第二章 夢見て眠る猫
わしの私生活について話をしよう。
わしの家は、東雲(しののめ)という町の住宅街にある。都市部から離れていてビルがほとんどなく、野良猫は多いが治安が良い所じゃ。
駅沿いの道路はイチョウの並木道となっており、四季ごとに色とりどりの景色を見せてくれる。町外れには都市部へ渡る橋が架かった大きな川があり、夜になると月光が水面に揺れる優美な光景が楽しめる。
学校もいくつか点在しており、朝に散歩をしてみると、園児や学生たちが登下校をしておることが多い。そんな子供たちの無邪気な様子を眺めるのが、毎朝の楽しみとなっておる。
住み心地が良く、町の景観も美しく、子供たちも元気に暮らすこの町を、わしはとても気に入っておる。そんな東雲町を気ままに散策するのが、わしの趣味の一つじゃ。駅の近くにおいしいパン屋ができたりと、今でも新たな一面を見せてくれるから、この町は散策していて飽きんのじゃ。
もう一つの趣味は、大っぴらに言えるものではない。それだけ言えばおおよそ察してもらえると思うんじゃが、魔法の研究じゃ。
具体的に話すと、詠唱する呪文を独自に作って魔導書に書き留めたり、実際に試してみたりしておる。わしが求める魔法といえば、服の頑固な汚れを落としたり、食材を長持ちさせたりといったものばかりでのう。そんなもの誰も思いつきやせんから、大抵は自力で発明するしかないんじゃよ。
あと、稔にも与えた魔法薬の開発にも熱中しておる。わし一人が住むにはもったいないほどの広い家が、部屋や廊下の隅々までポーションで埋め尽くされてしまっておるほどじゃ。
ベランダには華やかな花壇ではなく、マンドレイクなどといった魔法薬の材料になりうる植物ばかりが植えられておる。いくつかの小部屋ではトカゲやクモを虫かごに入れて飼育しており、無論これらも魔法薬の材料としている。何とも不気味な家じゃから、魔女以外の者にはちと見られたくないかのう……。
そんなわけで、家中が魔導書やらポーションやらで散らかっておるから、足の踏み場がほとんどない。唯一くつろげるのは、リビングの真ん中に配置したカウチソファのみとなる。会社から帰宅し、入浴や歯磨きまで済ませたら、後はもっぱらバスローブ姿でソファの上にダイブして就寝じゃ。
その後、朝の三時くらいに目を覚まし、魔女の黒いローブに着替えて魔法の研究に明け暮れる。朝日が昇って小鳥がさえずり始めたら研究を中断し、ウォーキングウェアに着替えて朝の散歩に出かける。一時間ほどして家に戻り、軽くシャワーを浴びてスーツに着替え、朝食がてら冷蔵庫にあるりんごを一かじり。化粧などの身支度もぱぱっと済ませたら、いよいよ会社に出勤じゃ。これがわしの日々のルーティンとなる。
今日も深夜に起床し、魔法の研究に明け暮れ、外が明るくなった頃合いに外へ出かけた。空も雲一つない快晴で悪くない。
早朝の住宅街は、ご老体がわしと同じように散歩をしているか、若者がランニングをしている以外に人を見かけることがない。人目を気にせずにいられるというのは、なかなかに気楽なものじゃ。
塀の上であくびをかいている野良猫や、電線に集まって合唱をしているスズメなどを眺めつつ、わしは気の向くままに歩いていく。特に大きな発見がなかったとしても、こののどかな雰囲気を味わえるだけで心が満たされる。
しばらく歩いていると、イチョウの木々に囲まれた大きい公園に辿り着いた。この公園は近所なのもあり、もう何十回も来たことがある。ここにはいろんな遊具が揃っておるから、夕方になると子供たちが集まって遊んでいるのをよく見かけるのう。
じゃが、早朝なのもあり、今は公園に誰もいないようじゃった。ご近所さんたちがラジオ体操をしているわけでもない。公園を独り占めできるのはあまりない機会じゃから、わしは公園に入って羽を伸ばすことにした。
アカシア材の屋外ベンチに腰かけ、背を凭れかけながら一息つく。頭を肩の上に乗せたとき、ふと無人の砂場が目に映った。
周りにも人がいないのを今一度確認した後、右の人差し指を振って魔法を放つ。すると、わしの魔法によって大量の砂が宙に浮き、凝縮して一塊になった。
くるくると指を回し、塊となった砂を空中で動かしながら少しずつ落としていく。左の人差し指も振り、宙に浮く手をいくつか召喚して、積もった砂を整えていく。数分と経たないうちに、砂の山は魔法の手によって、防壁に囲まれた洋風の小さな城へと生まれ変わった。
ただの暇つぶしでしかなかったから、わしはすぐに指をパチンと鳴らし、それらを崩壊させる。暇つぶしに満足したからそろそろ散歩を再開しようとしたとき、ここでふと、何者かのか細い声が聞こえてくることに気づいた。
耳を澄ましてみたところ、どうやら小動物の声らしい。そして、その声はわしの背後から聞こえてきた。
ベンチから立ち上がり、後ろにある茂みに歩み寄ってみる。そして、茂みを掻き分けながら中を覗きこんでみたところ、意外な光景がそこにあり、わしは目を丸くした。
声の主は、地面に横たわる、茶トラの毛色をした小さな野良猫じゃった。そして、首にはほかの猫に噛み千切られた深い傷があり、そこからかなりの血をこぼしておる。か細い声を上げていたのは、猫に噛まれて弱ってしまっていたからじゃろう。その場から動くことはおろか、呼吸すら見るからに苦しそうじゃった。
わしはすぐに人差し指と中指を噛み傷に突きつけ、瀕死の茶トラ猫にそっと語りかける。
「傷は今からわしが治してやる。その間、すまんがじっとしておれよ。治しているときに少しでも動かれると、傷口を抉ることになりかねんのじゃ」
茶トラ猫はぐったりと横たわったまま、わしの言いつけを守って鳴くのも我慢してくれた。
二本の指を傷口に向けたまま、呟くように呪文を唱える。普段使うような魔法と違い、今から使う魔法は少しばかり集中する必要がある。詠唱する呪文も一字一句間違えてはならん。少しでも集中力を切らしたり、呪文を言い間違えたりすれば、最悪この茶トラ猫を死に至らしめてしまいかねん。
ひとまず詠唱まではうまくいき、わしは目を一切瞑ることなく、茶トラ猫の傷を治すことのみに没頭した。指先から温かな光を放ち、時間をかけて着実に傷を癒していく。わしがタイミングを見計らって指を離すと、途切れた魔法の光が、わずかに開いた傷口をファスナーのように塞いだ。
どうにか魔法が成功し、わしは地面に腰を下ろして一息ついた。それと同時に、茶トラ猫が起き上がってあちこちへ歩き回る。先ほどまでの痛みがなくなったことがわかると、茶トラ猫はこちらを向いて感謝を述べるかのようにみゃあみゃあ鳴いた。
「今度は悪い猫に見つからんようにするんじゃぞ」
そう猫に呼びかけると、わしは茶トラ猫から目を離して立ち上がり、ズボンについた砂を払った。公園にある時計台に目を向けると、もうすぐ朝の七時になろうとしておる。わしはすっかりくたびれたのもあり、散歩を止めてまっすぐ帰宅することにした。
出口に向かい、人気が増えてきた道路に出て、我が家を目指して歩きだそうとしたところで、わしはある違和感に気づく。何者かの気配が背後にずっと付きまとっておるのじゃ。何なら、道行く人々がわしの背後をじろじろ見ておるので、誰かがいるのは間違いない。
わしがくるりと振り返ると、視線の先には誰もいない。気のせいかと思った矢先、先ほどのか弱い猫の声がまたも聞こえてきた。まさかと思い、声のする足下に視線を向けると、今しがた助けた茶トラ猫がわしに付いてきておることに気づいた。
「これ、そなたは野良猫じゃろう。そう不用意に懐いてはならん」
そう叱って目を離し、再び歩みだそうとするも、茶トラ猫の構ってほしいと言わんばかりのみゃあみゃあ声が一向に止まらん。また振り返って茶トラ猫を見ると、縋るような目をこちらにずっと向けておった。
猫を飼う気など更々なかったが、こうして巡り合えたのも何かの縁なのかもしれん。観念してため息をつくと、わしはしゃがんで茶トラ猫を脇の下から持ち上げた。すぐに立ち上がり、茶トラ猫と目を合わせながらわしは言う。
「仕方のないやつじゃ。使い魔にするわけじゃないが、魔女が猫と暮らす風習は昔からあったものじゃ。おぬしが望むなら、わしもおぬしを飼ってやるとしよう」
わしの言葉を聞き、茶トラ猫は無邪気な子供のように喜色満面になって、またうみゃあと鳴いた。まったく、かわいいやつじゃのう。
茶トラ猫を抱きかかえながら、わしは出勤に間に合うよう帰路に就く。道すがら、「なこ」という名前がふと浮かび、それ以降茶トラ猫をなこと呼ぶことにした。
なこは好奇心旺盛のようじゃ。家に帰り着くと、なこは廊下などに並べられた魔導書やポーションを見ては、これは何だろうと言わんばかりに目を輝かせていた。
出勤の準備をしようと、なこをいったんリビングのカウチソファに下ろす。そのまま目を離してシャワールームに向かおうとしたき、ガシャンと不吉な音が響き、わしは青ざめながら恐る恐る振り向いた。
そしたら案の定じゃ。なこがいつの間にか近くの棚の上に移動し、そこに置いていたポーションの一本を床に落としていた。床にはガラスの破片やら魔法薬やらが散乱してしまっておる。
わしは慌てて指を振り、魔法で布袋を作りだして、散らばった破片やらを吸引して片づけた。じゃが、一難去ってまた一難。なこは面白がってみゃあみゃあ鳴きながら、横に並んであるポーションを次々になぎ倒していった。
わしの掃除が追いつかず、床にはポーションの亡骸がどんどん増えていく。中には一か月かけて作り上げた魔法薬もあったというのに。か、かわいいやつじゃのう……。
わしは掃除をいったん止め、先になこの住まいを用意することにした。なこを抱きかかえ、二階のちょうど空いていた小部屋に連れていく。中が少しばかり埃かぶっていたので、わしは奥にある小窓を開け、魔法で風を操って塵をかき集め、窓から外へ放った。
ひとまず避難させたはいいが、寝袋や爪とぎなど、なこが不自由なく過ごすためのものを何一つ用意しておらん。寝床すらないのはさすがになこがかわいそうじゃ。
窓を閉め、なこをいったん小部屋に置いてリビングに引き返す。次に、カウチソファにある毛布を腕に抱え、台所の冷蔵庫にあるりんご半切れを小皿に乗せて手に持ち、わしは足早に小部屋へ戻っていった。
布団をくしゃくしゃに丸めてなこがくつろげるようにした後、りんごを魔法で細切れにし、小皿に盛って床に置く。すると、なこははしゃいだのもあってかお腹を空かせていたようで、りんごの小皿へまっしぐらにやって来た。咀嚼をあまりせんまま次々にりんごの欠片に食らいつき、なこはあっという間にりんご半切れを平らげてしまう。
わしが感心したのもつかの間、なこは大きなあくびをかいて布団にうずくまり、すやすやと寝息を立て始めた。まったく、ちっこいくせに嵐のような猫じゃ。ふうと一息つき、わしは今度こそシャワーを浴びに向かった。
シャワーも含めて一通り身支度を済ませ、台所でりんごをかじって小腹を満たしてから、なこがいる小部屋へ向かう。そっと扉を開けて覗きこむと、なこはまだ布団に埋もれたまま眠っておるようじゃった。ひとまずは大丈夫そうかのう。
じゃが、部屋にはまだ何もないから、今のままではなこがまともに生活できんままじゃ。なこが不自由なく過ごせる環境をすぐにでも用意してやらねばならん。
頭が固いかもしれんが、魔法で必要なものを揃えるという選択肢はなしじゃ。魔女の素性を隠すために人間として生きると決めた以上、人間と同じように金を払って買い集めんと、わしの信条に反する。そうなると、稔たちには悪いが、今日ばかしは午後休を取らざるをえんかのう。
一時間後。普段より少しばかり出社が遅れたが、始業までには難なく間に合った。
朝礼まで終わったところで、わしはすぐさま課長の席に赴き、事情を説明して午後休を申しでる。猫を飼うことになったなどという理由は通らんかもしれんと不安に思っていたが、課長はすんなりとわしの午後休を許可してくれた。顔色を窺うと何やら怯えておるようじゃったから、どうやら前の件が灸を据える形になったようじゃ。
稔にも事情を説明すると、稔は興味津々になって「なこちゃんを一目見てみたいです」と言いだした。昼休みによく犬や猫の動画を見ておるくらいじゃし、よっぽど動物のことが好きらしい。わしは快く「次来たときに写真を見せてやろう」と約束した。
今のうちにできる業務は手早く片づけ、残作業については課長に頭を下げて引き継いでもらう。無事に昼休憩を迎えると、わしは速やかに身支度をし、またも足早にオフィスを後にした。
それから、わしはなこを長く待たせまいと自らを奮い立たせながら、迅速に行動した。葛西町のアーケード商店街にあるホームセンターへ向かい、手と足を止めずに猫グッズを買い揃えていく。ぱんぱんに膨らんだビニール袋をサンタクロースのように担ぎ、矢のように駅に駆けこんで電車に乗車。東雲駅で誰よりも早く降り、また全速力で家へ走っていった。
帰宅するなり、玄関にハイヒールを脱ぎ捨て、ビジネスバッグをその辺に捨て置き、勢いをそのままに二階の小部屋へ向かう。一応そっと扉を開けると、なこはすでに起きており、大事なく布団の上でくつろいでおった。ほっと胸を撫で下ろしていると、なこが「お帰りなさい」と言わんばかりに甲高い声で鳴き、駆け寄ってわしの足にくっつき始めた。
部屋を見渡してみる限り、壁を爪で引っ掻いている様子も、うんちをしている様子もない。どうにか間に合ったようで、わしは今一度安堵する。猫を飼うのは久方ぶりじゃったが、やはり飼ってみると忙しなくなるもんじゃ。
床の上に腰を下ろし、ビニール袋から猫グッズの数々を取りだしていく。少ししてちらと横目に見ると、いつの間にかなこがわしのもとからいなくなっていることに気づいた。
辺りを捜してみたところ、なこはそこまで遠くに離れておらん様子。奥にある窓の額縁に座り、窓に引っつきながらみゃあみゃあとせわしく鳴いておった。
立ち上がってなこのほうへ近づいてみると、窓の外から子供たちのはしゃぎ声が聞こえてきた。なこはどうやらその声が気になるらしい。
なこを腕に抱え、窓を開けて一緒に外を見ると、三人くらいの子供たちが道路で追いかけっこをしておった。それらに目が釘付けになりながら、どこか羨ましそうにするなこ。もしやと、わしは一つの可能性に気づいた。
窓を閉め、なこを抱えて再び床の上に腰を下ろす。なこを脇から持ち上げて向かい合わせ、わしはなこの目を見つめながら尋ねた。
「おぬし、ひょっとすると人間になりたいと思っておるのではないか? 先ほどの子たちのように、人間たちがやる遊びに憧れておるのじゃろう?」
なこがわしの言葉を理解したとは思えん。それでも、わしなら気持ちを汲み取ってくれると感じ取ったらしい。なこは朝のときみたく、縋るような目を向けながらみゃあと鳴いた。
なこを膝の上に置き、しばらく黙考した末、わしはある決心をして言った。
「なこよ、わしは不思議な力を扱える魔女じゃ。おぬしの夢を叶えてやることもできなくはないかもしれん」
うみゃあみゃあと鳴き続けるなこに対し、わしは深刻な面持ちで言葉を続ける。
「じゃが、何かを得るには、相応の代価が必要となる。望むものによっては、計り知れんほどの犠牲を払うことにもなりかねんことを、しかと肝に銘じておくんじゃ」
なこは鳴くのを止め、きょとんとしながらわしの目を見つめていた。すぐに理解できずとも、いつかわしの言いつけを思いだすときが来ることじゃろう。魔女と関わるというのはそういうものじゃ。
「とはいえじゃ」
堅苦しい説教をそろそろ止め、わしはにこりと微笑みながらなこに言った。
「おぬしを人間と同じ見た目にするくらいなら、それほど難しいことではない。今から準備をするから、そこで寝転がりながらでも待っておれ」
なこのか弱い返事を聞くと、わしはくしゃくしゃになった毛布の上になこを置き、小部屋を出てリビングに降りていった。そこで拾い集めたのは、魔導書、油性ペン、スケッチブック、そして冷蔵庫の奥にしまってあった金のりんごじゃ。
金のりんごは、人間や動物たちが普段の暮らしで目にすることはまずない。普通の赤いりんごに魔女が長い年月をかけて魔力を注ぎこむことで、膨大な魔力を帯びて眩い光沢を放つようになるんじゃ。わしの場合、毎日三十分りんごに魔力を注ぎこみ、百年ほどかけて金のりんごを生みだすことができる。
そして、このりんごを口にすることで、魔力を万や億の単位で倍増させることができる。これは、すべての魔女ができることではない。並大抵の者じゃと、魔力を注ぎこんだところで先にりんごが腐ってしまうものじゃ。
さて、そんな金のりんごじゃが、なこを猫から人間に近づけるとなると、どうしても力を借りねばならん。わしは変身の魔法が得意というわけではないから、時間をかけて丹念に魔法をかけねばならんのじゃ。その途中で魔力が枯渇しようものなら、なこは醜いキメラにでもなってしまいかねん。
必要なもの一式を抱えて小部屋に戻ると、わしはなこに見守られながら早速準備を始めた。スケッチブックを一枚千切り、魔導書を参考にしながら、複雑な魔法陣を油性ペンで緻密に描いていく。二十分ほどかけ、寸分の狂いもなく完成すると、わしはなこを手招きして呼び、膝の上にくつろがせた。
「なこよ。おぬしの願いを叶えるうえで、おぬしは果てしなく長い夢を見ることになる。時に悪夢に苛まれることもあるかもしれんが、わしが助けだしてやるから安心せい。夢から覚めたときには、おぬしは望むままに生きれるようになっておるじゃろう」
そう言って、なこの目を手で覆い隠し、そっと魔法をかける。わしが手を離すと、なこは力が抜けてわしの膝から転がり落ち、ぐっすりと眠りについてしまった。
先に窓のカーテンを閉めてから、なこを優しく両手で抱え、魔法陣が描かれた紙の上に置く。その後、床に置いていた金のりんごを手に取り、一口かじった。喉を通っていったりんごの光が血肉を潤して心臓に集約する一方で、役目を終えた金のりんごは瞬く間に光を失って萎びた。
これから、わしにとっては長い闘いになることじゃろう。なこの傷を治したときよりもはるかに複雑で繊細な魔法じゃ。しくじってなこを悲惨な目に遭わせるわけにはいかん。
最後の準備が終わり、深呼吸をして息を整えると、わしは右手を広げてなこに向け、おもむろに詠唱を始めた。
変身の魔法は、数ある中でも特に緻密な技術が求められる魔法の一つじゃ。たとえるなら、一列に並んだ五円玉に一度も倒すことなく糸を通していくようなものじゃ。長くかかる詠唱を完遂するまで、一瞬たりとも集中力を切らさんようにせねばならん。
いっぱしの魔女になるうえで、何よりも重要になってくるのは己の心じゃ。かく言うわしも、高度な魔法を使いこなせるよう、一年ほど山にこもって滝行に明け暮れたことがある。どれだけ体が痛もうと、腹が空こうと、周りで物音がしようと、魔法を成功させるというたった一つの意志のみに心を集中させるんじゃ。
ほかにもちょっとしたこつがある。魔法が成功するまであとどれくらいかかるだろうなどと、ゴールを見ようとしてはならん。目の前のことに集中し、一歩ずつ着実に進むことを心がけるのじゃ。千里の道も一歩からと言うじゃろう?
変身の魔法を成功させたことは前にも何度かあるものの、変身させる対象がその都度異なる以上、常に初心のつもりで臨まねばならん。体形、血肉、細胞、そして分子に至るまでのすべてを別の生物に変えていく。わしの技量ではなこを人間そのものに変えるのは難しいが、人間として生きられるように作り変えるのなら不可能ではない。
魔法の詠唱は日が沈んでもなお続いた。果てしなく長い詠唱の末、手応えを感じて魔法を止めると、外がすっかり暗くなっていることに気づいた。
立ち上がって背骨を鳴らし、カーテンを開けて窓の外を眺める。外で追いかけっこをしておった子供たちはとうにいなくなり、月影と窓明かりが仄かに照るばかりじゃった。
カーテンを閉めて振り向き、まだ深い眠りについておるなこを見下ろす。なこではあるが、茶トラ猫としてのなこはもういない。背中まで伸びた茶髪に、華奢な体つきをした少女が、生まれたままの姿で魔法陣の紙を押しつぶすように横たわっておった。
完全な人の姿というわけではなく、頭には猫耳が、そして腰には二本の長い尻尾が生えている。つまり、なこは猫又として生まれ変わったのじゃ。
なこのそばで腰を下ろし、しばらく見守っていると、少ししてなこが長い眠りから覚め、目をぱちくりと開けた。なこは言葉の発しかたがまだわからん。体の動かしかたもまだ知らん。それでも、すっかり変わり果てた姿に驚愕し、あーあーと声を上げながら、隅々まで体を見回したり触ったりし始めた。
わしがなこを呼ぶと、なこはようやくわしに気づき、茶トラ猫だったときと同じように屈託のない笑顔で飛びついてきた。今のなこは猫ではなく猫又の姿じゃから、いきなり飛びつかれると吹き飛ばされてしまう。いらなくなった猫グッズの山をなぎ倒しながら壁にぶつかり、わしは痛みで背中をさすった。
一方で、なこのほうは平気な様子で、わしにひっつくのに夢中になっておった。まだ体を洗っておらんから、頭の臭いがつんと鼻につく。なこが体の扱いに慣れるまで、しばらくは付きっきりで世話をしてやらねばならんようじゃ。幸い、明後日までは土日で仕事が休みじゃから、体を洗ったり服を着たりといった知識を教える時間はある。
じゃが、何よりもまず、なこにせねばならんことがある。わしはなこを振り向かせて膝の上に座らせ、同じ方向を見ながらなこに話しかけた。
「今のおぬしの姿じゃよ、なこ」
わしは指を鳴らし、魔法で目の前に姿見を出現させた。姿見に、すっかり人に近しい姿となったなこの姿が映る。
それを見て、なこは夢が叶ったのだとようやく理解してくれたようじゃ。そして、わしが叶えてくれたとも理解してくれたらしい。また満面の笑みを浮かべて振り向くと、なこは弾むような調子で声を上げながら、またわしに抱きついて甘えた。
相変わらず難しい魔法じゃった。詠唱中に付きまとった不安や恐怖を思い返すと、今でも思わず身震いしてしまうほどじゃ。
じゃが、こうして心から喜んでもらえるのなら、わしの気苦労なんぞ些末なものでしかない。みなの笑顔を生みだすためにも、誰がために魔法を使う信条をこれからも貫き続けるとしよう。
それから、出勤日までの二日間があっという間に過ぎていった。
なこは最初こそ、猫だったときの生活が抜けずに四つ這いで移動したりしておったが、今ではすっかり人としての生活にも慣れてきた。二本足で歩き、シャワーで体を洗い、着替え、歯を磨き、わしと一緒に寝て、腹を空かせたら自分でりんごを食べるようにもなっておる。
ほかにも、外で子供たちに交じって遊べるようにもなった。正体がばれんよう、キャップ帽を被るのと、尻尾を腰に巻きつけて服から見えんようにするのは欠かせん。わしが同伴したとき、なこは尻尾に気を取られて動きがぎこちなくなっておったが、それでも念願が叶ってうれしそうにしておった。
会話も最低限できるようになった。もちろん、わしらみたいに流暢な日本語はまだ喋れんが、返事やあいさつ、そして名前を呼ぶくらいなら楽々とこなせておる。
わしが何度か注意したことを守れるくらいには聞き分けも良い。物の名前も少しずつ覚えていっておる。お利口さんと褒めてやりたいところじゃが、わしのことを「にけ」と呼び捨てにするのはちと気に食わんかのう。
そして、猫又としてのなこと暮らし始めてから、初めての出勤日が訪れる。
なこはというと、なぜか筆文字で「概念」と書かれた白のTシャツを気に入り、それと無地の短パン以外の服を着なくなってしまっていた。カウチソファの上で寝転がっておったが、わしがそろそろ出かけることに気づくと、一緒に玄関まで付いてきた。
「行ってらっしゃい、にけ!」
「行ってきます、なこ」
あいさつを交わし、なこに両手をぶんぶんと振って見送られながら、わしは家を後にする。なこは教育のかいあって、留守番もちゃんとできるようになったから、もうわしが気にする必要はあまりないじゃろう。
気が抜けていたわしじゃったが、家を出て少しばかり歩いたところで、あることを思いだして息を呑んだ。なこの写真を見せるという、稔と交わしていた約束のことをすっかり忘れてしまっていたのじゃ。
急いで家に戻り、なこのもとへ駆け寄る。なこはどうしたんだろうと言わんばかりにきょとんとしておったが、一方のわしは焦りを募らせるばかりじゃった。もうすでに猫ではなくなったなこのことを、どう稔に紹介すればいいというんじゃ。
どうにかごまかせる手段はないかあれこれ考えてみたが、間近に迫る電車の時間までに答えを出せそうにない。わしは背に腹は代えられぬ思いで、なこにスマートフォンのカメラを向けた。
そして、始業前のオフィス。稔になこの写真を見せると、稔は衝撃のあまり言葉を失ってしまった。
無理もない。今やなこの容姿は猫でなく、あどけない小顔と華奢な体をした少女。それに猫耳と尻尾を生やしておるもんじゃから、稔は猫又ではなくコスプレの線を疑いだした。
「だ、大丈夫ですよ、仁希さん。ちゃんとお互いに合意があるなら、事案になんかなりませんからね。二人が楽しんでいるなら、その、い、良いんじゃないかなあって、思うんです」
わしは近くのデスクから雑誌を拝借して丸め、目を泳がせながら苦々しく擁護する稔の頭を思いきり打っ叩いた。わしにそんな趣味はない。
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