月華の舞 03
3
夕刻。
おおむね欲しいものを手に入れることができて、帰途につこうとしたジールたちは、騒ぎの気配に包まれた。
このジランファの街で最も格式の高い店が軒を並べ 身なりの良い者たちばかりが行き交う、上品な繁華街である。
そこで女性を含めたかなりの数の声があがり、悲鳴ではなく争闘というわけでもなさそうだが、揉み合うような押し合うような、不穏な揺らめきが伝わってきた。
「何事だ?」
ジールは従者に様子を見に行かせた。
自分自身はアイナをかばう位置に立つ。ディオル家の馬車を留めてある預け
「突然、店じまいがなされたそうです」
戻ってきた従者が事情を伝えてきた。
ジランファで最高の評価を得ている女性向け衣料品店が、先ほど突然その日の営業をとりやめることになり、予約していた者はまだしも何かしら月華祭のためのものを探しに来ていた客たちが騒いだということだったそうだ。
「なぜだ? 今こそ最も売れる時だろうに」
ジールはアイナを見やった。彼自身も以前にその店で買い求めたものを婚約者にプレゼントしている。麗しい光沢を帯びたそのリボンは今日もアイナの髪を美しく飾り立てていた。
「そこは外からではよくわからなかったのですが、店の針子たちが、特別な客のための急ぎの仕事に取りかかることになったため、今の在庫を売る以外の注文を受けつけることができなくなったと」
「特別な客?」
ジールは知事の息子であり、父について様々な仕事を学んでいる最中で、この街の月華祭を訪れる要人のことは当然ひととおり知っている。
しかしその中に、この街の最高の店が全力で対応しなければならない相手というものは思い当たらなかった。高級な衣料品を身につける女性の来客というものは、当然ながら自分の好みの店や職人をかかえており、衣服は万全に用意してやってくるものである。
突然、どこかの知事の妻や娘などがやってくることになったのか。リスティス家など国の中枢を占める高位の一族の誰か。まさか、お忍びの王族。
当人は質素な格好でこっそり訪れることにしたはいいが
――そんな人物が訪れたのならば必ず知事に情報が入る。
ジールは好奇心にかられたが、野次馬根性で婚約者ともども混乱する人ごみの中に滞在し続けるのは危険と判断し、ひとまず帰宅しようとアイナや従者たちを促した。
そこへ、悲鳴があがった。
女性の金切り声。
「医者を呼んで!」
また同じような金切り声。もうひとり倒れたわ!
店じまいしたという、あの高級店の中からだった。
「戻ろう、アイナ。ここは危険だ」
刃物を持った者が暴れたり、盗人が騒ぎにかこつけて金持ちを狙ったりするのは容易に想像できることだった。
ジールは警戒心を最大にして、つめかけてくる野次馬に逆行して強引に帰宅した。
しかし好奇心は止められず、家の者をやって事情を調べさせた。
夜になって答えが伝えられた。
ジールはアイナと共に、夕食後に報告を聞いた。
「…………女神?」
首をかしげる。
「はい。女神様がご降臨なされたとのことで……店の女主人が対応したものの、たちどころに魅了され、他のあらゆる注文を棚上げにして総力をあげて応じなさいと言い出して、それに続いて今度は針子たちが次から次へと美しさにとらわれて針仕事どころではなくなり失神していったと……」
「それは……信じがたいな」
「私は、聞いたことをお伝えしているだけであります」
元は軍人で、ジールたちの護衛も兼ねている男性は丁重に言った。
「ああすまない、疑っているわけじゃないんだ。だが女神と言われてもどうにも……見た者を失神させるほどの美しいお方が、この街に突然現れて衣服をお求めになられるというのは、どうにもおかしな話だ」
「それは私も同じ思いであります。ですが実際に店の雰囲気が異様なものとなり、針子の女たちが何人も失神した騒ぎが起きたことはジール様もご存知の通りです。その後、倒れた者たちが、目覚めるなり女神さまとうわごとを漏らしつつ、夢見る顔つきで仕事場に戻っていったという話も聞いて参りました」
「ううむ……誰かが傷つけられたり、無体な目にあわされたというのでないのならばいいが……何とも奇妙な……私の立場としても、確かめぬわけには……」
「店から被害の報告が出ておらず、誰も害されたというわけではないのなら、良いではありませんか」
アイナが食後の茶を楽しみながら、ゆったりと言った。
「いずれの女神様であっても、ここを訪れてくださったのならば光栄なことですし――月華祭におん自ら参加なされるおつもりでしたら、人の身の私たちは、当日にすばらしいお姿を拝見できるのを楽しみにすればいいだけですわ」
「それは…………そうだが……」
「ジール様は、女神様と踊ってみたくはございませんの?」
「む…………!」
言われて、ジールの中に熱いものが灯った。
それはすぐに強烈な炎となり、ジールを赤熱させた。
舞踏の才を持って産まれ、その才で身を立てたい、才ある証を世に示したいという欲求から、最後の月華祭に挑む心づもりだった。
だがそれは浅い望み、半ば以上自分を
女神と、踊りたい。
婚約者に示唆されたその一言に、心身すべてが燃え上がり、魂が強烈に震えた。
「ありがとう、アイナ」
ジールは感謝と興奮のありったけをこめて礼を言った。
婚約者は、まぶしいものを直視したかのように目を細め、頬を赤らめつつ微笑して応えてくれた。
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