だから僕は先輩を忘れられない
ないちち
バイト先の先輩
十九歳の頃、僕はある女性に惹かれていた。
彼女は透子さんといって、僕の二つ上の二十一歳だ。同じ職場でアルバイトをしていた。
アルバイト先は個人経営のスペイン料理屋で、僕はキッチンで皿洗いや調理の補助をし、彼女はホールのウエイトレスしていた。
アルバイトは店の近くにある音大の学生が殆どで、店の最寄りから三駅ほど離れたとある私大の理系キャンパスに通う学生は僕と透子さんだけだった。学科は違ったが、僕は彼女と同じ学部に所属していた。
それが理由だから、透子さんは積極的に僕に接してくれたのだと思う。
「音大生の子って何だかアクが強くて折りが合わないんだよね」
そう彼女がこぼしたのは、遅番のシフトが終わった後に駅まで歩く道すがらだった。
「音楽で食べていこうとするなら、やっぱりあのくらい個性が強くないといけないのかな」
「透子さんも負けてないと思いますよ」
「何それ、私のことどんな風に思ってるの」
彼女と僕は同じ時間帯に働くことが多く、帰り道も同じ方向だったのでバイト終わりにはこうして一緒に帰っていた。
十月の夜はまだそれほど寒くはなく、キッチンで働いて温まった体には吹く風が心地よかった。
僕は透子さんに気付かれぬよう、そっと彼女の方を見る。
給仕中は邪魔にならないよう、後ろで一つに結ばれている黒く長い髪は今は解かれており、秋風にサラサラとなびいていた。
透子さんの髪は彼女の持つ美点の一つだ。真っ直ぐに伸びた艶のある黒髪は僕の心を強く惹きつける。
「ねえ、君は私のこと、どう思ってるの」
茶色のトレンチコートのポケットに両手を入れ、整った顔に少し笑みを浮かべながら透子さんはこちらを向く。
目が合った。頬が熱くなったのを彼女に悟られないよう、慌てて前に向き直る。
「どうって言われましても」
少し声が裏返ってしまった。
「音大生たちと比べても個性が負けてないって言ってたじゃん。どうしてそう思ったのか、気になる」
「それは、こちらの理解の範疇を超えることをよくするから、ですかね」
「私、そんな変なことしてるかな」
「少し前だと、ギターケースを持ってきてたのでギターでも始めたのかと思ったら、ケースの中身は塩ビ管だった、なんてことがありました。透子さんはこれは水道管ではなくてデジュ……何とかっていう管楽器だと言い張ってましたが」
「あれはディジュリドゥだよ」
「ディジュリドゥ?」
「そう、ディジュリドゥ」
それがとても大事なことであるかのように、彼女はゆっくりと言った。
透子さんは時々よくわからないことをする。ディジュリドゥを突然練習し始めるのもそうだし、バイト帰りに『缶蹴りやろう』と言い出して深夜の誰もいない道で飲み終わったビールの缶を蹴り始めたのもそうだ。
あえて奇を衒った行為をすることでアイデンティティを形成しようとする人も世の中には少なくないと思うが、透子さんはそれとは違うように僕は思う。
恐らく透子さんは、自身のやりたい事にとことん忠実で、すぐ行動に移すだけのエネルギーを持っており、そのやりたい事が僕の理解の範疇から逸脱することばかりなのだ。
そんな透子さんの立ち振舞いは他のアルバイトの学生とは一線を画しているというか、少しばかり超然としているような雰囲気があり、僕はそこも彼女の魅力だと思っている。
「私のディジュリドゥ、また聞きたくなった?」
「いや、もういいです。僕にはよくわかりませんでしたし」
一度だけ、興味本位で透子さんの吹くディジュリドゥの音色を聞いたことがある。
夏の蒸し暑い夜だった。その時も今日みたいに遅番のシフト終わりで、帰り道とは違う方向にある近くの音大の横にある遊歩道のような場所に行った。
そこのベンチに座った透子さんはギターケースから1mほどある長い塩ビ管と15cmくらいの短い塩ビ管二本を取り出し、インクリーザーで手際よく繋げた。
「じゃーん!これがディジュリドゥ」
どう見ても灰色の水道管にしか見えないそれを、透子さんは僕に自慢するように見せつけた。
それから彼女は吹き口らしいソケットに薄い唇を当て、息を吹き込み始めた。
塩ビ管で作られたディジュリドゥからは、モーターの低い駆動音のような、巨大なカエルの唸り声のような、これを「音楽」と形容してもよいのか分からない音がうねり、歪みながら僕の耳に伝わってきた。
何だか聞いていて不安になってくる音だった。だから僕はディジュリドゥの音に集中するのはやめ、ディジュリドゥを吹く透子さんを見ることにした。
右手でディジュリドゥを持ち、手持ち無沙汰な左手は夜の闇をかき混ぜるよう宙を彷徨っている。演奏するのに夢中になっているのか、長い睫毛で縁取られた目は閉じられていて、僕が透子さんの顔に釘付けになっているのにも気がついていないようだった。
電灯に照らされた白い頬は少し膨れ、思わず触ってみたくなるような柔らかさがあった。
それから音が尻すぼみになって消え、辺りは夜の静寂が包んだ。
透子さんはディジュリドゥから唇を離し、ジーンズの足に挟んで、
「で、どうだった?」
とだけ言った。
返答に困った僕もまた、「不思議な音でした」とだけ言った。
「ま、不思議っちゃ不思議か」
ディジュリドゥを分解しながら透子さんはつぶやいた。
「ディジュリドゥはね、アボリジニが精霊と交信する儀式の時に使われてた楽器なんだって」
そう言う透子さんは二本目の塩ビ管を長い管から離すのに手こずっていた。
「僕が外しましょうか」
「いや、自分でやるよ」
彼女は白い手で僕を制し、再びディジュリドゥの分解に取り掛かる。
「名前の由来が面白くてさ、オーストラリアに来た白人がその音を聞いて『ディジュリドゥって聞こえた』からディジュリドゥってついたらしい」
「随分適当なネーミングですね。でもこの音をディジュリドゥって形容した人もすごいな」
透子さんはようやく二本目の管を外した。ディジュリドゥはバラバラになり、ただの三本の塩ビ管となった。
彼女はそれを黒いギターケースに丁寧に片付ける。
「それとね、ディジュリドゥって女性が吹いちゃいけないんだってさ」
「何でですか」
僕は至極真っ当な疑問を彼女にぶつけた。
透子さんは目を伏せ、一瞬だけ寂しげな表情をしたような気がした。
「女性が吹くと妊娠できなくなるから、らしい」
先程より少しだけ物憂げな様子で、透子さんは答えた。
***
「今でもディジュリドゥ、吹いてるんですか?」
「吹いてるよ。循環呼吸が少しできるようになったから、そんなに長くなければ音が途切れることなく演奏できるようになった」
少しうれしそうに語る彼女の表情は明るく、前にディジュリドゥを聞かせてくれた時に見せた寂しげな表情が嘘のようだった。きっと僕の思い違いだったのだろう。
それから駅に着き、同じ方面の電車に乗り込んだあと、彼女は先に降りていった。
僕は透子さんの最寄りから二駅離れたところに住んでいる。
透子さんの最寄りが一番大学に近いのだが、第一志望であった国公立大学の結果発表を待っていたら、賃貸を探す時期が入学ギリギリになってしまった。僕が賃貸を探し始めた頃には賃料が安く、大学にも近い物件はあらかた埋まってしまっていた。そのため、大学から少し離れた場所にある学生マンションに住むことにしたのだった。
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