漏刻博士の都のこと

兒玉弓

第一話 鐘楼守(しょうろうもり)


 月の光の強い晴れた夜半、南向きの腰掛窓を開けて風を入れようとしたところで、手をとめた。

 雲の立体感と宇宙の青の明るさに、一体今が夜なのか昼なのかわざとだまされて楽しんでいると、虎が壁を通り抜けて部屋に入ってきて、こちらを向いて立ち止まった。

 いや虎ではない。大きな猫だ。

 銀色の毛に黒の縞が入っていて全体的にぼさぼさしていて眼も足も肩甲骨も大きく虎っぽい。この猫を見るのはこれで四回目だが、毎回空腹ではない虎を連想する。食後の散歩中のたたずまいとでもいおうか。

 ちなみに壁を通りぬけたというのは比喩ではなく、右の壁面に作り付けのちいさな棚があって、その一番下がどうやらいわゆる猫ドアになっていて隣の部屋とつながっているらしく、そこから入ってきたのだった。

 確か二回目だったか、虎が上開きの軽い樹脂の扉を頭で押して入ってきたあと、その通り口から隣の部屋をのぞいてみたが真っ暗で何も見えなかった。右隣の部屋には確か痩せた色の白い男が住んでいたはずだが、このアパートは壁が分厚いのだろうか、そういえば隣からはいつもなにも物音がしない。



 銀色の虎猫は緑がかった薄い褐色の大きなくっきりとした瞳でこちらを見ている。恫喝されているようにも何も考えていないようにも見えてこちらは落ち着かないのだが、猫はふいと視線を外すとゆらゆらと歩き出し、眼の前をまっすぐ横切ってゆく。

 面妖なことにこの部屋には向かいの壁にも作り付けの棚があり、そしてそこにも猫ドアが設置されていて、そこに猫は吸い込まれていく。魔術のように消えた先の住人は見たことがないが、やはりしんと静かだ。

 猫がひとまず去ったのでひとつ息をつくが、これまでと同じならしばらくしたらあの猫はいまの道を戻ってくるはずだ。あの猫ドアをくぐってこの部屋に現れ、また部屋を横切って元来た隣の部屋へ戻っていくのだ。もしやこのアパートの二階の部屋は全室猫が横切れるように猫ドアでつながっているやも知れないと考えたりもする。猫は一体何部屋を横断するのやらと思ったが、そういえば二階には三部屋だけしかなかった。外階段を上り、見渡した光景を思い浮かべる。廊下に並ぶ菫色の扉が三つ。

 それにしても三つであっても猫ドアでつながっているのだ。住人同士が随分と気やすいのか、無頓着なのか。それとも猫の自由運動の為に喜んでこうしているのか。

 考えながらなんとなく猫の歩いた床をなでていると、ひげを一本見つけた。つまみあげて月明りで見てみると、根本がわずかに銀色の猫のひげで、さらによく見ると窓際の床の隅に銀色の毛が吹き溜まりになっていてちょっと光っている。

 何度見ても途中から夢の中に入ったのではないかと思わせる虎猫の去来なので、もしや猫も、それころ猫ドアも幻覚なのかもしれないとちょっと考え始めたが、どうやらあの猫はちゃんと実在しているらしい。

 いつの間にか月が雲から出ていた。カーテンを雑に左右に割った窓枠の影に体を分断されながら窓の外を見る。

 山の南斜面に立つこの建物から眼下に広がるのは小さな町だ。夜の明かりをぽつぽつと灯した道と建物、中空を蛇行する竜のような高速道路、鉄道の光の流れや強い光を放つ野球場、それらの中を蛍のように飛ぶ赤や金の光は車か。

 それらの光景が彼方へ流れ出ぬために地平に敷き詰められた土嚢のように、低い山が空と町の間に長く長く横たわっている。山のところどころも赤く青く白くぽつぽつと地上の星のように光っている。

「…海だったのにな」

 ちいさく、ひとり言も出ようというものだ。

 昔はこのあたり一帯、小島がぽつぽつと顔を出す海だった。小舟は無論、ある程度の大きさの船も海路さえ守れば座礁することなく通行でき、漁をする舟や荷物を運ぶ舩、旅の舩などが白い波頭をにぎやかにきらめかせて往来していた。

 そしてこのアパートがある山は、古来寺院や寺などが途切れもせず設置されてきた霊験あらたかな吉所であり、このあたりを通過する船はこの山の神社の鳥居へ向けて拝礼の意で帆を下げたものだった。航海の安全祈願と神への畏怖。

 今もこの山にはいくつもの寺や神社があるのだが、そのころの威容は無論、ない。そういえば鳥居はまだあるのだろうか。確かめに行きたい気持ちはあるが、まだこの部屋に隠れていた方がいいだろう。

 さて少々疲れた。眼を閉じて休んでしまおうかと思ったが、しかし、月夜に誘われてあのころの船の幻でも出現するかもしれないとふと思い至り、酒でも飲みながら待つことにした。



 酒は部屋にあったものを飲むことにした。

 ここに来る途中で世話になったひとりに翼の生えた背の高い紳士がいて、流れている時代のことを流し込まれるように教わったのだが、紳士は健啖家と見えて特に食べ物飲み物に関する説明の分量も大きかった。おかげで世界の認識(この言葉は紳士がよく使った言葉だ)、特に食べ物飲み物に関する認識に不自由しない。

 今飲んでいる酒は缶ビールだ。冷蔵庫の中から一本取った。

 紳士のことを思い浮かべながら飲む。あの紳士はまわりのものから「ロウコクハカセ」や「ロコクハカセ」と呼ばれていた。ロウコクハカセとは漏刻博士だろうが自分のよく知る漏刻博士とはずいぶんと風体やふるまいが違う。それにまず、わたしの仕えていた漏刻博士には翼など生えていなかった。

 あの漏刻博士(と呼ぼう)は翼を持つから鳥と親しいのか、たまたま上空を飛んでいた巨大なアオサギに声を掛けて近くに呼び寄せ、お互い川べりのガードレールのポールに立って向き合い、長く話しこんでいるのを数回見たことがある。漏刻博士の翼は玉虫色で、翡翠の色が勝っている時が多いが、見る加減で緋色や金にも光り、禁色見本のようで美しかった。

 などと思い出に浸っていると、閉めたままの窓の外から怪鳥(けちょう)の声がする。まさにアオサギの鳴き声だ。ケー、ケー、と少々不吉に鋭い声が上空を通過している。

 ケー、ケーケー。いや何か言っているような。窓越しなのではっきりしない。

 ぐっと窓に近づく。やはり姿は見えないが、上空から『シューシューケー、イッサイクーヤク、』云々と聞こえる。

 あの時のアオサギだろうか。なにか用事でもあるのか。もしや漏刻博士がわたしに伝言でも託したか。

『カギ、オカギバン、カギ、ケー』

 カギギバン。御鍵番。

 なんのことやら。

 アオサギは繰り返し『カギ、オカギバン、ケー』と鳴きながら飛んでいってしまったらしい。声がぐんぐん遠くなり、やがて聞こえなくなった。

 部屋にふと眼を戻すと、そこにはあの虎猫がもどってきていて、わたしの足元からそれほど離れていない床に香箱を組んでこちらを見ている。

 月光をあびた猫のふたつの眼は薄いとび色、ぼわぼわした毛は夜の雪山のようだ。

 どうやらいつの間にか、あちらの部屋からこちらの部屋へとご帰還の途中らしい。それにしても香箱を組むとは数度遭遇したのみでずいぶんと気を許されたものだ。

 それともアオサギに気を許しているのか。

「ねこよ、あのアオサギと知り合いか。なんと言ってたのか分かるか」

 などと声に出して訊いてみたり。

 しかし無論返事をするわけもなく、虎猫はつんとまず桃色の鼻を天井に向けると、次にふわりと立ち上がり、元来た猫ドアのほうへ悠然と歩いていく。そのままするすると猫ドアに吸い込まれていく。

 床と平行に凛と浮かぶ猫のしっぽの先までするすると壁に吸い込まれていくのを見つめていた眼の端で、何かが光った。

 見ると、猫が香箱を組んでいたあたりの床に、小さな鍵が落ちている。

 なんと。鍵とはこれか。

 膝でにじり寄ってつまみあげてみる。なるほど鍵だ。

 猫の消えた先を見、窓の外のとうに去ったアオサギの方を見、結局手元の鍵に眼を落とす。

 さてこの鍵をどうしよう。






 鍵の処分は案外すんなりと思いついた。元の持ち主に戻せばいいのだ。

 この部屋に西の壁から現れた猫は、元々鍵など持ってなかった。次に東の部屋から再び現れてこの部屋で香箱を組んだそのあと、腹の下に鍵が残っていた。つまり鍵は猫が東の部屋から持ってきたのだと思われる。

 新しい缶ビールを開けながら、鍵を観察する。よくある形状の鍵だ。部屋の鍵だろうか。頭に空いた楕円の穴に細い環が通されているので、猫はそこをくわえて遊んでいて、この部屋に運んだのだろうか。なかなか器用である。

 缶ビールを置き、東の壁の猫ドアににじりよる。あの虎猫は大きいので猫ドアも大きい。狸や狐やキジやらも通り抜けられそうだ。

 そっと猫ドアを押してみる。あちら側にすんなり動いて、なんと物音が聞こえた。これまで猫が通り抜けたとき、光も漏れず音も聞こえてこなかったのに、今は壁の向こうの光が床に流れてきて、なにやら小さく声も聞こえる。もっとかがめばあちらの部屋の中ものぞけそうだが、こっちも見られるかもしれない。

 少々慌てて、明るい月の闇のなかで息を止め、そっと鍵をあちらの部屋にすべりこませる。そして指を猫ドアから静かに離した。

 予想ではあちらの壁面にもこちらと同じく作り付けの棚があって、その一番下の段に今こちらから返した鍵がぽつんとあるのに違いない。あちらの部屋の住人は猫がそこで口から離したせいだと思ってくれるに違いない。

 やれやれだ。酒を飲みながらの月光浴に戻る。

 猫ドアからは気づけばすこし両隣の部屋の光が漏れ出ている。これまでは留守で、両隣ともにご帰宅か。

 鍵は無事返したが、また猫が来てくれたら嬉しい。今度はあの月光に照らされた雪山のようなぼわぼわした毛をなでさせてもらおう、などと考えもする。猫とは鐘楼守をしていたころから気が合ったものだ。



 しかし、鍵はまたすぐに戻ってきた。

 翌朝のことだった。

 翌朝、蝉の声で目覚めたら、すでに日が高く昇っていた。

 久しぶりの酒のせいか夜明けにも朝が進むのにも気付かず、しかも夢も見ずに眠ったようで、それらに少々罪悪感を覚えていると、また西側の壁からあの猫がぬっと部屋に入ってきた。

 その時はすっかり鍵のことなど忘れていて、こちらを一瞥もせずに部屋を悠々と横切る猫の太い足の、逆光になった縞の数などを数えていた。猫はそのまま東の壁に到着し、速度を変えずにそのまま隣の部屋へと消えていく。

 今回は寝起きのぼんやりもあって、そのまま猫が消えた壁を見つめていたのだが、程なくしてまた猫ドアが浮かび上がり、猫の頭が現れた。

 ちょっと背中などなでたくなり、そっと起き上がる。猫はこちらに気付いたようだが正面からこちらを見ることはせず、そのままゆったりと歩き、窓から差し込んで床に出来ているひなたの部分で足を止めた。そのままうずくまり、香箱を組む。

 こちらは影でうずくまって眠っていたので、ひなたへ向かって腹ばいににじりよると、猫はこちらを無表情に一瞥し、ふいと立ち上がった。

 ちょっと嫌な予感はしたのだ。

 そして、猫が立ち上がった、その腹の下に鍵が。

「おい、ねこ、鍵だぞ」と慌てて声を掛けたが、虎猫は一切頓着せず、そのまま歩き出し、西の壁へとするすると吸い込まれてしまった。

 それをなすすべもなく見送ってから、床の鍵を拾う。日の光か猫の体温か、温められた鍵は二度目のせいかしっくり手のひらになじんだ。

 こうしてまた鍵を配達されたのだった。



 配達。そう、配達しているのかもしれない。

 鍵は虎猫のいたずらでこの部屋に持ってこられたと思っていたが、二度まできれいに置かれると、あの猫は鍵を配達しているのかもしれない。そこで気になるのが配達先で、この部屋がそうだとは思えない。そして気になるのは猫の鍵の運搬方法だ。どうやって運んだのだろう。リングの部分をくわえて遊んでいるうちに、いたずら心が起きてこの部屋に運ぶのだろうと想像していたが、東の部屋から帰ってきたときにそんなものは口元にはなかった。いや、もしかして口の中に含んでいたのか、それか腹の皮に隠していたとか。

 そんなことより、配達だ。この部屋に配達する意味はないので、途中でうっかり落としたのではないかと考える方が合点がゆく。

 こちらは東の部屋の住人を元の持ち主だと考えていたが、口の中や腹の皮にしこんでいたのだとすると、もしかしてこの部屋に現れたときにはあの猫は既に鍵を持っていたということも考えられる。となると、西の住人が元の持ち主やもしれぬ。あの猫は西の住人から東の住人へ鍵を配達していたのかもしれない。又は最初の見立て通り東の部屋の住人が元の持ち主で、散策にいつもやってくる猫に託して西の部屋の住人に鍵を配達させているのかも。

 しかしそもそもなぜ猫に鍵を配達させるのか。鍵を渡したかったら、その部屋のドアに作り付けられている蓋つきボックスに、部屋の外の差込口から鍵を落とせばいいのだ。それに猫が配達業務が得意とも熱心とも思えない。その証拠にこうやってこの部屋に二回も落とし物と相成ったわけだし。

 さて、とりあえず、今回はどうするか。

 鍵を手に、左右の壁を見る。東か西か。いや、いっそ。

「いっそこの窓から投げ捨てるか」

「それはだめ」

 いきなり、涼やかな声が響いた。

 思わず鍵を握りしめて身をすくめる。息を止めて、そろそろとあたりを見回すと、東の壁、猫ドアが開いていて、白い指がひらひらと動いていた。

「捨てないで。その鍵は大事なものなの」

 片方の手首から先がずい、とこちらの空間に現れた。白く細く薄い手だった。声は聡明な少年のようだが、その手は花弁の細い白い花が風に遊ぶように華やかだった。

「…すぐに返します…」

 と、当然当方は申し出たが、

「それはわたしのものではないの」いう返答だ。白い手のひらが、違う違う、という風に横に振られた。

「…それならわたしがこの鍵を捨てようがどうしようが、あなたには関係ないのでは」

 声は小さくなったが、言い返してみる。だが相手には聞こえたようで、

「わたしのものではないけれど、あずかったものだし、関係がないわけではないの。なにより、それをあなたに渡すように言われたのよ」

「この鍵を」

「その鍵を、よ」

 一体誰にだろう。まずこの鍵に見覚えがないのだが、と手元に眼を落とすと、鍵の形が変わっている。錆びだらけの大きな鍵だ。これは鐘楼の鍵だ。鐘楼の頑丈な扉、重い錠の穴にはめ込んで開ける、あの晩、錠を扉にはめ込んで開かないように細工し、そのまま旅に出て、鍵と一緒に海に飛び込んだ…

 急に刺すような頭痛がする。

 白い片手の主が、少年の声で何やら続けているが聞き取れない。

 何かこちらから矢を射らねば、と思い、口に勝手に話をさせる。

「それにしても、あの猫が鍵を運んできたのに、驚きました。猫ドアですべての部屋がつながっているのですか。面白いつくりですね」

「面白いでしょ」

 そっけない語調に、そうだこの言いようではこの部屋の住人ではないことが語るに落ちることとなるではないか、と思うが、今更どうしようもない。話を続けることにする。

「ドアでつながっているのに、ものすごく静かで、それにも驚きました。なにか壁の中に工夫があるのでしょうか」

「静かかしら。ピアノの音がそちらに響いてうるさくしてないか心配してたんだけど」

「ピアノ」

「そうよ、さっきも弾いてたでしょ」

 ピアノは知っている。漏刻博士の館の楽殿でいくつも見た。鯨のような姿の楽器だ。

 そう思えば、今は両隣が騒がしい。人が動いている音もする。それに水の音、風の音、足音、何かなでるような音。ここにはこんなに音があふれていたのか。

 ならばピアノの音は是非聞きたかったと思う…そういえば。

「名前はなんというのですか」

 白い片手首の声の主にまだ名を聞いてなかった。と思うと同時に自分も名乗っていなかったことに思い至る。慌てて名乗ろうとしたが、返事が先にあった。

「ギル」

 その時、西の猫ドアから銀の虎猫がちいさく鳴いて再び登場したので、それは猫の名前だと知る。

「ギルはピアノが大好きで。曲に合わせて体の模様が少し変わるんですよ」

 などという白い手の持ち主が壁の向こうでちいさく笑った声も、今は聞こえた。

 虎猫が部屋の中央で立ち止まる。耳が器用に動いて、隣の部屋からピアノの音が聞こえてくる。猫の模様がぐるんと動き始める。

 思い出したが、音楽で模様の変わる猫には、あの漏刻博士の館でも出会ったことがあった。湖に潜水するように、意識がその情景へと。



 宴にんで、夜の中ひとり、皆から離れた場所で少し休もうと、漏刻博士の館を歩く眼の中、に飛び込む。

 そうだあの時だ。あの夜、星はあったが月はなかった。夏の虫が鳴く中、漏刻博士の館を歩いているうちに誰もいない泉殿にたどり着いたので、そのままそこでうたたねをすることにしたのだった。

 庭の池の中に、高床式で建てられた広い泉殿は、方形の床の縁と多数の柱、四隅にかかる半球の屋根の内側にびっしりと螺鈿が施されてあった。壁面がないため、篝火や灯篭の炎の照り返しがゆらぎ、それが水面にはねかえってさらに揺らぎ、泉殿自体が巨大な光のカゴのよう。

 遠く宴の泉殿の柱に背をあずけていると、その光のカゴにとらわれたたった一匹の鳥のような気分になった。

 そのまま眼を閉じる。遠く宴の音が聞こえてくる。もうすぐここにあの舩が来る。



 ここではたと気づく。

 この館は、昔むかし、時の鐘をついていた頃に仕えていた漏刻博士の方のものだ。

 この館にピアノはなかった。模様の変わる猫もいなかった。

 それらと出会ったのは、この町に来てからの話で、背の高いあの紳士、翼の生えた漏刻博士の館の方だ。

 だがちょうどいい。この思い出の方にこそ飛び込みたかったのだ。確かに自分の記憶のはずだが、そして思い出したくてたまらなかったのだが、いつも入口ではじかれていたこの甘美な空間。

 ここでわたしはあの美神に出会ったのだった。

「中将ではないか、どうした、戻ってきたのか」

 声。顔を上げるとどうしたことか、翼の生えた紳士が泉殿への渡殿に立っている。

 翼の漏刻博士だ。

 どういうことだ。声も出せずにいると、翼の漏刻博士はすべるように近づいてきた。

 光のカゴの中に彼も入った。

「急にいなくなったから、心配していたぞ」

「ここは、あなたの館か」

「そうだが」

「この泉殿は、前に仕えていた漏刻博士の館にあったものにそっくりだ…」

「それはそうだろう。中将が教えてくれた通りに作ったのだから」

「わたしが」

「そう、巨大な船で空からやってきた美しい女神と出会ったという、泉殿だ。あなたから聞いた泉殿をここに再現するために、四季がひとまわりした。この夏の初めにようやく完成したので、ここで祝いの宴をしたではないか…

 やはり、いろいろと忘れてしまうのだな。神を殺したものは、心が壊れる」

 あ。

「なんだ神殺しの中将ではないか」

 もうひとつ声が飛んできて、泉殿に足音高くやってきた黒い衣の男は、白い猫を胸に抱いている。

「中将が飛び出していった風で、楽器がいくつもこの池に落ちてダメになってしまったんだぞ。僕は怒っているんだぞ」

 骨ばった顔と紅い唇がそのまま近づいてきて、漏刻博士と並んで立った。背丈は漏刻博士の半分ほどしかない。篝火の中、その腕の中でも白く光る猫がこちらを向いた。男も猫も、瞳が水色だ。螺鈿と反射光の罠の中、強く光る水色。

 その猫の瞳を見ているうちに、ひとつ思い出した。

「その猫は、音楽で模様が変わる猫だね」

「なんだ、覚えているじゃないか。漏刻博士よ、神殺しは心が壊れて、記憶がまだらになり、砂漠に一本立つ枯れかけの木のように哀れなものだと聞いたぞ」

 神殺し。

「わたしは、神殺しなのか」

 尋ねると、漏刻博士の方が息を細くついた。笑ったようだ。

「そうだな。そう言われている」

「…思い出せない」

 本当は記憶の断片が体の周りに浮遊し始めていた。

 いつの頃か呼ばれ始めた中将というあだ名が呼び水となって。

 思い出したくない。

「思い出したくないのなら、そのままでもいいが」

 心を読んだような漏刻博士のかすれた声。そのまま向かい合わせに腰を下ろして、彼も本格的に光のカゴの中に捕らわれた鳥となる。背中の大きな翼の反射が複雑にきらめく。

 そして少し顔を寄せると、

「神殺しはめずらしいことではない」

 ささやいた後は振り返り、黒衣の男と猫に告げた。

「宴の続きを」

 その声が水紋となって。

 広い館に広がって、消えた、と思った数秒後、泉殿にははや百人ほどの客があふれていた。

 光と声と音楽と。

 近くには直衣姿の三人がいる。橙色の顔をつきあわせて、それぞれ琵琶を抱いて指使いを練習している。

 その背合わせに、女ものの衣をかぶったものたちが輪になり、細い脚を高く上げて踊っており、それを見つめて静かに頷いているのは、亀のようなふたりの老人。

 広い泉殿をぐるり見渡すと、先ほどの猫男のような黒衣のものたちがあちこちにいて、手に手に見慣れない楽器らしきものを持っているのだが、音がぐるぐるに廻って、その楽器からどの音が鳴っているのか、わからない。

 嬌声に眼をやると、欄干の上で軽業師が宙返りを繰り返している。豪奢な錦の衣装に赤い長髪。少し離れた場所に毛氈を敷いて体をゆすり、指を刺し、嬌声を上げているのは、一人の幼女と周りを囲む女房たちだった。皆、指や首が幼虫のように膨れ上がっている。

 喧噪の中、風が一陣吹いてきて、宴の席が左右に分かれたと見ると、ピアノが引き出されてきて、すぐ近くに設置された。小さい鮫ほどのピアノだ。

 白猫を抱いた黒衣の男がいつの間にかピアノの前に座っている。

「中将はピアノが気に入ったと見える。泉にピアノを蹴落とさないでおくれよ」

 猫男は右肩に白猫の前足をひっかけるようにして、背中全体にかぶさるように乗せると、もう一度座り直し、鍵盤を弾き始めた。

 そうだ、この猫だった。

 真っ白だと見えた猫は横腹にうす茶色の縞があり、それが音に合わせて動きはじめている。

 宴の喧噪は巻いていて、すぐ近くにあるはずのピアノの音もすんなりは聞こえてこないのだが、猫の毛並みの動きで音の流れが知れた。ゆるやかな、明るい、悲しい。

「飲むか」

 漏刻博士が杯を手渡してきて、右手で受け取ろうとするが、受け取れなかった。

「何を握りしめているのだ」

 漏刻博士の節高い長い指がわたしの手首を握り、もう一方の手で指を開かれる。

 私の指も漏刻博士の指も、中に握りこまれた鍵も、光の網の中だ。

「どこの鍵だ」

 錆びた古い鍵の姿だった。


 これは。

 これは鐘楼の鍵です。

 あの女神は地上でわたしと暮らしているうちにみるみる弱っていったのです。

 でもその間わたしも女神も確かに幸せだった。

 女神の魂が透明になり消えていく前に時を止めてしまいたかった。

 だから鐘楼に鍵をかけ、

 鐘をついて時を進めるのをやめた。

 わたし以外の時守たちが中に入れないようにしたのです。

 しかし女神は十日目にほとんど死んでしまった。

 そしてわたしはそのしぼんだ魂とこの鍵を持ってあの都を出奔し、遠く離れた海の中に浮かぶ小島にたどりつきました。

 船で気まぐれに海を渡りたどりついた小島でしばらく暮らしていましたが、百年ほどたったある夜、月は半分でしたがとても明るい夜、海に映った月の中に、なるべく高い崖から女神の魂だったものと鍵を抱いて飛び込みました。

 しかしやはりわたしひとりが残されてしまった。

 かなしいもさみしいも愛しいも苦しいも憎いも痛いもなにもかももう分からなくなってしまって、

 ただここにいるのです。


「なるほど」

 漏刻博士の声で眼を上げる。わたしは何か言ったのか。

 漏刻博士はまだわたしの手首をつかんでいた。その手が氷のように冷たいのに今更ながら気づく。

 ピアノの和音が振り向かせた。猫男と白猫が、そろってこちらに水色の眼を向けている。猫男は鍵盤を一瞥することなく指を鮮やかに躍らせていて、白猫の横腹の模様は今は雪の結晶の柄を展開していた。




「なるほど」

 少年の声。

 一転。

 ここはひるまの中で、あの部屋の中だった。

 漏刻博士の館から逃げた後に見つけた、元は海中の孤島だった山に立つ建物。

 わたしの手首を握っているのは白く細い薄い手のひらで、その持ち主は、ひざ詰めで正座している長い黒髪の…

 思わず手を引こうとするが黒髪の力は強かった。体温も高い。やけどしそうに熱い。

 鍵が手のひらに食い込み、おもわず指をほどくと、手の中にある鍵は最初に猫が運んできた小さな銀色の鍵に戻っていた。

 そういえば猫は、と見るとすぐ隣で香箱を組んでこちらを見上げている。

「あなたをつかまえる」

 少年の声の持ち主の女が告げたその時、部屋の入口に鍵が刺しこまれた音が響いた。

 座っている位置から見渡せるドアが、ふたりが見つめる中解錠され勢いよく開く。

 風と共に入ってきたのは、見知らぬ若い男だった。いや、見たことがあるか。

 こちらを見、部屋を見回すと、明るい茶色の瞳が大きくなり

「あっ、お前、中将だな。なんでここにいるんだ。あああ、俺のビール飲みやがって」

 大声でまくしたてたのに黒髪の力が一瞬抜けた。

 その隙に黒髪の体を蹴倒して手から逃れた。

 どこだ、どこに逃げる。

「信じらんない、もうすこしで中将捕まえられたのに。バカなの、急に入ってくるなんて」

「知らんわ。あっ俺のビール全部飲みやがったか」

 驚いた虎猫が飛び上がり、走り出した。その後を追いかける。部屋中に転がっていた空き缶が散らばり、明るい音を立てる。

「知らんわじゃないよ、中将の懸賞金は高いのよ。町ひとつ、時間が止まってるところを解除するんだから」

「そんなん、知っとるわ」

 虎猫は西側の猫ドアに向かっている。わたしも追いかける。体を一気に縮小し、猫と一緒に猫ドアが閉まる前に隣の部屋に滑り込み、猫の背中に飛びついた。

 飛び込んだ部屋には薄暗く、がらんと広かった。そして、人間がいた。

 猫の銀色の毛にしがみついたまま身をすくめると、虎猫が語りかけてきた。

「大丈夫、ハルミはあんたをつかまえない」

 その言葉が聞こえたように、ハルミなる顔の青白い男はそれまで座っていた椅子から立ち上がり、窓際まで歩くと、大きく窓を開けた。この部屋の窓はそのまま広いベランダにつながっている。男は片手に筆を持っていた。猫の背中にいるわたしと確かに眼が合ったが、何も言わずにそのまま椅子に戻っていった。

「ほらね。ハルミはやさしいからね」

 猫はそこからベランダの窓枠に飛び上がり、今度はくるりと向きを変え、そのまま雨どいに付けられている足場を使ってよじ登り、屋根へと飛び上がった。片勾配の屋根だ。風がつよく、緑と太陽のにおいがする。さらに身を縮め、ギルに虫のようにしがみついてからあたりを見回してみると、風で山々の葉が裏返って白く光っているのが見えた。そして階下から声が聞こえる。

「ハルミ、中将見たかい」

「中将は風に乗って逃げたよ。なに、ビール飲まれちゃったのか」

「二箱分全部。冷やしてなかった分も全部飲まれた」

「中将捕まえられたら、ビールなんて一年中飲みきれないほど買えたんだよ」

「中将は捕まえられないよ。ギルだってかばってたし、やめておけよ」

 階下からの声を聞きながら、ギルは悠々と屋根を横断し、寄り添うように生えているニセアカシアの木に飛び移った。

 夏の直射日光から逃れた格好で、昼の町並みを見渡す。

「あのさんにんは、きょうだいなんだよ」とギルが教えてくれる。

 わたしはちょっと前から笑いが止まらなくなっている。

 少し涙も出て、よく見えない眼で、漏刻博士の館はどこにあるのかな、などと見渡してみたりもする。

 ふと見ると、ギルの背中に銀色の鍵が乗っていた。握りしめていた鍵が跳ねたのを、器用に一緒に運んでくれたのか。

「これはにせもの。あんたをつかまえるための」

「やはりそうか」

 つぶやきながら鍵を蹴落とす。屋根から地面に落ちる寸前、低空飛行してきた鳥がくわえて、そのまま飛び去った。輝く翡翠の羽根。黒曜石の眼。カワセミか。

 そのままあの都へ飛んで行って、鐘楼の鍵を開けてくれてもいいのに、と長い滑空を見やる。

 夏の中、カワセミが飛んでいく。




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