4章 お金を配ろう

 気のせいかと思うほど微かな雨粒が確信に変わる。遠くから控えめにこちらをのぞいていた雲は、いつの間にか僕たちに覆いかぶさっていた。あそこなら雨が避けられそうだと、僕の意識が導かれたのは、年季の入った屋根付きベンチ。ニケも同意見のようだ。


「あっち座ろか」


「うん」


 屋根の下には空洞を東西南北に囲うようにベンチが置かれていて、僕たちは対面でもなく、隣でもなく、北と東に分かれるように座った。


 ニケが言い出し、僕が従う。僕たちの会話はずっとそんな風に進んできた。ニケは、常識の牢獄へやってきた革命家のように、僕に手を伸ばし、自由へと誘う。


 僕は迷っていた。きっと僕は一四年の人生で、常識の牢獄に居心地の良さを感じはじめていた。不満を口にし、逃げ出そうとしながらも、完全に離れることを望んでいるわけではなかった。もし、この場所を完全に否定したなら、自分の人生がまるごと、滑稽な嘘に付き合っただけの茶番であると認めてしまうかのようだ。


 じゃあ、僕は議論を続けることを望んでいないのだろうか? わからない。それでも僕は、めらめらとたぎる欲望を押さえつけることはできなかった。ニケともっと話したいという欲望を。


 続けよう。僕のもとへやってきた革命家は、いったいなにを語ろうとしているのか、最後まで見届けよう。




■お金を配れば解決


 ニケは、頑張って勉強する人やAIをつくる人、営業する人をバカにしているように見える。でも、きっとニケはそうは思っていない。素朴に「無駄だからやめよう」と言っているだけなのだろう。


 だとすれば僕が次に質問すべきことは明白だ。本当に無駄だったとして、いったいどうやってやめればいいのだろうか?


「ちょっと整理していい?」


「おう」


「アンチワーク哲学は労働をなくすべきって主張しているんだよね?」


「せや」


「労働のうち、お金を集めてくる政治活動に夢中になるのは社会全体の発展には貢献しない」


「うん」


「経済活動にも、『お金を稼がないといけない』という焦りのせいで、売れ残りなどの無駄が生まれているし、政治活動のためのビルを建てるような仕事もいらない」


「うんうん」


「労働者が強制されなくなれば、人は無駄な労働をやめる」


「そうそう」


「そして強制によって抑圧されていた貢献欲が発揮されて、自発的に家を建てたり野菜を育てたりするから、強制という意味での労働がなくなっても困らない」


「せやせや」


「・・・っていうことでいいんだよね?」


「少年、ものわかりええなぁ」


「じゃあ具体的にどうやって労働をなくせばいいの? 現実にお金は必要なんだから、お金のために強制される状況は変えられないんじゃない?」


「もう答えはわかってるようなもんちゃうか? お金を配ればええねん」


「え?」


 ニケの言うことは相変わらずめちゃくちゃだ。お金を配る? そんなことをすれば社会はどうなるんだろう?


「聞いたことないか? ベーシックインカムって」


「たしか・・・国民全員に毎月一定額のお金を配る仕組みだよね」


「そうそう。貧乏人から金持ちまで、みんなに一定額を配る。細かい仕組みはいろんなバリエーションがあるけど、とりあえず『それだけあれば野垂れ死ぬことはない』くらいの金額が想定されることが多い。日本なら月七万円か十万円ってところや」


 はじめてベーシックインカムを知ったとき「お金がもらえるなんて、いいなぁ」と感じたのと同時に、「いやいや、そんなうまい話があるはずがない」と感じたのも覚えている。


「でもさ、お金持ちに配る必要はないでしょ? それに、そのお金はどこから用意するの? まさか税金?」


「いろんな考え方があるな。年金や生活保護、健康保険なんかをぜんぶ廃止してベーシックインカム一本にして、関連する公務員の給料を削減して、足りない分は増税して、なんとか帳尻を合わせる・・・っていうケチ臭いベーシックインカム案もあるで」


「でも、年金を受け取れない人がかわいそうだし、貧乏な人は病院に行けなくなるよね」


「せや。だからアンチワーク哲学は別のベーシックインカム案を支持しとる」


「どんな?」


「一言で言えば『金を刷って、配れ』やな」


 僕は呆然としたが、ニケは「なにがおかしい?」とでも言わんばかりの真顔でこちらを見てくる。でも、そんなことって・・・


「そんなことできるの?」


「お金ってのは紙切れ。誰でも知ってるやろ? 一応、法律上は政府が直接お金を刷ることはできないことになってるけどな、やろうと思ったらできる。またお金がどうやって生まれるか調べてみたらええわ」


「でもさ、そんなことをすれば・・・」


「インフレか?」


「・・・うん」


 歴史の教科書で、お札に火を灯して蝋燭代わりにしている人の絵を見たことがある。お金を発行しすぎて、お金の価値がさがれば大混乱が起きると、僕は教わってきたんだ。


「細かい話は置いといて。基本的な話だけするで。インフレっていうのはな、需要が大きくなりすぎたときか、供給が減ったときに起きるんや」


「うん・・・」


「噛み砕くとな、みんなが米を今までの二倍食うようになったら、米は不足する。不足したら値段が高くてもみんなが買うから、お米を売る人は値段を上げようとする。これが需要が大きくなってインフレするパターンや」


「なるほどね」


「ベーシックインカムを配ったら、そんなことが起きると思うか?」


 想像してみる。毎月七万円か、十万円をもらえたらお母さんはお米をたくさん買うだろうか?


「うーん、お金をたくさんもらってもお米を二倍食べようとは思わないけど」


「せやろ?」


「でも、ほかのものはたくさん買うかもしれないよ。ゲームとか、漫画とか」


「せやな。でもちょっとやそっと買い物する量が増えても大した問題じゃない。いまの時代、人々がなぜ政治活動で消耗してるかわかるか?」


「え? 競争が激しくなってるからじゃないの?」


「それもあるけど、いまや人間が必要とする商品の総量は頭打ちになってるってことや。なんぼつくっても売れへんから無理やり売りつけてるってわけやな」


 ものが売れない時代。そんな言葉を聞いたことがある気がする。戦後や高度成長期にはものをつくれば売れていたが、いまはそうじゃない。むしろつくったものを売るために工夫しなければならないっていう話だっけ?


「つまり、ちょっとやそっと需要が増えても、つくろうと思ったらつくれるってことや」


「でもさ、肝心のつくる人が減ったら? お米はやっぱり値上がりするんじゃないの?」


「それが供給が減ってインフレするパターンやな。貢献欲の話を覚えてるな?」


「覚えてるよ。貢献欲があるから、みんながお米をつくりつづけるってこと? さすがにそう上手くはいかないんじゃ・・・」


「農家の平均年齢って知ってるか?」


「え? 知らない。五十歳くらい?」


「とっくに六五歳を超えてるねん」


「そうなんだ。で、それがどうしたの?」


「六五歳すぎたら年金もらえるやろ」


「うん・・・あ!」


 年金をもらうってことは、お金を毎月もらうということ。それはベーシックインカムと同じだ。


「そう。年金ってのはな。受け取る側になったら事実上のベーシックインカムみたいなもんや。毎月なんもせんでもお金がもらえるんやから。つまり日本の農家の大半は事実上ベーシックインカムを受け取ってるような状況にある。じゃあ農家はみんな仕事をやめてるか?」


「でも、農業は人手不足なんでしょ?」


「それは若い人が入ってこんからや。農業は儲からんねん。あとは、単純に年老いて引退する人が多いっていうのもある。それでも農業は崩壊しているわけじゃない。崩壊しかけやけどな」


「つまり・・・人はベーシックインカムをもらっても必要な経済活動に取り組む?」


「たぶんな」


 ニケは、その飄々としたビジュアルと相まってやたらと自信満々に見える。そのくせ「たぶん」といった曖昧な言葉をよく使う。本当にニケが正しいのか、正しくないのか、僕にはわからない。


「でも、『たぶん』じゃ納得できない人も多いよ。ちゃんと証拠を見せないと」


「世界中でベーシックインカムの実験は行われてきた。フィンランドの実験は有名や。でもな、必要な仕事をやめる人はほとんどおらんかったらしいで」


「でもさ・・・」


「わかってる。『フィンランドでうまくいったからといって日本で成功するとは限らん』やろ?」


「うん」


「そんなん言い出したらキリないで? 『車にひかれて死ぬ可能性があるから道を歩かん方がいい』みたいな話やで」


「それ、なんか違うんじゃない?」


「一緒や。逆に言うたらベーシックインカムを配らない社会が上手くいく保証はどこにもない」


「そんなことないよ。これまでベーシックインカムなしで上手くやってきたじゃん?」


「いまの社会、上手くいってると思うか?」


 ニケの問いかけに言葉が詰まる。退屈そうに会社に向かう父親と、イライラしながら皿を洗う母親。遠くで辛そうに営業を続けるスーツ姿の女性と、迷惑がる母親。自分の人生に嫌気が差して学校をさぼっている僕。この社会は上手くいっているのだろうか?


 たしかに食べ物も家もある。空から爆弾が降ってくる心配もない。ゲームや漫画もある。でも、本当にこれが僕たちにとって幸福な社会なのか、僕は自信を持つことができない。


「実際、農業や林業、介護、保育といった経済活動の担い手は減っていく一方や。それやのに、いまの社会は有効な解決策を見つけ出せてない。そんな醜態をさらしている『いまの社会』とやらに固執するのは、あほらしいと思わんか?」


「でも、ベーシックインカムで人手不足が解消されるとは限らないんじゃないの?」


「確実なことはわからん。でもな、経済活動は給料が安い。お金の不安からみんな大学を出て不毛な政治活動の仕事に就こうとするんや。ベーシックインカムでお金の不安がなくなるなら、人の役に立つ仕事をしたいと思う人は増えるんとちゃうか?」


「そんな簡単にいくかな?」


「わからんけど、いまの上手くいってない仕組みに固執する理由もないやろ? よりよい社会の可能性も考えもせず、試しもせずに却下するのは、『聖書にこう書いてるから!』と言って進化論や地動説を否定するのと同じちゃうか?」


「たしかに・・・」


 そうかもしれない。なにが正しい社会の仕組みかなんて、議論してみなければ、やってみなければわからない。


「大人もみんなええ加減や。ちょっと質問すればボロが出る。『ああしなさい! こうしなさい!』って言ってることが本当に正しいかなんて、まともに考えたことないねん。哲学者っていうのはな、それをみんなの代わりに考えて、考える必要があることを問いかける仕事や」


「それが哲学者という仕事?」


 もしそんな風に考える仕事ができるなら、僕も楽しく生きられるかもしれない。少なくとも、ニケの姿は楽しそうに僕の目に映っている。




■権力者に逆らおう


「少年はすぐに質問したがるから、本題に入られへんけど、ベーシックインカムの話で大事なのはこれからや」


「質問したらダメなの?」


「ほら、それもまた質問や」


 ニケは鬼の首をとったようにニヤニヤしながら屁理屈を言う。ウザいけど、嫌いになれない。


「いまの返し、性格悪いね」


「せやろ。哲学者はみんなの代わりに考える人って言ったけどな、見方を変えればただの偏屈なおっさんや」


「それって自慢してるの?」


「別に自慢もなんもしてない。偏屈っていうのはあくまで言葉にすぎないわけや。どんなラベルを貼ろうが、俺は俺やろ?」


「そういうもの?」


「せや。ところで、質問が悪いことかのように言うてしもたけどな、質問は大事や。さっきも言うたけど、大人の言うことを鵜呑みにしてもええことはない」


「そうなの?」


「戦時中の子どもたちは、大人から『戦争は正義』と教えられてたんやで」


 そうか。価値観はたしかに変わってきた。戦争がいまでは悪であるように、労働もニケが言うように悪になる日が来る・・・かもしれない。


「さて、ええ加減、ベーシックインカムの本題に入ろか」


「うん」


 まだ本題ではなかったらしい。ニケの話はやはり長い。


「ベーシックインカムがあれば人々が強制されることはなくなるって話やったな」


「えっと・・・どうしてだっけ?」


「お金が命令に従わせるためのツールとして機能してるって話はしたな」


「覚えてるよ。お金がないと生きていけないから、お金をくれる人の命令に従わざるを得ないってことだよね」


「そう。ベーシックインカムがあればお金をくれる人の命令に従わなくても、路頭に迷うことがなくなる。はじめから生活に必要なお金が配られるわけなんやから」


「つまり、命令が強制的なものじゃなくなる?」


「せや。上司や社長、仕事内容に疑問を抱いたなら、即座に辞められるようになる。そうなれば過剰な政治活動や売れ残ることがわかりきってる恵方巻きづくりみたいな仕事からは、みんな離れていく。そして本当にやりたいと思うことや意味があると感じることにみんなが取り組めるようになるんや」


「たしかに理屈の上ではそうだけどさ・・・」


「ベーシックインカムのメリットはそれだけじゃないで」


「なに?」


「少年、最初にこの社会ではセクハラやパワハラが横行してるって話をしてたな。あれも解決できる」


「どうして?」


「セクハラに耐えなあかんのも、セクハラしてくる上司や客、先輩に逆らったら食っていかれへんくなるからとちゃうか? パワハラも同じや。逆らっても飯を食うていくことが可能なら、誰が黙ってセクハラやパワハラに耐えるやろか?」


「そういうものなのかな・・・」


「せや。セクハラやパワハラって、『金を持ってる側』から『金を持っていない側』に行われていて、逆はないやろ?」


 想像してみる。たしかに、部下が上司にパワハラやセクハラをする光景は思い浮かばない。


「たしかに」


「それが可能なのは金が持つ権力のおかげや。金の権力が弱まったら、セクハラもパワハラも不可能や。セクハラやパワハラが起きたら対策委員会みたいな組織を立ち上げるのが定石やけどな、あんなもん茶番や。金が生み出す権力構造が変わらない限りなんの解決にもならん」


「でも、ベーシックインカムを受け取ったくらいで、そんなに強く反抗できるかな?」


「まぁ面と向かって言うのはむずかしいかもしらん。でも、その場を離れるくらいのことはできるはずや」


 ベーシックインカムが配られている状況で、上司にパワハラをされる場面を想像してみる。たしかに、僕ならその状況で何年も働き続けることはしない。


「企業の不祥事も同じやで。自動車メーカーが検査結果を誤魔化してたとか、そういうニュースよく聞くやろ?」


「それも関係あるの?」


「あんなんもな、利益のために上司が命令してくるから仕方なく不正してるんや。好き好んで不正したい人なんかおらんねん」


「そういうものかな・・・」


「せや。ベーシックインカムさえあれば、不正に手を染めるように圧力がかかったら『それはおかしい!』って声を上げられる人も増える。そこまでしなくても、その場を離れる人は増えるはずやろ?」


 言われてみればそうかもしれない。不正をすれば後ろめたい気持ちになることは誰でも知っている。そんなことはわかっていたはずなのに、不祥事のニュースを見たときは「どこかに悪者がいて、そいつのせいなんだ」と、これまでの僕は無自覚のうちに考えていた。


「あとな、さっき少年はお金持ちにベーシックインカムを配る必要はないって言ったけどな、実はお金持ちにも配るのは大切なんや」


「どうして?」


「お金持ちといえども、いつビジネスに失敗して路頭に迷うかわからへん。だからできるだけ金儲けしようとするんや。でもな、たとえ失敗しても、路頭に迷わないとわかったら・・・」


「いまほどに金儲けをする必要はなくなる?」


「せや。ほんで、仮に金儲けしようと思っても、理不尽な命令に従ってくれる労働者はもうおらん。金持ちの命令にみんなが逆らえるようになるんや」


「となると、お金儲けをするのはむずかしくなる?」


「そう。金儲けは社会の役に立ってるとは限らんし、むしろ金儲けのための政治活動でみんなが疲弊してることはもう理解したやろ? つまり、金儲けへ向かうエネルギーがベーシックインカムで削り取られるのはいいことなんや」




■家族はフィクション


 お金が配られれば、権力者に逆らうことができる。そんな風に考えたことはなかった。でも、たしかにそうだ。僕だって将来受け取るお金のため、将来生きていくために、親や先生の命令に不満があっても従っている。


 でも、もし本当に権力者に逆らえるようになったら、みんなが好き勝手に振る舞って社会が犯罪まみれになるんじゃないだろうか? そういえば、ニケはさっき「犯罪があるのは労働のせい」って言っていたっけ。むしろ、逆のような気もする。みんなが自由に振る舞えば、街は犯罪で溢れかえるはずだ。いったいあれはどういう意味なんだろう。


「そういえば、ニケはさっき『労働が撲滅されれば犯罪がなくなる』って言っていたよね。あれはどういう意味だったの?」


「あぁ、簡単やろ。ベーシックインカムのおかげで労働しなくても生活できることが保証された社会で、誰が殺人事件を起こすやろか? 誰が強盗や詐欺を働くやろか?」


 ニケは「当然やろ」とでも言わんばかりの表情だ。そんな単純な話なのだろうか?


「でもさ、それって性善説だよね? 悪い奴はお金が配られても満足しないんじゃないの?」


「少年は、もし今日のご飯にも困るほど貧乏になったら、食い逃げするか? あるいはスリか、強盗か、詐欺はするか?」


「どうだろう・・・もしかしたらするかもしれないね」


「やろ? じゃあお金があったらするか?」


「・・・しないね」


「少年は稀に見る善人か?」


「違うね」


「いたって平凡な少年やろ?」


 面と向かって「平凡」と言われるのは複雑な気持ちだが、認めざるを得ない。


「悪かったね、僕は平凡な少年だよ」


「悪くないから平凡やねん。それとな、犯罪率と貧困率には強い相関があることは事実や。平凡な人も、貧困に陥れば犯罪に手を染めてしまう。逆に生活に余裕があれば犯罪に手を染める可能性は低い。殺人事件がどこでよく起こってるか知ってるか?」


「山奥の洋館とか?」


「コナンの読みすぎや。正解はな、家庭の中や」


「家庭の中?」


「殺人事件の大半は家族間で起こってるんや。どうしてやと思う?」


「うーん、遺産相続で揉めたとか?」


「それもあるやろけどな。さっき『殺したいほど嫌いな奴がいてもその場を離れるのが普通』って話をしたやろ」


「したっけ?」


 僕は昔から記憶力が悪い。昔の話の内容や人名を覚えていることを前提に話を進められると、ついていけなくなる。だから、自分が小説を書くなら、登場人物が一人か二人くらいの短い話を書こうと決めている。


「まぁ忘れててもかまへん。とにかくな、殺したいほど嫌いな奴がいても、逃げられへん場所の代表格が家庭なんや」


「家庭からは逃げられない?」


「そう。仮に少年がご両親のことをめちゃくちゃ嫌いやったとしよう。でも逃げられるか?」


「そこまで嫌いではないよ」


「たとえばの話やんけ」


 ニケにはデリカシーがない。たとえばの話でも、そんな失礼な想定はしないのが常識だろう。もっとも、ずかずかとタブーに踏み込むニケの姿は嫌いではないのだけれど。


「まぁ、無理だね」


「お母さんがお父さんのことを嫌いやったとして、少年を連れて逃げようとしたらどうや?」


「お母さんだけの収入じゃ、生活は苦しいだろうね」


「そう。でもなベーシックインカムがあれば逃げられるんや」


「え?」


「お母さんと少年の分のベーシックインカムがあれば、あとはちょっとパートに出るくらいで、十分やっていけるやろ。なら殺したいほど嫌いな相手との離婚を思いとどまる必要があるか?」


「たしかにそうだね」


「あとな、少年が一人で家出するのも簡単や。少年にもベーシックインカムが支給されるんやから」


「中学生が一人では生きていけないよ」


「どっか優しい大人の家にでも転がり込めばええやろ。中学生一人分の生活費なんかたかが知れてるし、ベーシックインカムで賄える。これから少子化で独居老人も増えていくわけやし、一人で寂しい思いをしている人はいくらでもおるやろ」


 ベーシックインカムがあれば簡単に家出できる? なんだか犯罪に巻き込まれそうな予感がするけど、そんなことをしていいのだろうか? もしそうなったら僕は家出するだろうか?


「でも、家族の絆ってそんな簡単に壊れていいの?」


「絆もクソもあるか。言ったやろ。殺人の半分は家庭で起きてるんや。あと、日本の離婚率がどれくらい高いか調べてみたらええわ」


 そう言われれば、親が離婚した話や、親同士で暴力沙汰になるまで喧嘩をした話を、友達から聞いたことがある。


「それにな、生殺与奪の権を握ることで保たれてる絆なんかな、本物の絆と言えるか? 絆っていうのは、好きに離れられる状況にあっても離れたくないと思うことやろ?」


 ニケはたまに核心を突く。たしかに「離れたくても離れられない」という関係を、絆によって結ばれた関係と呼ぶのは無理がある。


「血縁っていう関係に無理やり縛り付けられているから、ストレスが溜まって殺人や離婚に繋がってる。だから、血縁というフィクションは解体したほうがいい」


「血縁はフィクション? どういうこと?」


「血が繋がってるからといって、一緒に住む理由になるか?」


「そりゃあなるでしょ。家族なんだし」


「別に一緒に住まないことも可能やし、逆に血縁がなくても強固な絆で結ばれている人たちもいくらでもおるよな?」


「まぁ。そうだね」


「血縁があるから一緒に住まなあかんっていうのも思い込みなんや。別に好きにやればええんや」


 親子じゃないけど、親子よりも強い絆で結ばれた関係。漫画やアニメでもよく見かける設定だ。僕は偽物だと切り捨てることなく、そこにリアルな感情を感じ取っている。ニケの言う通り、親子という関係にこだわる必要はないのかもしれない。


「あとな、離れられるのは家庭だけじゃない。学校もそうや」


「学校も? どうして?」


「学校を辞めようとしたらご両親がなんて言うと思う?」


「どうだろ。『もう少し頑張れ』とか『そんなんじゃ将来困るぞ』とかかな?」


「ベーシックインカムがあればな、学校辞めても別に将来困らへんねん」


「路頭に迷うことはないから?」


「そう。だから学校なんかいつでも辞めたらよくなる」


「でも、そんなんじゃ誰も勉強しなくなるし・・・」


「勉強が椅子取りゲームと穴掘りゲームのためのものになってるって話、覚えてるやろ?」


 そういえば、そうだった。


「それにな、いじめで自殺する子は毎年現れる。自殺するくらいなら学校なんか行かんと家でゲームやってたほうがマシやろ?」


 自殺するくらいならゲームしている方がマシ。たしかにその通りだ。それは僕だって・・・


「重要なイノベーションを起こすような子どもは、勝手に勉強するやろ。好きな勉強ならとことんやらせたったらええ。でも、やりたないなら、やらん方がええんや」




■我慢をやめて環境問題解決


「ちなみにな、ベーシックインカムを導入すれば環境問題も解決すると、アンチワーク哲学では考えられてる」


「どういうこと? あんまり関係ないんじゃないの?」


「少年は環境問題はどうすれば解決すると思う?」


「どうすればって・・・」


 学校で習ったことを思い出す。社会科の授業で、環境問題について習ったような・・・


「電気自動車を買ったり、ペットボトルを分別したり、食べ物を捨てないようにしたり、クーラー二八度に設定したり?」


「まぁ、そんな風に教わるやろうな」


「違うの?」


 ニケは大袈裟に首を振る。


「まったく無意味やとは言わん。でも、ベーシックインカムの方が手っ取り早いやろな」


「どうして?」


「金儲けのための政治活動や、余計な経済活動、それらをサポートする膨大な労働がなくなるやろ? その活動のためのCO2は排出されなくなるんや。どれだけの量になるやろなぁ」


 言われてみればそうだ。労働にはたくさんの電気や資源が必要で、きっとたくさんCO2が排出されている。それが無駄な労働のためだとすれば・・・


「そっか。無駄な仕事のためにビルを建てたり、パソコンを動かしたり、トラックでものを運んだりしているんだよね」


「そう。それにな、誰も好き好んでアマゾンの原生林を切り拓こうなんて思わんねん。みんな金儲けのためにやってるわけや」


「どういうこと?」


「たとえば森を切り拓いて、資源を掘り起こして、百万円を儲けようとする悪いビジネスマンがおるとしよ」


「うん」


「そいつに『森を切り拓くのをやめてくれたら、代わりに百万円をやる』って交渉を持ちかけたらどうなると思う?」


「そりゃあ、交渉は成功するでしょ? 同じ金額をもらえるなら、わざわざ苦労して森を切り拓く必要はないもんね」


「そう。ベーシックインカムが完全に儲けと同じ金額になることはないけど、それでも森を切り拓く人は減るやろな」


「つまり、金儲けのエネルギーを弱めるベーシックインカムがあれば、環境破壊のエネルギーも弱まるってこと?」


「そういうことや。正直に言ってほしいねんけどな・・・」


 ニケは少し間を置いてから言った。


「少年は環境問題に興味あったか?」


 正直に言えば、「どうでもいい」と思っていた。大人たちから「未来のために環境を大切にしよう」と言われても、どうしても自分のこととは思えなかった。それに僕一人が我慢してなにかが解決するとは思えない。


「正直、分別するのはめんどくさいし、クーラーが弱いのは嫌だし、『我慢しないといけないくらいなら環境なんか壊れちゃえ』って思ってるよ」


「それがみんなの本音やろな。でもな、労働をやめたら環境が守られるんやったらどう思う?」


「そりゃあ、退屈な労働をしなくてよくなった上に、環境まで守られるならいいこと尽くしだね」


「そう。環境を救うために必要なのは我慢やない。逆に我慢せず、欲望のままに生きることで、環境は救われるんや」

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