本を読む先輩

 いつもの店――『亜細亜食堂』に入ると、スパイスの独特な香りが漂っていた。ここはインドカレーの店だ。


 店内を見渡していると、一番奥の席でマグカップを傍らに文庫本を読んでいる透子さんが目に入った。


 彼女はソファに姿勢よく座り、その視線はブックカバーが付けられた文庫本に注がれている。本を読んでいるだけなのに、彼女はとても美しかった。店内は賑やかな音楽が流れているのに、透子さんの周りだけは静かな時が流れているようだった。


「やっほ〜。透子~」


「ああ、京香か……あれ? 」


 透子さんは読書に集中していたのか、少しぼんやりした表情を京香さんに向けた後、僕の方を見て不思議そうな顔をした。


「たまたま校舎で会ったから連れてきちゃった」


「そっか、同じ学科だもんね」


「お二人の邪魔をするようで申し訳ないです」


 少し気まずくなり、透子さんに謝った。


「そんなことないよ。むしろ君がいてくれて私も嬉しいな」


 微笑みながらそういうと、透子さんは僕の顔を少し上目遣いに覗き込んだ。


 そんなさりげない仕草に僕の胸は高鳴り、頬はたちまち熱くなった。


「二人も早く座りなよ。私お腹すいちゃった」


 そう言うと彼女は文庫本をトートバッグにしまい、机に置いてあるランチメニューに目を落とした。


 頬の熱はまだ冷めてなかったが、僕は促されるままに透子さんの向かいの席に座った。京香さんは透子さんの隣に座りながら、さも面白そうに僕の方を見ていた。


 そこまで広くない店内には机が4脚並べられており、僕ら以外の客は大学生のカップルらしき男女と近所に住んでいるのであろう中年の女性の二組しかいなかった。


 インドカレーのランチセットをそれぞれ頼み終わると、京香さんは透子さんの前に置かれたマグカップに関心を持った。


「透子、何飲んでるの?」


「これ?チャイだよ」


「ちょっと飲ませて〜」


 透子さんの返事を待たずに京香さんはマグカップをひょいと取ると中身を飲んでしまった。


「……思ってたより冷たい」


「だいぶ前に頼んだからね。すっかり冷めちゃってるよ」


 京香さんは飲みかけのカップを透子さんに返した。


「何時頃からこの店にいたんですか?」


「うーん、一限終わってしばらくしてから来たから十一時ぐらいかな」


「結構待たせてしまったんですね、もっと急いでくるべきでした」


「そんなに気にしなくて大丈夫だよ、本読んでたから」


「そうそう、透子は待ち時間にいつも本を読んでるから、いくらでも待たせて平気だよ」


「……京香はもっと気にして」


 透子さんは呆れたような面持ちで京香さんを見た。


 透子さんと京香さんの二人組は、僕から見ると少し珍しい組み合わせだと思う。


 時々変なことはするが、基本的にはしっかりしている透子さんと、普段からフラフラと捉えどころのないことばかりする京香さんは、一見すると共通項が見当たらない。


 しかし、二人は「演劇研究会」というサークルに入っており、そこの新歓でたまたま隣同士になった時に同じ推理作家が好きということで意気投合したようだ。二人は学科の垣根を越え、三年生になった今でもこうして交流を続けている。人の関係性というのは、傍から見ていてもその本質には辿り着くことができないものなのだろう。


「こないだ一緒に新宿で買い物した日も京香、遅刻してきたよね」


「あ〜、あの日遅れたのはね、『身内に不幸がありまして』の犯人の動機並みに深い事情があったんだよ」


「そんな事情があったなんて……とはならないよ。あの動機はあまりにも共感できなさすぎる」


 僕はその小説を知らなかったが、透子さんは読んだことがあるらしい。


 京香さんは「まあまあ、話を聞いてよ」と続けた。


「前日に学科の友達の家で宅飲みしててさ、帰るのダルいから皆でここ泊まるか、ってなったの。でもわたし、友達のいる所で眠るのが怖かったわけ」


「どうしてですか」


「そりゃあ、寝ている間に故郷の夢を見ながら家中をフラフラ歩いちゃうかもしれないからね」


「完全にクララの家で過ごしてた時のハイジじゃないですか」


 僕は京香さんの話に耳を傾けていたが、透子さんは白けた顔で何も言わず、まともに取り合ってはいないようだった。


「で、皆が寝てもわたしは起きてるか〜って思って、頑張って寝ずに朝を迎えたら、もうフラッフラでさ。家に帰ったらベッドにばったり倒れて寝ちゃったの。それで起きたら、透子との待ち合わせ時間をとっくに過ぎてたってわけ」


「……意訳すると、前日に宅飲みしてたら皆でオールしようって流れになって、それで疲れたから家に帰って一度寝たら、私との待ち合わせ時間を寝過ごしたってことでしょ」


「バレたか」


「当たり前じゃん。大体、私の家に泊まる時はいつも私のベッドを勝手に使ってさっさと寝てるし。『身内に不幸がありまして』の犯人と京香が同じ思考を持ってるとは思えないよ」


「あはは」


「笑って済まそうとするな」


 透子さんは京香さんの肩を小突いた。


 そうこうしていると、注文していたインドカレーが机に揃った。


「やっぱここのカレー、美味しいよね〜」


 小さくちぎったナンにバターチキンカレーをつけて食べた京香さんは満面の笑みを浮かべる。


「たしかに、美味しいよね。丁度いい辛さで」


 透子さんは溶岩のように真っ赤なルーにナンを浸している。彼女の頼んだカレーはこの店で一番辛くなっているはずなのだが、涼しげな笑顔で食べている。


「相変わらず透子は辛い物好きだよねぇ……」


「そうかな?ここのカレーはそこまでじゃないと思うけど。食べる?」


「う〜ん、じゃあちょっと……」


 京香さんは自分のナンを透子さんのカレーにつけて恐る恐る食べた。


「っうわ!!なにこれ辛っ!!」


 ナンを咀嚼するやいなやラッシーに急いで口をつけた。


「これが平気なの?やっぱ透子の味蕾は死んでるんだよ!」


 涙目になった京香さんは理解のできない不思議な生き物を見るような目で透子さんを見た。


「いや、京香は辛いのが苦手だからそう思うんだよ」


 透子さんは自分のスプーンで真っ赤なルーを掬うと、


「はい、君も食べてみて。そんな辛くないから」


と僕の眼前に向けてきた。


「えっ、あ、その……」


「ん?ほら、味見してみてよ。京香が大げさだってことがわかるからさ」


 至極当然なことをしているかのように、透子さんは少し口角を上げながらこちらに眼差しを向ける。


 僕は気恥ずかしさで頭の中がぐちゃぐちゃになった。


 だが、このまま何もしないのもそれはそれで透子さんを意識しているのが丸わかりになってしまいそうだったので、僕は意を決して透子さんの差し出すスプーンに口をつけた。


 透子さんのカレーは見た目通りの味だった。口に入れた瞬間は香辛料独特のエスニックな香りが広がったが、次第に口の中の粘膜を焼き焦がさんといわんばかりの熱がじわじわと侵食し、最後は痛みとしか感じられない痺れるような辛さが口いっぱいに広がった。


「か、辛すぎます……」


 僕は額から吹き出した汗をハンカチで拭いながら、正直な感想を透子さんに伝えた。


「ほらぁ!やっぱ辛いじゃん!」


 京香さんは我が意を得たりとばかりに透子さんを指さした。


「う〜ん、そうなのかな」


 透子さんは納得のいかないような顔で自分の食べているカレーを見つめた。


「というかさ、辛い物をわざわざ食べる人の心理がわからないわ。辛さと痛覚って同じじゃん。で、痛みって快か不快かで言ったら不快じゃん。それなのに、なんで痛い思いしながらご飯を食べたいって思うのか、わたしには理解できないんだよね」


「いや、まず前提条件が間違ってるよ。辛さと痛覚は全てが同じじゃないし、辛さは不快じゃないよ。確かに痛みはあるんだけど、その奥になんというか……気持ち良さがあるんだよね」


「え、透子ってマゾ?」


「えっと、それは多分違うと思うけど……」


「はっきり否定はしないんだ」


 彼女たちのやり取りを見ているだけでも僕は楽しかった。


「それに、辛い物を食べている間って思考も感覚も口の中の辛さに集中して、余計なことを考えずに済むから好きなんだよね」


 差し棒のようにスプーンを上に向けて持ちながら、透子さんはそんなことを言い出した。


「出た、透子の謎の哲学」


「そこまで謎かな?君ならわかってくれるよね」


「一定以上の刺激があると、それ以外に意識が向かなくなるってことなら、何となくわかる気がしますが……」


 透子さん独特の考えを全て理解できているとは思えないので、僕は言葉を濁した。


「そうそう、そんな感じ」


 そんな僕の返答にも、透子さんはにっこりと笑い、親指を立てた。


「他にもさ、凄く寒いと身体中の神経や細胞全部が『寒い』のをどうにかしようと頑張るから、嫌なことを考える余裕がなくなると思うんだ。だから……」


 そういった彼女はスプーンを金属製の皿の上にことり、と置いた。


「だから私は、冬が好き」

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