大火
大葉奈 京庫
第1話
「もう迷ってはおらぬゆえ、ご案じなされよ」
老いた男の嗄れ声は実に弱々しかったが、その言葉を聞いた途端、若者は安堵の溜息を洩らした。長い間、鍵のかかっていた扉がようやく開いた瞬間であった。
二人は京の都の中心から少し離れた山側の寂れた屋敷の一室にいる。西側は戸が全て開放されているのだが、昼間だというのに室内は薄暗い。それは庭の空間を縦横無尽に席捲し繁茂する草木の生命力の為せる業で、若者は時折、ここに来ると城塞のようなその植物の集積から圧迫を受け、また老人の虚しい返答から酷い落胆さえ味わった。しかし若者は今、彼が生きた慌ただしい二十数年の時の中で、最大級の高揚感に包まれていた。
若者がこの屋敷に通いはじめたのは、年頭の挨拶を兼ねた厳寒の頃で、その凍てついた冬から、蕾が芽吹きやがて美しい花々が咲き乱れた春を経て、今は地上を容赦なく濡らし続ける梅雨に入っている。ただこの日は、昨夜の豪雨がまるで嘘のような快晴になった。
生きてきた世界も違えば、年もかなり離れている二人の男は、誤解が自然に溶けたように顔を見合わせ、腹蔵なく笑みを洩らした。それからほぼ同時に視線を近景の庭の濃密な緑から徐々に上げて、遠景の青空へゆるりと投げた。
老人は還暦を迎えんとする公卿の源高明で、かつては朝廷の左大臣を務めたほどの人物である。そして若者は阿流という名の、彫の深い顔立ちをした毛深い男であった。太い眉の下の二重瞼に包まれた大きな黒い瞳に、高明は人に懐く獣のような魅力を感じた。以前、猫を愛玩し飼っていたこともある高明にとって、阿流のその容貌は警戒心ではなく親愛感を抱かせた。しかし阿流は高明に全く逆の印象を持っていた。身分差があるとはいえ、この老いた貴人が屈強な若い男に対し身の危険を感じているのではないかと。
アルと発音されるその珍しい名前に、高明は初対面から興味を覚えた。恐らく阿流は奥州の、蝦夷の血をひいているに違いない。そして阿流に面と向かって、彼の出自に関する話を何度か尋ねてもみたが、生憎なことに出てくる話は全て、高明の想像の域を越えることはなかった。
「そなたはまだ若い。私がこの案件を承諾したことで、大きな褒美を貰えるのかもしれぬが、綺麗に咲き誇った花もいずれは色褪せて枯れる。幸せとは儚いものよ。それに富は人を忙しくさせるものだ。そして成功は人の目を曇らせもする」
この日の別れ際に、高明はその言葉で真摯な忠告をしたつもりであったが、阿流にはどうやら通じなかったようだ。素直に頷いてはいても、むしろ大きな褒美という響きに魅せられ、ひどく上機嫌になっている。太陽はまだ中空高くにあったが、屋敷を出た阿流の足音や気配が完全に消え失せ、孤独な老いを悟らざるを得なくなった高明は、長い時間をかけて出た彼の決断を今一度、じっくりと自問自答する羽目になった。
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