気が付いたらこんな始まりだった

悪本不真面目(アクモトフマジメ)

第1話

 野次郎は五月蠅かったから気が付いた。耳から聞こえるのは女の声。それはそれは不快でしんどい声だった。意味が分からずとも彼女が男に言う内容は汚いものであるのは間違いがなかった。一方的にギャーギャーと喚いている。女はこんなことを言っていた。

「キチガイ、ボッキショウガイ、チンチクリン。」

野次郎は気が付いたらこんなところにいた。これが野次郎自身の始まりだった。一番古い記憶。これらの言葉は野次郎にとって、「おはよう、いただきます、ありがとう」よりもここではポピュラーな言葉となる。ただ野次郎はここまで言うのだから、男の方が悪いんだろうと思っていた。男はただ黙っていた。


 女は一向に気が晴れることはなく、台所から包丁を取り出し男に突きつける。

「もう死ねや!」

甲高い、耳障りな声だった。男は後ろへ下がっていき、女が前へとやってくる。ここは二階。玄関の方へ行き、扉の外へと出る。狭いスペース。階段はコンクリートで硬く、一段上る度によく響く。こんなところから落ちたら死ぬ。包丁で刺されても死ぬ。この時に野次郎がどう思ってかは分からない。野次郎としては比較対象がまだなく、普通として受け入れるしかなかったかもしれない。おかしいとはもちろん思ってはいたのだろが、それでも少し程度だと思っていたのだろう。外へ出ても、庭があるとは言え女は大きい声で「死ねや」と甲高い、耳障りな声で叫ぶ。男も身の危険を感じたのかさすがに抵抗をする。

「やめろや!」


 そして女は男の方が力があるからなのか、押され、玄関へと戻される。暴力と呼ぶにはかなり甘く、正当防衛と言うにもぬるいような程軽く男は押してたように思える。ところが、女は包丁を床に落とし、泣く。

「なんなのよ~私が何をしたって言うのよ~。」

野次郎は泣いているんだから女の方が可愛そうで男が悪いんだなと思うしかなかった。先ほどもいったが、野次郎には比較対象がない。そもそも女の方が悪いのなら、あまりにも女は理不尽すぎて今の野次郎が飲み込むにはもう少し食べやすく切ったり柔らかくしてくれないと無理な話だった。女は被害者として泣いて、泣いていた。そ泣き方は野次郎の今の年齢でも納得がいくほど幼く、大人にしてはみっともなさすぎた。男は再び黙り、なんやかんやで女はひとしきり泣いたら部屋へと戻った。


 野次郎は年齢を重ねれば重ねる程に、女の方が理不尽だということに気が付いた。

この出来事は野次郎にとっては、忘れられない出来事ではなくて、よくある日常である。大人になって気が付いたが、それも三十近くになって、そもそも包丁を相手に突きつけて「もう死ねや」というのを何百回何千回と日常的に行ってた母は十分に殺人未遂と言えたんだなと思った。あまりにも当たり前で普通だとそのような感覚は麻痺をしていた。


 野次郎は友人などが家族の話をしてもどこか、違和感で違和感で仕方がなかった。時々思う、もし普通の家庭なら、普通とは何かと言われるが、この野次郎、いや私のような家庭は少なくとも普通と呼ぶ代物ではないことは理解できるのではないだろうか。

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気が付いたらこんな始まりだった 悪本不真面目(アクモトフマジメ) @saikindou0615

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