第6話 卑しくも生きたい


 老婆ツツクラの背中を追いかけて、部屋の外に出ます。外には黒い騎士服を纏う中年の剣士が立っていて、彼も一緒に長い石製の廊下を歩き、四度階段を上り、隅にある扉へ訪れます。


 老婆ツツクラが扉を開けて、部屋の中へと入りました。

 剣士は部屋に入らず、扉の横に控えます。


 私はというと、このまま部屋に入っていいものかわからず、おっかなびっくりに足をそろりと部屋へ入れて、こそりと中を覗き込みました。

 瞳に映ったのは……いくつもの机が並び、上には書類の束がてんこもりな光景。



 机の前には、ぴしりとした青い制服を身に着けている女性たち。

 年は様々で、二十代~四十代ほど。

 彼女たちは老婆ツツクラを目にするとぺこりと頭を下げて、すぐに仕事に戻りました。

 皆さんと部屋の雰囲気から、事務仕事に従事しているようですが……?



 老婆ツツクラは部屋の奥へと進み、他の机よりも少しだけ広い机の前で止まりました。

 その机の前では、白い花のピンを左胸に挿している三十代ほどの女性が書類に目を通しています。

 他の女性たちはピンを付けていないので、この方が事務所で一番偉い人だと見受けられます。

 その彼女へ、老婆ツツクラは話しかけました。


「エバ、ちょいとそこをどきな」

「はい、ツツクラ様」



 彼女はアーモンドの形をした紫の瞳をこちらへ動かして、席を立ちます。よくみると、右目の目じりの下には小さな泣きぼくろがありました。

 エバと呼ばれた女性は、首が隠れる程度の緑の髪を軽く流して、私を見るなり眉をひそめます。


「ドワーフ? どうして奴隷がここに?」

「ちょいと、試したいことがあってな。席を借りるよ」

「えっ? まさか、私の席にドワーフを座らせる気ですか?」

「何か問題あるかい?」


「いや、ですが、下賤げせんなドワーフが座った椅子なんて……」

「おい、エバ。纏め役をやらせてるからって、何か勘違いしているようだね」

「え?」


「私から見れば、お前も奴隷もドワーフも糞以下の存在なんだよ。事務をやってる連中にはちょいと甘めだったから、どうも勘違いを始めちまったようだねぇ」

「い、いえ、私は別に、ツツクラ様に口答えを――」


「黙りな!」

「はい!」


「まったく、ふんっ」

 老婆ツツクラは鼻から息を吹いて、こちらへ顔を向けます。

「やれやれ、馬鹿どもすぐに立場を勘違いしやがる。おい、娘。ぼさっとしてないでそこに座れ」

「で、でも……」


 エバさんが私を睨みつけていて、とてもじゃないけど怖くて座れません。

 私の視線に気づいた老婆ツツクラは、らしくない猫なで声を漏らします。

「おやおや、お前は私よりエバの方が怖いのかい?」

「へ? それは……」


 この問いはどう答えればいいのでしょう。「いえ、ツツクラ様の方が怖いです」と答えても、角が立つような……。

 私は問いに対して、何も言葉を返せずに瞳を泳がせます。



 すると、老婆ツツクラは私の顎をがしりと掴みました。顎はギシギシと音を立てて、痛みがこめかみにまで広がります。

 それはとても老婆の握力とは思えません。


 彼女は自身の顔を私の顔の間近に寄せて、大きく真っ赤な瞳を開き、私の金色の瞳を覗き込んできました。

「いいかい、私の言葉が絶対だ。従え、わかったな」

「は、はい……」


 彼女が顎から手を離すと、私はそそくさと席に座りました。

 その背後ではエバさんが杖で殴られています。

「おい!」

「ギャッ!」

「その目は何だい? 不満があるなら口に出しな」

「い、いえ、不満なんてそのようなものは……」

「ないなら顔にも出すんじゃない! 次、そんな顔を見せたら許さないよ」

「はい、畏まりました!」

「まったく……」



 老婆ツツクラは嘆息を生み、書類の束を私の目の前にどんっと置いて、そろばんを上に重ねました。

「その書類の数字に問題がないか計算しな。できるだけ早くな」

「わかりました」


 私は書類の束に載ったそろばんを手に取り、それを机の端に置いて、書類の束を手にします。

 すると、部屋の隅からは囁き声が聞こえてきました。

「あの量、丸一日かかるんじゃないの?」

「何のつもりで、ドワーフにあんなことさせてるのかわからないけど、ツツクラ様も酷なことするね」


 どうやら、この書類の量は相当なものの様子。

(となるとこれは……私の能力を試している? 試すということは――奴隷として売る以外の価値を見出そうとしている!? もしかして、私は生きられる!?)



 私は両親を殺され、生きる目標などもうなかったはず。

 それなのに、突然目の前に垂れ下がった糸を見つめ、いやしくも生への渇望を覚えて縋ろうとしています。


 同時に、空白に満たされていたはずの思考は、この生を前にして恐怖を呼び起こす。


 恥を知らずの私の心の大部分を占めるのは、恐怖。

 敵に対する復讐や憎しみや、両親に対する悲しみではなく、恐怖が心を優しく触り、それが生を甘美なものだと見せつけてくるのです。


 私は太った戦士から感じたおぞましさを味わいたくない。両親のように無惨な死を迎えたくない。エイラちゃんのような最期は遂げたくない。あんな惨い最期を……。


 目の前の書類は、私の前に垂れ下がったか細い救いの糸。

 それを掴みたい。掴んでみせる。

 だって、恐怖と拷問にのたうち回る死が怖いから……。



 私は書類に目を通します。瞳を左右に、上下に動かして、数字を追い、一枚目を脇に置きました。

 すぐに二枚目を置いて、三枚目、四枚目、五枚目……十枚目と置いてきます。


 その様子を、老婆ツツクラとエバさんが怪訝そうな顔で見ていました。

「おい、娘。何をしてるんだい?」

「え? 数字が合っているものを横に置いているんですが?」

「そろばんを全然使ってないじゃないか?」

「それは、この程度なら暗算でできますから。ただの見積表ですし」


 この返しに、何故かザワリとした雰囲気が部屋に広がりました。

 母も同じようにやっていたので、それと同じことをやっているだけなのですが、人間族とでは計算方法のやり方に違いがあるでしょうか?


 老婆ツツクラは計算し終えた書類を手に取り、そろばんを弾いてきます。

 その指さばきは目に止まらぬ速さ。

 私の暗算速度とほぼ同程度で計算を終えて、一言小さく漏らし、エバさんも同じく漏らします。


「全部、合ってるね」

「そ、そんな……」


「ふむ、意外な才能があるもんだ。事務の仕事は溜まりに溜まっているんで丁度いい人材だが……こっちは?」



 老婆ツツクラはそろばんを机に置くと、素早く鉛筆を手に取り、それで私の瞳を突いてきました。

 私はびっくりしながらも首を動かして、それを回避します。


「――ひっ!? な、何か粗相をしましたか、わたし?」

「ふむふむ、今のを避けるとはねぇ。結構本気でえぐりに行ったんだが……戦闘能力も高い。さすがは貴重な猫族のドワーフ、ガキでこれかい。なら、使い道はいくらでもあるな。育てるってのは趣味じゃないが…………ふふふ、あいつに対抗できるやも。いや、それはさすがに無理か? だが、時間稼ぎくらいにはなるな。あいつが……来る」



 老婆ツツクラは椅子に座る私を見下ろします。

 ですが、瞳の中には私の姿は映っておらず、どこか遠くを見つめるような姿。

 そしてなぜか、とても穏やかな様子で笑みを浮かべます。


 その笑みは、純真で屈託のない笑み。優しげな老婆の笑み。とても無残に人を殺せる人の笑顔ではありません。


 老婆は、私に問い掛けてきます。

「お前、名は?」

「ルーレンです」

「よし、ルーレン。今日からお前は、ここの事務見習い兼、私の護衛見習いだ」

「へ?」

「エバ! ルーレンに事務仕事を仕込みな」

「はい……」



 エバさんは心の中で膨れ上がる不満を無理やり抑え込む様子で、表情を石のように固めて声を返します。


 老婆ツツクラは彼女のそんな態度に僅かな呆れを見せて、次に別の方の名を呼びました。

「ディケード!」

「はい」


 部屋の前に立っていた中年の剣士が扉を開けて、恭しく頭を下げます。その彼に老婆ツツクラはこう命じました。

「ルーレンを鍛え上げろ。お前が認める戦士になるまでにな。期間は半年だ」

「半年ですか……かなり厳しい訓練になりますな。この子はまだ幼い。途中で死ぬやも」

「それならそれで構わないよ。そうだろ、ルーレン?」



 老婆ツツクラは口端を上げて、にやりと笑いました。そこには、先程見せた優しげな老婆の笑みは全くなく、ただひたすら邪悪。

 どうすれば、このように相反する笑顔を見せることができるのでしょうか?

 私には、この人の心が見通せない。


 ですが、なんであれ、私は糸を掴みことができた。

 期限は半年。


 その間に老婆ツツクラへ――いえ、ツツクラ様へ、満足のいく結果をお渡ししないと。

 たとえ、相手が憎むべき両親の仇であっても……私は父や母のように、エイラちゃんのように惨たらしく死ぬのが、怖い……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る