第2話
大納言の藤原兼家は笑いが止まらなかった。顎が外れるほど大口を開け、満天の星空を仰ぎながら痛快な表情で顔を歪めている。阿流は松明が灯る広い庭で平身低頭し畏まりながら、この甲高い笑い声を張り上げる権力者の様子を窺っていたが、乾いた泥の匂いが鼻を衝いてくると緊張が解けてしまい、不覚にも笑いがこみ上げてきた。どうやら兼家の爆笑状態に感染してしまったようだ。
「よい、よい。遠慮するな。阿流よ。そなたも嬉しいわな。しかしよくやった。よくやったぞ。あのご隠居の心をよくぞ動かしてくれた」
藤原兼家がご隠居と言っているのは源高明のことである。月光に淡く照らされた兼家の表情には、信じ難いほどの親愛感が滲み出ていた。常ならぬことであったが、この時ばかりは、阿流も源高明の仏心を宿したような佇まいを思い出し、この大納言にもひょっとすると、同様の資質が隠れているのではないかと勘繰った。ただ明らかに違っているのは、高明が阿流を屋敷の床に上げて真近で話を交わしてくれるのとは対照的に、兼家はあくまでも阿流を地面にひれ伏させ屋敷には入れないことである。しかしこの世では、兼家のその態度こそが普通なのだ。むしろ源高明が支配階級の中で相当な変わり種なのは阿流も重々承知している。そう思うと、ほんの少し心が痛んだ。それは彼がこの大納言の支配の網に絡み取られており、あのご隠居を粗略に扱い体よく利用したようにも感じるからだ。
「……これで峠は越えたな。あとは無難に事は運ぶ」
空に浮かぶ半円形の月を見上げていた大納言は振り返り、確信めいた口調で言葉を切った。阿流はまだ命を受けたわけではないが、間もなく大納言が命令を下すであろうことは予感できた。
「今から鎮守府将軍の元へ参り、ご隠居が承諾したことを伝えて参れ」
その淡々と述べられた命を聞いた阿流は、いきなり鈍器で殴られたような衝撃を受けた。わけがわからない。我が耳を疑わざるを得ない内容だ。なぜなら大納言の計画は鎮守府将軍たる源満仲の居館に放火することだからである。しかも実現すればかなり大規模なものになる。一帯が火の海となり、鎮守府将軍とその一族は全滅する可能性さえあるというのに。こんな加害者と被害者が結託した不可解な構図があろうか。否、それだけではない。ご隠居の源高明の、つまり政界を引退した人物の一声で、物事が起動するのはさらに奇妙奇天烈である。
「驚いたか。まあ、そうであろうな」
顔面蒼白となり、その場で身を固めてしまった阿流に、藤原兼家は視線を落とし冷たく言い捨てた。
大火 大葉奈 京庫 @ohhana
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