『悪意の言の葉』

『雪』

『悪意の言の葉』

 ある冬の日の事だった。バイト帰りについつい溢してしまった些細な愚痴。あるはた迷惑な客に対する「悪意ある言葉」に引き寄せられたかのように、彼女は何処からともなく現れたのだ。

 グラデーションのかかった毛先になる程、鮮やかになる桃色の長髪を揺らし、メガネの奥に潜む燃えたぎる炎のような赤と、全てを飲み込むような海の如き深い青のヘテロクロミアを妖しく輝かせる。


「はじめまして、人間さん? 貴方のその願い、僭越ながらこの「悪魔」が叶えて差し上げます」


 にこやかに、晴れやかに、爽やかに、「悪魔」と名乗るその美少女は透き通るような声でそう告げた。

 この二十一世紀に悪魔ねぇ、と半信半疑で彼女を見る。一昔前の所謂ガングロギャルを彷彿とさせる褐色の柔らかで滑らかそうな素肌は真っ黒のビジネススーツに覆われており、ジャケットの上からはモスグリーンのモッズコートを着込んでいる。その髪に半分ほど埋もれた耳からは簡素な黒いピアスが小さく自己主張しており、やはり彼女の言う「悪魔」という印象からは程遠く、そんな面影も雰囲気も何処にも見当たらない。精々、そういうお店の従業員くらいが関の山だろうか。

 初対面の人間(本人曰く悪魔らしいが)に散々な偏見だな、とは自分でも思ったが考えても見て欲しい。いきなり目の前に現れた美少女が「願いをかなえてくれる」なんて、今時ネット小説でもそうそう見ないようなご都合展開だ。何の疑いも無く受け入れる、という方が難しいだろう。


「あーその顔、もしかしなくても信じてませんねぇ? イっけないんだぁ、他人の言う事はちゃーんと聞いた方が良いって習いませんでしたぁ?」


 先程のハキハキとした爽やかな言葉遣いとは打って変わり、わざと単語の節々を伸ばした甘ったるく絡み付くような声。何処か「人」を小馬鹿にしたようなその声に、たった一度でも「言葉」を挟んでしまえば、その単語ごと彼女に絡め取られてしまいそうな錯覚が襲ってくる。


「ちなみに願いを叶えるのは神様じゃないかって言う人も結構居るんですけど、神様は常に平等で無慈悲ですからね。何もしてはくれないんですよ」


 彼女はこちらが口を出せない事を知ってか知らずか、淡々と自らの言葉を紡いでゆく。


「アレはただ存在するだけです。願いも望みも叶えてくれやしません。でも悪魔は違います、私達は対価の為に貴方の願いを、望みを叶えます」


「……何で俺なんだ、こんな程度の欲望を持っている奴なんていくらでもいるだろ?」


 やっとの事で口を挟めたが、絞り出せた言葉は自分でも驚く程に素朴な疑問だけだった。


「んー、貴方にした理由ですかぁ? そうですねぇ……」


 彼女は頬に手を当て、子首をかしげて思案する様な素振りを見せる。此方をチラリと一瞥すると、実にいやらしい笑みを浮かべた。


「まぁ端的に言ってしまえば偶然なんですよぉ。貴方が悪魔が願いを叶えられるだけの強い欲望を持っていて、私が偶々貴方の近くに居たっていうそれだけの理由ですよ。貴方、スーパーで賞味期限の同じ商品が商品棚に並んでてもどれを選ぶかなんて一々考えないでしょう?」


 それと似たようなものです、と手をヒラヒラと振って彼女は小馬鹿にするように嘲笑う。


「それでそれで、どーしちゃいます? 貴方の胸の内に秘めていたその願い、叶っちゃうかもしれませんよ?」


 ずずい、と距離を詰めて上目遣いに問い掛けてくる。押し切られそうになる脆弱な理性は、済んでのところで踏みと止まる事に成功した。一歩、二歩と彼女から距離を空けるように後ずさる。


「……お前、さっき『対価』の為に望みを叶えるっていってたな。この願いの『対価』ってなんなんだ?」


「ありませんよ?」


「……は?」


 呆気なく言い切る彼女に、思わずそんな言葉が零れた。


「厳密には無い訳じゃないんですが、まぁ貴方的には何も無いのと変わり無いんですよねぇ。『寿命』とか『お金』とか、『死後の魂』とか別に要りませんしぃ……。あーでも、くれるなら勿論貰いますよ? ただより高い物はないとは言いますけど、それはそれでこれはこれです。ほら、私ってば人の好意は無下にしない主義ですからね?」


 スーツの上からも見て取れるふくよかな胸を張り、彼女は自慢げにそう言う。彼女の主義主張など知った事ではないが、欲望に忠実な悪魔らしいかもしれないな、とそんな場違いな考えが一瞬だけ脳裏に過る。


「悪魔っていうのは神の目を盗んで人を誑かし、堕落させる。その為の存在なんです。故に貴方が悪魔と契りを結んだ、というその行いそのものが悪魔に取っての『対価』に成り得ます。お話に出てくるあれこれと要求するような悪魔は、我々悪魔の中でも爪弾きされてるような節操無しのがめつい連中です。よっぽどの事情が無い限りあんな詐欺紛いの契約は結びませんよ」


 悪魔の風上にも置けないです、やれやれといった様子で溜め息を溢し、彼女は肩をすくめて見せる。だが、それも束の間の出来事で、その表情にまた意地の悪い笑顔が浮かぶ。


「勿論、信じるか信じないかは貴方次第です。悪魔の言うことなんて信じられるかーって思うならそれで良いと思いますしぃ。……でもでもぉ、こんなチャンス二度と無いと思いますよ?」


「……何にしたって今すぐに結論は出せない。いきなり願いだなんだって言われてもな。正直、今もまだ混乱してる」


 一呼吸置いて、その言葉を絞り出す。それは問題の先送りであり、なんの解決にもならない後回しだ。だが、流されるままに生きてきた自分に、何かを選ぶ事なんてきっと出来やしない。

 顎に手を当て、何やら思案するように彼女は目を瞑る。流石に優柔不断過ぎたかと、自らの発言を反省するが、意味ありげに頷く彼女から帰ってきた言葉は意外なものだった。


「ま、良いでしょう。貴方の言うことも理解できない訳じゃないですから。うーん、そうですね……では『一ヶ月後』。私、間違いなく今日の答えを聞きに来ますから!」


 クルリと踵を返し、スキップしながら彼女は去っていく。遠くなっていく背中には悪魔らしい羽も尾も無い。本気で自分の事を悪魔だと思い込んでいる痛い人だったのか、はたまたそういう罰ゲームをさせられているのか、二度と会うことは無いであろう少女の事は一週間としない内に記憶の片隅に追いやられ、一ヶ月も経たない内に綺麗さっぱり頭の中から消えてしまっていた。




 バイト帰りの路上に怒りと共にぶちまけた不満不平。仕事の最中に再び相対した迷惑な客に対する「悪意ある言葉」に、待ってましたと言うように、彼女は初めて会ったあの時と同じく、何処からともなく目の前に現れたのだった。


「さぁ、決断の時です。貴方の望み、私に叶えさせて貰えますか?」


 実に晴れやかな笑顔でソレは問い掛けてくる。無邪気で、無慈悲な混じりっ気の無い純粋なその笑顔は天使の微笑みか、或いは悪魔の嘲笑か。

 目の前に現れた自称悪魔を見て漸く全てを思い出す、一月前に交わした約束と彼女の事を。よもや、彼女が本物の悪魔だったとは夢にも思うまい。次々と連鎖的に浮かび上がってくる彼女とのやり取りの記憶にどんどんと脳を支配されてゆく。

 どんな結論を出したところでこの選択は、きっと人生に置いて最も大きな転換点になる事には違いないだろう。「言葉」は「意思」や「運命」よりも遥かに重い身を縛る「呪い」なのだから。口に出してしまったが最後、後戻りは出来なくなる。「口は災いの元」とは良く言ったものだ。

 極度の緊張からか、冷や汗がそっと背中を伝う。動悸が激しくなり、急速に喉が乾く。「言葉」とはこれ程までに重く、そして大切なモノだったのだろうか、と今さらながら「自らの選択」の重みというものを再認識させられる。粘つく唾を飲み込み、呼吸を整えようとし、喉奥に引っ掛かる嫌な感触に気持ち悪さを感じて、思わず顔をしかめる。


「あはっ、もしかしてキンチョーしてますぅ? ヤだなぁ、そんな大層なモノじゃ無いんですからぁ。ほーら、リラックスリラックス。笑顔が足りないんじゃ無いですかぁ?」


 水飴のように甘ったるい声に乗せられたおどけるような台詞が今日ばかりは癇に触る。悪魔の言葉を制止しようにも、上手く声を出す声が出来ず、精々睨み付けるくらいが関の山だ。


「あららー、怖い顔ですねぇ。でも──そんな顔してもダメなものはダメですよ?」


 それは突如として、凍りつくような冷たい無機質な声に変わる。出来の悪い生徒を切り捨てるように、異端者を摘発する査問官のように。赤色と青色、二色の虚ろな眼に凝視され、思わずたじろぐ。目の前にいるのは自分より遥かに小さな体躯の少女のはずなのに。彼女の内側から微かに漏れ出る底知れない何かから恐怖を感じてしまう。


「だって、貴方『言った』じゃないですか。決断する時間をくれ、って。貴方と交わした『約束』ですよ。一ヶ月待ちます、それでいいですか、って。決めたのは他の誰でも無く貴方なんですから」


 それにぃ、と彼女は口を開く。先程までの声色など幻であったかのような、何処までも甘ったるく蕩けるような声。


「所詮、他人の命じゃないですかぁ。何を選んでも貴方には害は無いし、関係も無い。そうでしょ?」


 それは悪魔の囁きか、或いは天使の啓示か。僅か数秒、時間を無限に引き伸ばされるかのような感覚に苛まれる。やっとの思いで肺に溜まった空気を吐き出すと、震える唇で言葉を紡ぐ。


「俺の、願いは--」

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