4046の飛翔

春日希為

4046の飛翔

「托育ですか……?」

 担当医は私の膨らんだ腹にエコーを当てながらうーんと唸って、「成長してないからね」と言った。数ヶ月前に撮影したエコー写真とさっき撮影したものとを並べて画面に映しだし、ボールペンでPCの画面を叩いた。私は九十度傾いている自分の赤ちゃんを見て「なにがダメだったんでしょうか」と蚊の鳴くような声で尋ねた。

「お母さんは良くやっているよ。こればかりは運としか」

「死ぬんですか?」

「死なない死なない。今は托育があるから、すぐに処置すれば元気な赤ちゃんが生まれるよ」

「……でも、托育ってドナー適合者のよくない噂聞きますし、私もうちょっと……」

 自分でも制御の利かない不安が靄のように広がり、脳みそを曇らせていく。

 無意識に自分の膨らんだ腹を撫でる。ジェルのヌメヌメとした感触が私を現実に引き戻した。担当医は困り果てた顔をして顎を掻いている。

「あのねえ、赤ちゃんは待ってくれないの」

 聞き分けのない子供を窘めるような、呆れが混じった呼吸が検査機の間に交じって聞こえてくる。私は何にも言えず、服の端を握りしめた。沈黙を肯定と受け取った担当医は、ずっと隣で控えていた看護師に「パンフレット持ってきて」と頼んだ。看護師は私の腹を出しっぱなしにしたまま無言で出ていった。

 担当医は「大丈夫、羊水に異常はないから」と言って、ジェルを温いタオルで拭った。それほど不安そうな顔をしていたのだろう。しかし、私が本当に拭って欲しかった恐怖は拭われないままだった。


 暫くして、看護師がパンフレットと採血用の細い注射器を持って戻ってきた。担当医は「ありがとう」と手で会釈して注射器だけを取った。看護師は何も言わず、少し口角を上げるとパンフレットを机の上に置いた。そして定位置である私の横に戻ってきて、背筋をやや過剰に伸ばして立った。

 担当医は椅子を滑らせ、座ったまま採血台を持って頭の横に付いた。採血台が来たら、右腕を置くというのが体に染みついているせいか、私は何も言われなくても台に腕を置き、担当医も無言で二の腕を縛った。

 皮膚に食い込むゴムを境界線にして、不自然なほど白い腕と赤い腕の二重構造が出来上がる。青い血管が浮き上がってくると担当医はアルコール脱脂綿で消毒して、ぷすりと針を刺した。

 注射器に赤黒い血が溜まっていく。ゴムが徐々に緩められる。せき止められていた血液は再び循環を始めた。私の中から、血とそれから恐怖が抜き出された。



「私、逃げられちゃった」

 桐子は、ある日すっからかんになった体で突然やってきた。彼女が靴も脱がないまま玄関で崩れ落ちた時、私は夫に逃げられたんだなと勝手に解釈した。何を言っても玄関から動かない桐子を無理やりリビングの椅子に座らせてもまだ彼女は涙を零していた。

 桐子に最後に会ったのは確か妊娠二十週の時だった。やせ型の彼女の膨らんだ腹を見るのは新鮮で、それでいて奇妙な感じがしたのを覚えている。

 私は机に顔を伏せて、子どもみたいにわんわん泣き続ける桐子にどう言葉を掛けていいのか困り果て、取り敢えず飲み物を取って来ることにした。棚にある紅茶を見ながら、子供が生まれたからといってカフェインは良くないのではと考え、二人分の水を持って戻ると涙は止まったらしく、桐子は赤くなった鼻で必死に鼻水を啜っていた。

「どうしたの? 夫が逃げたの?」

 私がコップを差し出しながらそう切り出すと、桐子は腫れ始めた目を見開いて、手のひらを机に叩きつけた。

「違う! 私、托育してたの! でももうすぐ生まれるってなった時、相手が、あいつ私との臍の緒切りやがった! それで赤ちゃん死んだのよ!」

 桐子は言い切ると、水を一気に呷った。私はそんな桐子を見つめながら、何も言えないでいた。彼女とはいい友人だと思っていたがそんな彼女がそうした治療を選択していることをたった今知ったのだ。そして何も言えない一番の理由は私自身が妊娠を経験していないことにあった。


 ──世の中で、妊娠後様々な事情があって自身の栄養だけでは子供を育てられないという人の為に妊娠をしていない健康なドナーと妊婦との臍の緒を繋ぐ医療法が確立された。アメリカで最初に開発されて以降、先進国ヨーロッパでは三人、四人で一人の赤ちゃんを育てることが主流になった。それと同時期にようやく日本でも托育が認められた。

 当時そういうニュースを見て遠い話だと思っていたが、それをまさか身近な人が取り入れているとは考えもしなかった。

「切られた後にもう一度別の人と繋ぐってことは出来なかったの?」

 桐子を慰めるためだけに、当たり障りのない言葉を選んで返すと、桐子は私を腫れた目で睨んだ。充血した眼が、お前はなにを言っているんだと責める。淀んでいく空気と居心地をごまかすために水を飲んだ。普段は気にならない常温の温さが今は気持ち悪かった。

「無理よ。だって、私もう産気付いてたのよ。もうちょっとしたら生まれるって時だった」

 そう言ってまた、机に突っ伏して泣き始める桐子に、私は誰の為でもない優しさを辛抱強くかけ続けた。

 


 私は大きくなった腹を抱え、受付の椅子に座っていた。周りを見回せば、自分よりもお腹の大きい人が数人と、中には学生もちらほらと居る。一人、遠くからみても具合の悪そうな人がいて看護師に背中を摩られていた。私はぼんやりと上に掲げられたモニターを見つめながらこの中で、これから先托育を選択する人はどれくらいいるんだろうかと考えた。もし赤ん坊が出来て、育てられないと告げられた時、どれほどの人間が他人に命を半分預けることを選択できるのだろう。血も繋がりもなにもない人に自分の子供を育ててもらうことが本当に正しいのか。本当にそれだけしか子を救う方法がないのか。本当は知らないだけでもっといい別の方法があるのかもしれない。

 だけど、私が分かることはもうこの腹で私の子供は育たないということだけだった。

 気分を変えようと担当医に渡されてから目に触れないよう仕舞っていたパンフレットをカバンから取り出した。満開に咲く桜を背景に翼を大きく広げたコウノトリが微笑みながら飛んでいる全体的にふんわりとしていて可愛らしい表紙だ。『これからの托育』とデザインに合わない明朝体が浮いている。

 中を捲ってみると先ほど担当医が説明してくれたことがそっくりそのまま書かれていた。しかし、どのページを読んでも托育先が逃げた場合の話なんて書かれていない。最後のインタビュー欄では托育出産者が生まれた赤ん坊を抱き笑顔で「負担が減りました」と回答していた。

 確かに、コウノトリは赤ん坊を運んでくるのかもしれない。でも、コウノトリは運んでくるだけだ。運ばれてきた命をありがたく受け取って育てるのは私たち母親なのだ。


 あの日の桐子は今まで腹の中に溜まっていた羊水を吐き出すみたいに口から憎悪を吐き出していった。殺してやると言った次に私のせいだといい、脈絡のないように見える言葉達も彼女の頭の中では正しく繋がっているようだった。

 そんな状態の彼女を一人で帰すようなことは出来ず、私は桐子を家まで送っていった。呼び鈴を鳴らすと桐子の旦那さんが出てきて、青ざめた、しかし正気の目で、私に何度も深く頭を下げた。

 私は桐子が旦那さんに背中を摩られながら部屋の奥に消えていく時、へその辺りを撫で「もういない」と言ったのを今でも鮮明に覚えている。

 


 托育を受けることになったこと仕事から帰宅した夫に報告して例のパンフレットを差し出すと、夫はパラパラと捲り中身も読まず「ふーん、いいんじゃない?」と言っただけで、自分が期待していたような言葉は返さなかった。そして夫は自分のためのコーヒーを淹れるためキッチンへと姿を消した。普段なら気にならない豆の酸味の強い匂いが吐き気を誘い、私はキッチンの反対側にあるトイレに一人駆け込んだ。

 後日、病院の方から連絡が届いた。ドナーが見つかったので一週間以内に来院してくださいとの事だった。私はこの連絡が来るまで、未知の体験への不安からSNSで情報を集めては心を擦り減らしていた。

 良い面だけを見て安心していればいいのに、欠点が見つからないと逆に騙されている気がしてしまうのはなぜだろう。騙されてなんかいない。そう思いながらも誰かの失敗談を見ることを止められなかった。

 最終的に私は欠点で安心することを選んだ。私が知る中で最も托育のことを知る桐子に連絡を取ることにしたのだ。彼女は連絡するなりその日の内に自宅へ顔を出してくれた。

「急にごめんね」

 私が申し訳そうに言うと、桐子は「私も自分の醜態の尻拭いをしたくて」と目元に皺を寄せて笑った。紙袋をぶら下げている手を見ると、爪は短く切りそろえられ、フレンチネイルが施されていた。

 桐子はリビングに向かう際、私の背に手を添えて歩いた。こうやって誰かに体を労われるのは久しぶりで、廊下がもう少し長ければ良かったのにと思った。

「托育……するんだよね」

 私の顔色を窺いながら伏し目がちに尋ねる桐子に私はゆっくり頷いた。

「うん。それしか方法がないって」

「悪い事じゃないと思うよ。あんなことになった私が言うのもなんだけど。事実ダメなところもたくさんあるしさ。パンフレットは読んだ?」

 私は郵便物の下敷きになっていたパンフレットを引きずり出して彼女の前に滑らせた。どの病院でも同じパンフレットを配っているのだろう。桐子は迷うことなく目的のページを開いて私に見せ、トントンと誌面を叩いた。

「ここ、手術費用の欄なんだけど」

「うん。読んだよ。保険適用で安心した」

「いや、ここ……これね、ドナーにはお金が支払われるの。だから、これで儲けようって人がいるんだよ。ドナー登録して選ばれるだけで、お金出るの、無職の人とかでやる人結構いる。多分さ、ネットの悪い噂って全部これのことだと思う。私も最初さそれで結構キちゃって。気持ちはわかるよ」

「そ、そんなの逃げられて当然じゃない。桐子だってそうだったんでしょ?」

 机の上で組んだ手に力が入る。桐子は上から自分の手で覆い、優しく揉んだ。

「結局、満足に育てられない人達が托育するわけじゃん? だからドナー側の負担の方が大きくなるらしいよ。死亡例もあるし……。まあ、結局全部噂だけど。でも大丈夫だよ。今はね、昔よりか登録条件が厳しくなってるし、大丈夫。心配しているようなことはなにも起こらないよ」

 でも、でも……と否定する私に大丈夫だよと辛抱強く繰り返し言って聞かせ、パンフレットをゴミ箱に捨てた。

「後で分かったことなんだけど、相手の人事故で死んだだけだった」

「かわいそうにね。私もその子も最後まで自分で選べなかったんだ」

 そう言った時、彼女が今日誰の為に来たのかを理解した。


 それから私たちはこれからのことについて数時間話をした。

 お開きになったのは桐子が「そろそろ帰ってくる時間かな」と帰る準備を始めたからだ。私が「誰が?」と尋ねると、小学生の娘が返ってくると言うのだから驚いた。桐子が死産してからそれほど時間も経っていないことも相まって、問いただすと彼女は子供を育てたいという想いが捨てられず養子を取ったということだった。

「長い時間を掛けて考えた名前じゃなくても、娘にどんな理由があっても、あの子の螺旋が私たちと0パーセントの不一致でも。それでもコウノトリに運ばれてきた命には違いないよ」

 彼女の真っ直ぐな強さに思わず涙が溢れてしまいそうになり、私は桐子が持ってきた袋を広げた。袋の中には赤ちゃん用品がぎっしりと詰め込まれている。

「それ、よかったら使ってよ。元気な赤ちゃん、産むんでしょ?」

 ガラガラ、哺乳瓶、おしゃぶり。中にはミルクの粉末まである。ごちゃごちゃと固められた細かい消耗品の中に綺麗な箱が入っていたので開けてみると、中には鷹のワンポイントが刺繍されたロンパースが入っていた。

「あ、これかっこいいよね。お母さんからお祝いで貰ったの。一度も使わなかったけど」

 桐子は急ぎながらも律儀に私が貰い物を広げているのを見守っていた。まだ袋の中には沢山の物が詰まっていて、このままだと日が暮れてしまいそうだった。私は重い体を持ち上げて、玄関まで桐子を見送ると、桐子も名残惜しそうにパンプスを履いた。

「またなにかあったら連絡して。すぐに来るから」

「今日は本当にありがとう。……あ、でも一つだけ言っていい?」

「うん」

「私が産むのは女の子なんだよね」

「その意気だよ。誰よりも強い女の子産まなきゃ」

 桐子は私の膨らんだお腹を撫でて、「また会おうね」と囁き、娘が待つ家に帰っていった。


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