春の雨はその花の名を知らない

花野井あす

 さあさあと春の雨が降る。

 それは禊をするように大地をすすぎ、止めどなくすべての痕跡を洗い流していく。


 気が付けば、その少年は其処にいた。

 

 誰も彼も、少年の名を知らない。

 絹糸のごとく艶やかな白銀の髪に、びいどろ玉のように透き通った月色の瞳。――初め、彼を月の化身かと思い、村の人間たちは誰ひとり少年に声を掛けようとしなかった。ひとりの女を覗いて。


「お前さんは、精霊の一種――いや、その混じり物かい?」

 少年へ言葉を掛けたのは、長身の若い女だ。ばさばさに乾いた亜麻色の髪をうなじで束ね、切れ長の眼を瞬かせている。がっしりとした体つきや少し低めの声も相まって、黙していれば男にも見える。少年はぼんやりとその女を見上げて、

『……君はだれ?』

 と問い返した。

 

 少年にとっては日常の言葉だが、村の人間たちにとっては聞いたこともない、まるで歌っているような不思議な響きのある言葉だったらしい。

 当の少年の前で村の人間たちは騒々として、やはり人間では何かに違いないだの、精霊か月の化身に違いないだのと騒ぎ立てた――とは言っても、少年もまた、彼らの話す言葉を理解できなかった。淀んでいてざらざらとした、あまり綺麗な音のしない、奇妙な言葉だ。

 

 するとあの若い女は「ふむ」と独り言ち、言葉を続けた。

『なるほど、古代語ね。君はいったい何処から来たんだい?』

 すらすらと奏でられたのは少年と同じ言葉だ。少年は一瞬驚いたように大きな月色の目を瞬かせるも、すぐに落ち着気を取り戻して言葉を返す。

『わからない。ずっと旅をしている。もう、何年も何年もずっと、彷徨っている』

『君の話しているのは北方の古代語だよ。君、名は?』

『覚えていない。僕を覚えてくれないから、誰も僕の名を呼んでくれない……そうしているうちに、僕も自分の名を忘れた』

『覚えてくれない……?』

 

 きょとんとする女を前に、少年は目を伏せた。その表情は昏い。雨で頬に張り付いた白銀の髪を手で弄び、静かに言葉を落とす。

『君もきっと、明日か明後日かには僕を覚えていない。僕は誰の記憶にも留まれない』

 言い終えると、少年は口を噤んだ。

 

 するとまた、ざあざあと地面に打ち付ける雨音だけが周囲を包み込んだ。村の人間たちは奇異の目を少年へ向けて、少年と女の様子を伺っている。

 一方で、女は何かを考え込んでいるような、そんな素振りをしていた。しばらく思案したのち、ようやく女は口を開いた。

『そんな伝承を聞いたことがあるね。朔の夜の迷い人とかそんな名の伝承だ。君はその「迷い人」ではないかい?』

 

 朔の夜の迷い人。

 それは新月の夜に突然現れ、そして翌日忽然と姿を消したという不思議な旅人の伝承だ。

 それは遠い、遠い昔。ある新月の夜のこと。とある村で、突然見知らぬ旅人が現れたのだ。そうまさに、今のこの少年のように。

 旅人、と称したが、彷徨える人間というだけで、真に旅人なのかすら定かではない。誰も彼を記憶できなかったためだ。

 彷徨えるこの旅人を哀れに思った村人は彼を招いてやるが、その翌日は忽然と姿を消してしまったのだ。それもただ姿を消したわけではない。村人の記憶からも姿を消し、誰かをもてなした痕跡が残されたのだ。

 その痕跡から何者かがいたはずなのに、それが誰なのか誰ひとり覚えていない――そのような出来事が時おり各地で報告されるようになり、初めに報告されたのが新月の夜だったことから、その記憶に残らない誰かを「朔の夜の迷い人」と呼ぶようになったのだ。

 

 その伝承を知っていたのか、そうでないのか。少年は何も答えず、ただただ沈黙で返していた。

 彼からすれば、おのれがその伝承の当人であろうとなかろうと、どうでもいいことなのだ。どうせ、この会話もすべてなかったことにされるのだから。

 

 女がぽん、と手を叩いて言った。

『よし。あたしのところに来な』

 

 突然の提案に、村人は無論のこと、少年もまた目を剥いた。

『は?話、聞いてた?』

『あたしは精霊使いだからね。そういう不思議な出来事には慣れっこだし、というか好物だし、文字も書ける。記録しておけば、忘れたって会話はできるさ』

『無茶苦茶な……』

 唖然とする少年の様子に、女はからからと笑う。少年へ歩き寄ると、少年のずぶ濡れの頭を撫でて言葉を続けた。

 

『あたしはイルヴァ。よろしく、迷い子さん』

 

 にっと白い歯を見せて笑う女に、少年は何も言い返さなかった。どうせ面白半分で言っているだけで長くは続かない。忘れれば、それまでだ――そう、甘く考えていた。

 

 精霊使いというのが、途轍もない奇人変人のなるものなのだと知るまでは。そしてその、奇人変人な彼女に惹かれてしまう、その日までは。


 



「おおい。それ、取ってくれ」

 イルヴァの声に、少年は振り返った。

 

 ここはイルヴァの住まう場所。村はずれにある茅葺き屋根の小さな小屋で、少年の今の雨宿り場所でもあるのだが、とにかく散らかっていて足場がない。

 壁や天井には幾つものの薬草が吊るされ、小さな木の棚にはぎっしりと靑や緑、赤や黄、橙と色とりどりの石が保管されている。

 それだけならばよかったのだが、所狭しと薬の調合に使う道具や作りかけの薬、そして積み上げられた石板や書物と床がほとんど見えない。さすがに炉の周囲だけは空いているけれども。

 

 少年は呆れたように嘆息すると、

「イルヴァ、それってどれですか。というかいい加減、片付けてください」

 と言葉を返した。

 

 もう何年になるだろうか。

 少年は毎日、毎月、毎年とイルヴァと初対面の挨拶を交わし、イルヴァは自分で記録したものを元に少年が迷い人であり、自分の家に留め置いていることを理解した。

 本来ならば、「なんだこの記録は?」となるところを、イルヴァはあっさりと「興味深い」の一言で片付け、少年と出会う都度に少年を家へ迎え入れた。

 

 返事のないイルヴァに少年は眉を顰めると声を張って、

「イルヴァ、聞いているんですか?」

 と言いながら、少年はイルヴァのコレクションである文献のひとつを炉へ放り込もうとする。

 すると、それまで古代の伝承か何かが記されているらしい石板の解読に夢中になっていたイルヴァが勢いよく立ち上がって声を上げた。

「聞いてる聞いてる!頼むから文献を燃やそうとしないでおくれよ!」

 

 人質ならぬ物質である。少年は月色の目を半眼にして、「ならさっさと答えてください」と言った。

 ちなみに、もしここでイルヴァに剣を向けても、こうはならない。イルヴァにとってはコレクションの方が大事なのだ。

 心臓をぶちぬくぞ!よりも紙を燃やすぞ!の方が効果があるなんて、どうかしていると思うが、イルヴァ(というより精霊使い)とはそういう人間なのである。

 

 イルヴァは少年から文献を奪い返して、何故か文献をよしよしと撫でながら言葉を返す。

「それだよ、それそれ。今、君の足元にあるやつ」

「はあ?」

 と足を前に出しかけて少年は咄嗟に止めた。よく見れば、足元に砕く前の青い石――精霊石というらしい――があることに気が付いたのだ。あと一歩で踏み抜いていた。そう思うと、少年は生きた心地がしない。

 

「イルヴァ!大事な商売道具を床に放置しないでください!」

「後で回収しようと思ってたんだよ。でもさあ」

「でもさあ、じゃありません。こんなに狭かったら調合しづらいじゃないですか」

 

 きっぱりと言い切って、少年は戸棚から青と赤の石を取り出す。

 長いこと留まったおかげか、少年はイルヴァたちの言葉を話せるようになっていた。丁寧口調なのは、世話になっているというのもあるが――。

 

 イルヴァは悩ましげに言葉を落とす。

「まったく、あたしの弟子は小五月蠅くてたまらんよ」


 

 迷い人の少年は彼女の弟子になっていた。

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