じてしまえば、わしら魔女は弱い魔法しか扱うことができなくなる。勝利を確信し、魔女メーデイアは稔に突きつけていたナイフをわしに向けた。
隣にいたなこも、メーデイアを恐れて竦むばかり。わしはとうとう万事休すとなってしまう。
メーデイアも勝負を長引かせるつもりはないらしい。宣言したとおり、すぐに殺さんとナイフを振り上げ、わしに目がけて投げ放った。放たれたナイフが真っすぐ飛び、わしの脳天を貫こうとした瞬間――ナイフは突然、見えない力で地面に勢いよく叩き落とされた。
メーデイアはあからさまに困惑し、何が起こったのかさっぱりわからん様子じゃ。その一方で、わしとなこは驚くことなく安堵の表情を浮かべておる。それらの反応が、メーデイアの混乱をさらに加速させた。
もう隠す必要もないじゃろう。メーデイアがナイフを投げた相手はわしではない。こやつが稔と思いこみ、今まさに羽交い絞めにしている者こそがわしなのじゃ。
余裕がなくなったメーデイアの腕が緩み、無事に動けるようになったところで、わしはメーデイアの横腹に指を突きつけ、口を開く。
「小物めが、まだ気づかんか?」
メーデイアが蒼白になりながら振り向いたが、もう遅い。わしは魔法でメーデイアを地べたに押し倒し、這いつくばった姿のまま動けなくした。メーデイアは唸りながら立ち上がろうとするものの、指一本動かすことすらままならん。こやつは今、象一頭が押しつぶすほどの力で押さえつけられておるのじゃ。
メーデイアの魔力が弱まり、しだいに本物の稔を縛っていたつるが萎れていく。ようやく解放されたところで、稔はなこと一緒にわしのすぐそばまで駆け寄った。わしは魔法で伸ばしていた稔の髪をこれまた魔法で散髪し、ミディアムに切っていたわしの髪も元の長さに戻した。
メーデイアの前に立ち、顔を見下ろす。メーデイアは苦しそうにしておったが、それ以上に、なぜまんまとわしの術中に嵌まったのかがわからずに混乱しておるようじゃ。わしはメーデイアに向かって言った。
「おぬしがまた現れるのに備え、わしと稔が逆の姿に見える遅効性の魔法を事前にかけておいた。わしがいつ魔法をかけたか知りたいか?」
メーデイアがうなずかずに黙考する。そして、ほどなくして合点がいったような顔を浮かべた。どうやら、昼の出来事を思いだしたようじゃ。
何も難しい話ではない。メーデイアを転ばせてわしが抱き留めてやったときに、すでにこうなることを想定して魔法をかけておいただけに過ぎん。あの時点から稔にも協力してもらい、髪を伸ばすなどの変装を施した後、なこと一緒に別行動を取ってもらっていたというわけじゃ。
ようやくすべてのからくりを理解したところで、メーデイアは蒼白な顔のまま、どうにかして逃げだそうともがき始めた。じゃが、わしにこうして捕まった以上、無駄な足掻きじゃ。わしが放してやらん限り、こやつはもう逃げられん。
報復を始める前に、わしはメーデイアを見下ろしたまま言った。
「問おう。わしへの襲撃はおぬし一人で目論んだものか? 仲間の魔女がほかにおったりはせんか?」
メーデイアがせめてもの抵抗とばかりに鼻で笑う。
「知りたいか? どっちだろうなあ。あたしをここで殺したところで、また大事なお友達が危険な目に遭うとも限らないぜ?」
不快に思い、わしは人差し指を振ってさらなる魔法をかけ、メーデイアの右腕を肘から逆方向に捻じ曲げようとした。痛がり喚くメーデイアに対し、わしは淡々とした口調で脅しをかける。
「右の腕が折れたら左の腕。二本とも折れたら今度は足じゃ。それでも口を割らんのなら、最後には脇腹の骨を折ってやろう。終いには内出血が止まらなくなり、おぬしは一日と持たず死ぬ」
メーデイアのみならず、隣で聞いていた稔となこも恐怖で竦んでしまった。ただの脅しじゃとすぐに釈明したかったが、今はメーデイアを尋問するのが先決じゃから諦めるしかないのう。
メーデイアは我慢の限界に達し、観念して白状し始めた。
「一人、一人だ! 狙ったのはあたしだけだよ。ほかに仲間なんていねえから……頼むから殺さないでくれえ!」
ほかに敵がいるものと勘繰っていただけに、わしは肩透かしを食らってため息をついた。手のうちを探るためにあえて人質になったんじゃが、どうやら無駄骨だったようじゃのう。
これ以上問い質すこともなかったから、わしは指を振ってメーデイアを押さえつけるのも、右腕を折ろうとするのも止めた。もちろん、次に何か変な真似をしたらすぐ魔法を放てるよう、メーデイアに人差し指は向けたままじゃ。
しかし、こやつはどうやら何をやっても勝てんと思い知ったらしい。メーデイアは情けない泣き面になりながら、衣服についた土を払うこともせずにどたばたと逃げだした。二度、三度とこけながら走っていくあたり、今までにない恐怖を味わったようじゃのう。
あの様子なら、今度こそわしらの前に現れることもなかろう。一つ安堵の息を吐くと、わしはまだ不安がっている稔となこに向かってにっと笑いながら言った。
「腹でも空いたじゃろう。近くにおいしい洋食屋があるから、そこで飯でも食おうじゃないか」
その後、メーデイアやほかの魔女が現れることもなく、わしらはフレンチを満喫し、そのまま別れて帰路に就いた。家に着いた後も、稔に電話をかけてみたところ無事じゃったし、ひとまずは魔女の危機を免れたと見ていいじゃろう。
当面は魔女の顔を見ずに済むと思っていたが、その予想とは裏腹に、また魔女と出くわすことになる。翌朝、わしが散歩しに行こうと家を出たところ、扉の前であのメーデイアがわしを待ち構えておった。
わしは即座に身構えたが、一方のメーデイアにもう敵意はないらしい。わしが出てくるなり、メーデイアはいきなり跪き、これまた予想外のことを口にした。
「アグラオニケさま! 私、あなたさまの底知れぬお力に感服いたしました! どうかこの私を弟子にしていただけないでしょうか!」
何かの冗談じゃろうと呆れながら、わしは返事することなくメーデイアの横を通りすぎる。すると、メーデイアは意地になってわしの前に回りこみ、人目もはばからずに今度は土下座をし始めた。何度無視してもずっと付きまとわれるもんじゃから、わしはとうとう折れ、話だけでも聞いてやることにした。
メーデイアを連れて近所の公園に寄り、わしがベンチに腰かけたところで、メーデイアは早速話を始める。
「私、かれこれ二千年以上生きてきた中で、百人以上の魔女の心臓を喰らい、力をつけてきました。今ならかの有名なアグラオニケさまにも渡り合えるとうぬぼれていましたが、完膚なきまでに敗れ、身をもって力の差を思い知らされました」
「正直じゃのう。して、なぜわしに弟子入りしようなどと考えたんじゃ?」
「あなたさまを二度も殺そうとして失敗し、私は命運が尽きたと絶望しました。しかし、あなたさまは私の無様な命乞いをも聞き入れてくださいました。その寛容なお心に惹かれたのでございます。あなたさまのそばで修行をすれば、あなたさまと並ぶとまではいかずとも、それに近しい力と心を持てるようになると考えたしだいです」
わしは訝しげにメーデイアをじっと見つめながら言った。
「力をつけたいなら、魔女狩りを続けているだけでどうにかなるじゃろう。無論、そんな愚か者の面倒を見るつもりなんぞないが――」
「もちろん、あなたさまが命じられるならば、この先魔女を狙うような真似はいたしません!」
「わしが喋っている最中じゃろうが。少しは話を聞けい」
「も、申し訳ありません!」
わしはやれやれとため息をついた。メーデイアがまた何か企んでおる可能性を考えたが、こやつの目を見る限り、どうも嘘をついてはいないようじゃ。
こんな魔女のことですら許そうとするあたり、わしは思ったよりも甘っちょろい魔女なのかもしれん。少しばかり悔しくなって後頭部をぽりぽりと掻きながら、わしはメーデイアに命ずる。
「まずは一か月でいいから滝行をせい。瞑想する感覚を己の体に叩きこむんじゃ。それをやり遂げられたら、弟子入りを認めてやらんでもないぞ」
メーデイアは晴れやかな笑顔を浮かべ、深々と頭を下げて礼を言った。まだ誰もいなかったのをいいことに、魔法の箒を出現させて空を飛ぼうとしたので、わしは「魔法に甘んじるな」と叱って徒歩で向かわせた。
それから二か月ほどして、しばらく姿を見せんかったメーデイアがわしの家に戻ってくる。わしの言いつけを忠実に守っていたようで、前に会ったときとは比べものにならんくらいげっそりとしておった。
何だかんだで滝行をちゃんとやり遂げたので、わしはメーデイアの同居を認めることにした。その時に教えてもらったが、メーデイアは魔女の素性を隠す際、明瀬出莉愛(めいせでりあ)と名乗っているらしい。最初に聞いたときは「おかしな名前じゃ」と笑ってしまったが、その後は教えてもらったとおり、メーデイアのことを出莉愛と呼ぶようにした。
出莉愛とも過ごすようになってから二週間後のこと。わしが台所で魔法薬を煮こんでいると、出莉愛が短パンと「倫理」Tシャツを着た格好でやって来た。どうやら、わしが弟子として受け入れてから、ずっとわしに訊きたかったことがあるようじゃ。
「仁希さまは、これまで一度も魔女狩りを行ったことがないと噂に聞きました。もしそれが本当でしたら、いかにしてその膨大な魔力を手に入れられたんでしょうか?」
わしはかぶりを振って答えた。
「特に何もしておらんぞ。毎日りんごでも食べていればいいのではないか?」
適当に思いついた冗談じゃったが、出莉愛はそれを真に受けてか、台所にあるりんごとその日一日中にらめっこをしていた。
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